チャンダー・サーヒブ

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チャンダー・サーヒブ
Chanda Sahib
カルナータカ太守
在位 1749年1752年
別号 ナワーブ
全名 フサイン・ドースト・ハーン
出生 不詳
死去 1752年6月12日
タンジャーヴール
子女 ラザー・サーヒブ
宗教 イスラーム教
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チャンダー・サーヒブ(Chanda Sahib, 生年不詳 – 1752年6月12日)は、南インドの対立カルナータカ太守(在位:1749年 – 1752年)。本名はフサイン・ドースト・ハーン(Hussain Dost Khan)といった。

生涯[編集]

マドゥライ・ナーヤカ朝の併合[編集]

チャンダー・サーヒブは、カルナータカ太守ドースト・アリー・ハーンの娘婿であり、またその代理人でもあった。

1734年マドゥライ・ナーヤカ朝で内乱が起きた際、カルナータカ地方政権は遠征軍を派遣し、チャンダー・サーヒブはこの遠征の総大将であった義理の兄弟サフダル・アリー・ハーンを支えた。このとき、彼らはティルチラーパッリマドゥライを横切り、ケーララ地方トラヴァンコール王国を席巻した。

1736年 、マドゥライ・ナーヤカ朝で内乱が起こったため、チャンダー・サーヒブはティルチラーパッリに行き、その女王ミーナークシともに反乱を起こしたバンガル・ティルマライ・ナーヤカを破った。だが、彼はその直後にミーナークシを捕え、自身がマドゥライ・ナーヤカ朝を支配すると宣言した。

タンジャーヴール・マラーター王国への圧力[編集]

さらに、チャンダー・サーヒブはこの勝利に乗じて、同年4月にはタンジャーヴール・マラーター王国の首都タンジャーヴールを包囲し、1739年以降はさらに圧力をかけた。

同年2月、チャンダー・サーヒブはタンジャーヴール・マラーター王シャーフージー2世に対し、フランス東インド会社カーライッカールを割譲するように要求し、同年4月に拒否されたものの、7月にはこの地を割譲した。

そのため、シャーフージー2世はナーガパッティナムオランダ東インド会社セント・デーヴィッド要塞イギリス東インド会社に接近して助力を求めたが、失敗に終わった。チャンダー・サーヒブはこの企みを知り、タンジャーヴール・マラーター王国]]は侵攻した。シャーフージー2世はマラーター王国に救援の手紙書いたが間に合わず、首都タンジャーヴールは落とされ、シャーフージー2世を廃位した。

タンジャーヴールはチャンダー・サーヒブの支配下にあったが、1740年になってようやくシャーフージーがマラーター王国に送った援軍要請により、ナーグプルのボーンスレー家が大軍を引き連れてやってきた[1]。その軍勢がカルナータカ太守の領土に侵入すると、チャンダー・サーヒブはその援軍に向かった。

同年5月20日、チャンダー・サーヒブは太守ドースト・アリー・ハーンとともに、ダーマルチェルヴでマラーター軍と戦った(ダーマルチェルヴの戦い)。だが、太守は殺害され、チャンダー・サーヒブは戦場から逃げた[1]

ドースト・アリー・ハーン殺害後、チャンダー・サーヒブはその息子サフダル・アリー・ハーンとの間で太守位をめぐって争ったが、後者がラグージー・ボーンスレーの支持を得て、11月16日に新太守となった[2][3]。一方、チャンダー・サーヒブへと逃げ、ティルチラーパッリに籠城したが、1741年初頭に ティルチラーパッリ包囲戦で捕虜になり、マラーター王国の首都サーターラーへと送られた[3]

カーナティック戦争[編集]

1742年10月13日、サフダル・アリー・ハーンは従兄弟ムルタザー・アリー・ハーンに暗殺されたが、ニザームがこれに介入した[3]。これにより、サフダル・アリー・ハーンの幼少の息子サアーダトゥッラー・ハーン2世が太守位を継ぎ、その後見役にホージャ・アブドゥッラー・ハーンが任命された[3]

