立花小一郎
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立花 小一郎(たちばな こいちろう、1861年3月20日(万延2年2月10日)- 1929年(昭和4年)2月15日[1])は、日本の陸軍軍人、政治家。男爵、陸軍大将、第10代福岡市長、貴族院議員。
経歴
[編集]万延2年(1861年)、三池藩家老(藩主の分家)立花景福、通称:碩(おおい)の長男として生れる。弟の立花銑三郎は夏目漱石や正岡子規の同輩で、学習院大学教授として教育学や社会学を論じた。チャールズ・ダーウィンの「種の起源」を日本で初めて翻訳したが、日本への帰途の船中で若くして没した。
1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、陸軍少尉任官[2]。1889年(明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を優等で卒業した。陸士教官、参謀本部第1局員を歴任し、日清戦争では第1軍参謀として出征した。1896年(明治29年)から1899年(明治32年)までオーストリアに留学し、その後、清国駐屯軍参謀、参謀本部付(袁世凱軍事顧問)、陸軍省人事局恩賞課長、補任課長などを歴任した。
日露戦争では、第4軍参謀副長として出征した。1905年(明治38年)3月、奉天会戦直前に陸軍大佐に進級し大本営参謀に発令され帰国した。さらにポーツマス講和会議全権随員、アメリカ大使館付、陸軍省副官などを経て、1909年(明治42年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長、歩兵第30旅団長、近衛歩兵第1旅団長、朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮駐剳憲兵隊司令官兼朝鮮総督府警務総長を務める。1914年(大正3年)8月、陸軍中将となり、第19師団長、第4師団長、関東軍司令官を歴任。1920年(大正9年)8月、陸軍大将となり、シベリア出兵では、最後の浦塩派遣軍司令官を務めた。その後、軍事参議官を務め1923年(大正12年)3月に予備役に編入。同年10月、男爵を叙爵し華族となる。
その後、1924年(大正13年)8月から翌年8月まで福岡市長に在任。1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[3]、公正会に所属してから1929年2月の死去まで務めた[1][4]。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1884年(明治17年)2月9日 - 正八位[5][6]
- 1889年(明治22年)7月15日 - 従七位[5][7]
- 1894年(明治27年)4月30日 - 正七位[5][8]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 従六位[5][9]
- 1903年(明治36年)10月10日 - 正六位[5][10]
- 1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[5][11]
- 1909年(明治42年)10月20日 - 正五位[5][12]
- 1914年(大正3年)9月1日 - 従四位[5][13]
- 1916年(大正5年)9月20日 - 正四位[5][14]
- 1919年(大正8年)10月10日 - 従三位[5][15]
- 1922年(大正11年)10月20日 - 正三位[5][16]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 従二位[17]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[18]
- 1915年(大正4年)
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[21]
- 1921年(大正10年)1月14日 - 一等大綬嘉禾章[22]
- 1923年(大正12年)10月16日 - 男爵[23]
家系
[編集]立花貫長 ┣━━━┳━━━┳━━┓ 長煕 黒田直巷 直尹 応興 ┃ (数代略) ┃ 包高 ┣━━┓ 高景 景福 ┣━━━┳━━━┓ 小一郎 銑三郎 ミイ(宮崎民蔵室)
脚注
[編集]- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』77頁。
- ^ 『官報』第151号、明治16年12月27日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、37頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 「陸軍大将秋山好古外二名特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113166400
- ^ 『官報』第204号「賞勲叙任」1884年3月7日。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第3248号「叙任及辞令」1894年5月1日。
- ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第6085号「叙任及辞令」1903年10月12日。
- ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
- ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。
- ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
- ^ 『官報』第1244号「叙任及辞令」1916年9月21日。
- ^ 『官報』第2157号「叙任及辞令」1919年10月11日。
- ^ 『官報』第3068号「叙任及辞令」1922年10月21日。
- ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ “政府広報第1760号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年12月28日閲覧。
- ^ 『官報』第3347号「授爵・叙任及辞令」1923年10月18日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 土田宏成「立花小一郎」『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館、2004年。ISBN 4-642-01341-5
外部リンク
[編集]
公職 | ||
---|---|---|
先代 久世庸夫 |
福岡市長 第10代:1924 - 1925 |
次代 時実秋穂 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 立花(小一郎)家初代 1923年 - 1929年 |
次代 立花馨 |