高辻長雅
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高辻 長雅(たかつじ ながまさ、永正12年8月25日(1515年10月2日)-天正8年9月10日(1580年10月18日))は、戦国・安土桃山時代の公卿。高辻章長の長男。母は町広光の娘。同母弟に町資将。法名・文盛。
概要[編集]
永正18年(1521年)に7歳で元服して文章得業生になり、4月に従五位下侍従に任ぜられる。11歳で父を失うが、同族の五条為学の庇護を受けた[1]。享禄5年(1532年)7月には大内記・文章博士になり、翌天文元年(1533年)には少納言に任じられた。天文12年(1543年)には東坊城和長が文明14年(1482年)に著した『桂蘂記』を補足している。天文16年(1547年)2月24日に従三位左大弁に任ぜられ、翌天文17年(1548年)3月23日には参議に任ぜられた。天文20年(1551年)3月27日には大学頭を兼ね、天文24年(1555年)2月2日に41歳で権中納言に任ぜられた。永禄2年(1559年)1月6日に正二位に叙せられ、11月10日には兼任していた文章博士を辞任して式部大輔に任ぜられる。その後、永禄5年(1563年)11月に権中納言を辞任する(式部大輔は留任)が、翌年11月に五条為康(為学の子)の急死を受けて北野の長者となった。元亀・天正の両元号の勘進者、後に第14代征夷大将軍となる義栄の勧進者[2]として知られている。天正8年1月20日に権大納言に任ぜられるが、わずか8か月後に66歳で急死した。
なお、子供に恵まれず、五条為康の子・貞長(後の五条為経)を養子としていたが、為康の死によって五条家の断絶したことにより実家に戻って相続した。その後、長雅は後継者を決めることなく没したため、高辻家は五条為経の子・遂長が相続するまで一時断絶することになる。
脚注[編集]
- ^ 五条為学もかつて両親を失って孤児同然となった時に、長雅の祖父にあたる高辻長直に庇護されている。また、章長が地方下向中に長直が死去した際には章長・長雅に代わって後始末を行っている(『実隆公記』大永2年3月・閏3月分紙背文書「五条為学書状」)。
- ^ 『言継公記』永禄9年12月21日条。
参考文献[編集]
- 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年 ISBN 978-4-642-01442-7 P772
- 伊藤慎吾『室町戦国期公家社会と文事』三弥井書店、2012年 ISBN 978-4-8382-3218-5 P81-84・128-129・158