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== 改元 ==
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*永禄13年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[ユリウス暦]]1570年[[5月27日]]) 戦乱などの災異のため改元
*永禄13年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[ユリウス暦]]1570年[[5月27日]]) 戦乱などの災異のため改元
*元亀4年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]](ユリウス暦[[1573年]][[8月25日]]) 天正に改元
*元亀4年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]](ユリウス暦[[1573年]][[8月25日]]) 天正に改元


義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した(『言継卿記』永禄12年4月8日条ほか)。しかし[[織田信長]]はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対した。しかし義昭は朝廷を説得するために[[下行]]費用の名目で5000疋もの朝廷への献金を実施(『康雄記』同4月6日条)し、信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を実行している。
義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した(『言継卿記』永禄12年4月8日条ほか)。これに対て、[[織田信長]]はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対した。しかし義昭は朝廷を説得するために[[下行]]費用の名目で5000疋もの朝廷への献金を実施(『康雄記』同4月6日条)し、信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を実行している。


信長は[[信長包囲網]]の中で悪戦苦闘を続けていた。『[[信長公記]] 巻六』によると、元亀3年([[1572年]])9月に足利義昭に提出した17か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭追放後に改元を実行させたことからも、信長にとって元亀の年号は不愉快なものだったと推察される。
信長は[[信長包囲網]]の中で悪戦苦闘を続けていた。『[[信長公記]] 巻六』によると、元亀3年([[1572年]])9月に足利義昭に提出した17か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭追放後に改元を実行させたことからも、信長にとって元亀の年号は不愉快なものだったと推察される。
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** 2月から4月 - [[甲斐国]]の[[武田氏]]による大規模な三河・遠江侵攻?<ref>通説では元亀2年に武田氏による大規模な三河・遠江侵攻が行われたとされているが、近年は根拠となる文書群の再検討により、これは天正3年の出来事であることが指摘されている。詳細は[[西上作戦]]の脚注を参照。</ref>
** 2月から4月 - [[甲斐国]]の[[武田氏]]による大規模な三河・遠江侵攻?<ref>通説では元亀2年に武田氏による大規模な三河・遠江侵攻が行われたとされているが、近年は根拠となる文書群の再検討により、これは天正3年の出来事であることが指摘されている。詳細は[[西上作戦]]の脚注を参照。</ref>
** 5月 - 信長、[[伊勢長島]]の[[一向一揆]]を攻める。
** 5月 - 信長、[[伊勢長島]]の[[一向一揆]]を攻める。
** 12月17日 - [[甲相同盟]]回復
** 12月17日 - [[甲相同盟]]回復
**[[9月12日]] - [[織田信長]]、[[延暦寺]]を焼き討ちにする(元亀の法難)。
**[[9月12日]] - [[織田信長]]、[[延暦寺]]を焼き討ちにする(元亀の法難)。
* 3年([[1572年]])
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== 脚注 ==
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2016年10月6日 (木) 16:26時点における版

元亀(げんき)は、日本元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇正親町天皇室町幕府将軍は足利義昭

改元

義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した(『言継卿記』永禄12年4月8日条ほか)。これに対して、織田信長はそれが将軍権威の復活につながること、正親町天皇の在位が続いているのに必要ないと反対した。しかし、義昭は朝廷を説得するために下行費用の名目で5000疋もの朝廷への献金を実施(『康雄記』同4月6日条)し、信長が朝倉氏討伐に出陣した4月23日、改元を実行している。

信長は信長包囲網の中で悪戦苦闘を続けていた。『信長公記 巻六』によると、元亀3年(1572年)9月に足利義昭に提出した17か条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。義昭追放後に改元を実行させたことからも、信長にとって元亀の年号は不愉快なものだったと推察される。

出典

毛詩』の「憬彼淮夷、来献其、元亀象歯犬賂南金」と『文選』の「元亀水処、潜竜蟠於沮沢、応鳴鼓而興雨」から。勧進者は式部大輔高辻長雅

元亀期におきた出来事

誕生

死去

脚注

  1. ^ 通説では元亀2年に武田氏による大規模な三河・遠江侵攻が行われたとされているが、近年は根拠となる文書群の再検討により、これは天正3年の出来事であることが指摘されている。詳細は西上作戦の脚注を参照。
  2. ^ 没年月日は「成慶院過去帳」「引導院過去帳」に拠る

西暦との対照表

※は小の月を示す。

元亀元年(庚午 一月 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月
ユリウス暦 1570/2/5 3/7 4/6 5/5 6/4 7/3 8/2 8/31 9/30 10/29 11/28 12/27
元亀二年(辛未 一月※ 二月 三月※ 四月 五月 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月※
ユリウス暦 1571/1/26 2/24 3/26 4/24 5/24 6/23 7/22 8/21 9/19 10/19 11/17 12/17
元亀三年(壬申 一月 閏一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1572/1/15 2/14 3/14 4/13 5/12 6/11 7/10 8/9 9/8 10/7 11/6 12/5 1573/1/4
元亀四年(癸酉 一月※ 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 七月 八月※ 九月 十月 十一月※ 十二月
ユリウス暦 1573/2/3 3/4 4/2 5/2 5/31 6/29 7/29 8/28 9/26 10/26 11/25 12/24

関連項目