また、ニザームとカルナータカ太守の軍勢はティルチラーパッリのマラーター勢力を包囲し、8月29日にこれを占領した(ティルチラーパッリ包囲戦[4]

だが、1744年3月にホージャ・アブドゥッラー・ハーンが暗殺されると、ニザームの代官アンワールッディーン・ハーンが太守の後見役となった[3][5]。同年7月にはサアーダトゥッラー・ハーン2世も暗殺され、ナワーヤト朝の直系の血筋が絶えると、アンワールッディーン・ハーンがニザーム王国により新太守に任命され、アンワーリーヤ朝が成立した[6]

これに激怒したのがナワーヤット家のチャンダー・サーヒブだった。彼はサアーダトゥッラー・ハーン2世の義理の叔父で、ドースト・アリー・ハーンの娘婿である自分こそが新太守にふさわしいと思っていた。彼はフランスの[[ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス ]]とチャンダー・サーヒブ、ニザーム王国のムザッファル・ジャングらと結び、太守位を狙った。

そして、1749年8月3日にチャンダー・サーヒブはフランス、ムザッファル・ジャングと連合して、アンワールッディーン・ハーンとアンブールで戦い、これを敗死に追い込んだ(アンブールの戦い[7]

アンワールッディーン・ハーン殺害後、その息子ムハンマド・アリー・ハーンが新太守となったが、チャンダー・サーヒブも太守位を宣し、2人の太守が両立するかたちとなった。 ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスと結んで、ティルチラーッパッリの城塞に逃げ込み、チャンダー・サーヒブはフランスと結び、第二次カーナティック戦争が勃発した[7]。また、ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスのほかにも、ニザーム王国の君主ナーシル・ジャングマイソール王国タンジャーヴール・マラーター王国とも同盟した[8]

1750年4月5日および1751年1月21日には、ムガル帝国の皇帝アーラムギール2世の勅状により、ムハンマド・アリー・ハーンはアンワールッディーン・ハーンの後継者であり、カルナータカ太守であると認められた[9]。他方、チャンダー・サーヒブもムガル帝国の皇帝アフマド・シャーに太守位の叙任を要請している。

1751年から1752年にかけて、チャンダー・サーヒブはフランスの援助のもと、ムハンマド・アリー・ハーンの篭城するティルチラーパッリ要塞を攻めた(ティルチラーパッリ包囲戦[10]

だが、チャンダー・サーヒブはこの包囲に兵員の大部分を割き、首都アルコットが手薄となっていたため、1751年12月にアルコットはイギリスのロバート・クライヴに奪われてしまった(アルコットの戦い[7]

1752年4月にはチャンダー・サーヒブ自身も敗れ、タンジャーヴール・マラーター王国に援助を求めたが、同年6月12日に裏切られて殺害された[8][11]。その後、デュプレクスは善戦したものの、1754年8月に戦費の問題から帰還させられ、10月に和議が結ばれ戦争は終結した[8]

その後、チャンダー・サーヒブの息子レザー・サーヒブはナワーヤト家による太守位の奪還を目指して戦い続け、フランスから軍事的支援を受けた[8]。だが、フランスが第三次カーナティック戦争により敗北したことで、イギリスの南インドにおける優位が決まった。そして、1763年2月第三次カーナティック戦争と併行して行われた七年戦争フレンチ・インディアン戦争の講和条約であるパリ条約により、ムハンマド・アリー・ハーンが正式に太守となった[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.197
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.38
  3. ^ a b c d e 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.198
  4. ^ Advanced study in the history of modern India 1707-1813
  5. ^ Arcot 6
  6. ^ Arcot 6
  7. ^ a b c チャンドラ『近代インドの歴史』、p.59
  8. ^ a b c d 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.199
  9. ^ a b Arcot 9
  10. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.59-60
  11. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.40

参考文献[編集]

  • ビパン・チャンドラ; 栗原利江訳 『近代インドの歴史』 山川出版社、2001年 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 

関連項目[編集]