コンテンツにスキップ

石川貫之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石川 貫之
第2航空団司令当時(1967年)
生誕 (1917-02-07) 1917年2月7日
大日本帝国の旗 大日本帝国 京城府
死没 (1994-07-11) 1994年7月11日(77歳没)
日本の旗 日本 埼玉県
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
航空自衛隊
軍歴 1938 - 1945(日本陸軍)
1952 - 1952(予備隊)
1952 - 1954(保安隊)
1954 - 1971(空自)
最終階級 陸軍少佐(日本陸軍)
航空幕僚長たる空将(空自)
テンプレートを表示

石川 貫之(いしかわ かんし、1917年大正6年)2月7日 - 1994年平成6年)7月11日)は、日本陸軍軍人航空自衛官最終階級は日本陸軍では陸軍少佐航空自衛隊では航空幕僚長たる空将

経歴

[編集]

果樹園経営・石川琢次の二男として生まれる。大分中学を卒業し、陸軍士官学校に入校。旧陸軍時代は当初、軽爆撃機操縦者であり、飛行第16戦隊に所属していた1939年(昭和14年)、ノモンハン事件で初陣を迎える[1]。同年8月には九七式軽爆撃機で出撃し、ソ連軍I-16に撃墜され草原に不時着したが、間一髪のところで友軍機に救助されたという[1]

1941年(昭和16年)3月、大尉に進級すると同隊の中隊長となるが、1943年(昭和18年)夏、飛行分科戦闘に転科[1]明野陸軍飛行学校の北伊勢分教所で訓練をうけた後、1944年(昭和19年)8月、二式戦闘機「鐘馗」を装備する飛行第246戦隊の戦隊長となる[1]1945年(昭和20年)4月、同隊が四式戦闘機「疾風」に機種改編[1]し、本土防空戦で活躍、最終的に10機撃墜の戦果を残しエース・パイロットとなる。

戦後は公職追放となり、警察予備隊を経て空自に入隊し、F-86F操縦課程の米留第1期生となる[1]。帰国後は航空団の初代第1飛行隊長を務めた[2]。その後、第2航空団司令等を経た航空幕僚監部防衛部副部長在任中の1968年(昭和43年)7月にFX(次期主力戦闘機)の調査団副団長として渡米し[3]F-4戦闘機の選定に携わる。その後も空幕監察官、西部航空方面隊司令官飛行教育集団司令官等の要職を経て、1971年(昭和46年)7月1日、航空幕僚副長に就任するが就任直後の7月30日全日空機雫石衝突事故が発生した。事故処理が終わった8月10日に航空幕僚長の上田泰弘が辞任し[4]、第10代航空幕僚長に就任した。2年間の在任中に沖縄が返還され、南西航空混成団を組織した[4]

飛行時間は陸軍、空自を通じて5,000時間[1]

年譜

[編集]

栄典

[編集]
  • 勲二等瑞宝章 - 1991年(平成3年)11月3日

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 航空情報(1981年2月号「人物スポットライト」 ,p130-131)
  2. ^ JASDFセイバースペシャル, 航空情報 編 1983年5月
  3. ^ FXをめぐる"黒い噂" / 「軍事研究」1968年9月 P115~145 ジャパンミリタリー・レビュー
  4. ^ a b 歴代空幕長の功罪を問う / 小名孝雄「軍事研究」 1985年7月 P88~101 ジャパンミリタリー・レビュー
  5. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、42頁。NDLJP:1276156 
  6. ^ 『官報』号外第160号(平成3年11月5日)
  7. ^ 「秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、在日外国人、外国人の受章者」『読売新聞』1991年11月3日朝刊
  8. ^ 『官報』本紙第1460号(平成6年8月10日)

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
先代
上田泰弘
航空幕僚長
第10代:1971年 - 1973年
次代
白川元春
先代
上田泰弘
航空幕僚副長
第12代:1971年
次代
白川元春