「ティルチラーパッリ」の版間の差分
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ティルチラーパッリの歴史は古く、[[6世紀]]に[[パッラヴァ朝]]の[[マヘーンドラヴァルマン1世]]がこの地を支配下に置いたのをはじめ、[[12世紀]]に[[チョーラ朝]]、同世紀末には[[パーンディヤ朝]]の支配下に置かれた。 |
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2014年10月12日 (日) 05:07時点における版
ティルチラーパッリ திருச்சிராப்பள்ளி Tiruchirappalli | |
ティルチラーパッリの位置 (タミル・ナードゥ州 とインド内) | |
座標: 北緯10度49分 東経78度41分 / 北緯10.81度 東経78.69度 | |
国 | インド |
州 | タミル・ナードゥ州 |
行政区 | ティルチラーパッリ県 |
Mayor | Sarubala Thondaiman |
人口 • 密度 • 都市圏 |
846,915[1] (2011年現在) • 8740/km2 • 1,022,000[2] |
標準時 | IST (UTC+5:30) |
面積 • 海抜 |
96.90 km2 • 85 m |
公式サイト | www.trichy.com |
座標: 北緯10度49分 東経78度41分 / 北緯10.81度 東経78.69度
ティルチラーパッリ(タミル語: திருச்சிராப்பள்ளி、英語: Tiruchirappalli)は、南インドのタミル・ナードゥ州にある都市で、現在はティルチラーパッリ県の県庁所在地。現地ではティッルチラーッパッリ (tiruccirāppaḷḷi)の発音が近いようである。
略してティルチ(திருச்சி : Tiruchi または Trichy)と呼ばれることが多く、イギリス統治下ではトリチノポリ (Trichinopoly)と呼ばれていた。カーヴェーリ川沿いに発達した都市で、タミル・ナードゥ州のほぼ真ん中に位置する。
都市名
都市の名称であるティルチラーパッリはタミル語であり、「ティル」「チラー」「パッリ」の3つの部分に分けられる。「ティル」は「吉祥なる」という、人名あるいは地名に対する接頭辞である。「チラー」は、ジャイナ教の修行者であった人物の名前である。「パッリ」とは「ジャイナ教寺院」という一般名詞である。したがって、ティルチラーパッリとは「吉祥なるチラーの寺院」という意味である。
あるいは、「ティルチラー」とは「シュリーランガナータン」が訛った語形であり、ティルチラーパッリとは「吉祥なるランガナータンの寺院」という意味であるとする異説がある。
歴史
ティルチラーパッリの歴史は古く、6世紀にパッラヴァ朝のマヘーンドラヴァルマン1世がこの地を支配下に置いたのをはじめ、12世紀にチョーラ朝、同世紀末にはパーンディヤ朝の支配下に置かれた。
1310年にハルジー朝の武将マリク・カーフールが占領し、その後はマドゥライ・スルターン朝の支配下に置かれたが、1370年代にはヴィジャヤナガル王国のクマーラ・カンパナが征服した。
その後、この地はマドゥライ・ナーヤカ朝の支配下に置かれ、しばしばその首都となり、1736年にカルナータカ太守の一族チャンダー・サーヒブによって占領された。
その後、第二次カーナティック戦争においては、マイソール王国とカルナータカ太守がこの地の支配権をめぐり争った。
1795年、ムハンマド・アリー・ハーンがマドラスで死亡した際、その遺体はティルチラーパッリへと埋葬された。
1801年、イギリスはカーナティック条約でこの地を獲得し、1947年までその統治下に置かれた。
脚注
- ^ “Provisional Population Totals, Census of India 2011” (PDF) (英語). インド内務省. 2013年8月2日閲覧。
- ^ “Demographia World Urban Areas - 9th Annual Edition” (PDF) (英語). Demographia (2013年3月). 2013年8月2日閲覧。
関連項目
外部リンク
- ティルチラーパッリ県 (英語)
- シュリーランガム寺院 (英語)