「酒匂 (軽巡洋艦)」の版間の差分
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1945年12月1日[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に指定され釜山やニューギニアなどで復員輸送に従事。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員900名に対し、この時点の酒匂には300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し、甲板に居住区やトイレが設置された<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』412-413頁「復員航海」</ref>。武装は15cm砲のみ撤去し、砲塔は残っていた。艦内秩序は維持され、同乗した豪州海軍の少尉が敬礼を求めると、大原艦長は「こっちは大佐だ」とやり返したという<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』414頁</ref>。 |
1945年12月1日[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に指定され釜山やニューギニアなどで復員輸送に従事。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員900名に対し、この時点の酒匂には300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し、甲板に居住区やトイレが設置された<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』412-413頁「復員航海」</ref>。武装は15cm砲のみ撤去し、砲塔は残っていた。艦内秩序は維持され、同乗した豪州海軍の少尉が敬礼を求めると、大原艦長は「こっちは大佐だ」とやり返したという<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』414頁</ref>。 |
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函館港から釜山港へ1000名ほどの朝鮮人労働者を送り届けた際には、 |
当時の乗組員の手記によれば、函館港から釜山港へ1000名ほどの朝鮮人労働者を送り届けた際には、戦勝国民を宣言し士官居住区解放を求める韓国人労働者と酒匂乗組員との間に対立が起こった<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』416頁</ref>。だが酒匂が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは[[乗り物酔い|船酔い]]に悩まされ、交渉は取りやめとなった<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417頁</ref>。この時、韓国人労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂乗員は泣かされることになったという<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417-418頁、「軍艦『酒匂』始末記」</ref>。1946年2月25日に特別輸送艦の指定を解除されたあと、[[核実験]]([[クロスロード作戦]])の標的艦として[[戦艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」などとともに、横須賀でアメリカ海軍に引き渡された。日本海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われたが、意思疎通不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた。負荷が取り除かれた巡航タービンは規定回転数を超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵と米兵はあわてて逃げだして事なきを得た。結果タービン1基が破損し3軸運転となった。操縦指導は20日間に渡って実施された。ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗が求められたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によってのみ行われた。 |
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1946年7月1日 [[ビキニ環礁]]で行われた核実験では、艦のほぼ上空で爆弾が爆発し、その強力な爆風により艦橋より後方の構造物がすっかりなぎ倒される<ref name="井川418">井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」</ref>。7月2日、丸一日近く炎上した後に沈没した<ref name="井川418"/>。 |
1946年7月1日 [[ビキニ環礁]]で行われた核実験では、艦のほぼ上空で爆弾が爆発し、その強力な爆風により艦橋より後方の構造物がすっかりなぎ倒される<ref name="井川418">井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」</ref>。7月2日、丸一日近く炎上した後に沈没した<ref name="井川418"/>。 |
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[[Category:日本の巡洋艦]] |
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[[Category:1944年竣工船]] |
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2014年5月17日 (土) 18:44時点における版
艦歴 | |
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発注 | 1939年(マル4計画) |
起工 | 1942年11月21日 佐世保工廠 |
進水 | 1944年4月9日 |
就役 | 1944年11月30日 |
その後 | 標的艦としてクロスロード作戦に使用され1946年7月2日沈没 |
除籍 | 1945年10月5日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:6,652トン 公試:7,710トン |
全長 | 174.50m |
全幅 | 15.20m |
吃水 | 5.63m |
主缶 | 艦本式ロ号缶6基 |
機関 | 艦本式タービン4基4軸 100,000hp |
最大速力 | 35.0ノット |
巡航速度 | 18ノット |
航続距離 | 6,000海里 |
乗員 | 730名 |
兵装 | 15.2cm連装砲3基6門 65口径7.6cm連装高角砲2基4門 61cm四連装魚雷発射管2基8門 |
搭載機 | 2機(射出機1基) |
酒匂(さかわ)は、太平洋戦争中に建造された日本海軍の軽巡洋艦で、阿賀野型の4番艦。名前は静岡県および神奈川県を流れる酒匂川からとられている。戦争末期に竣工したため、作戦参加の機会もなく太平洋戦争終戦時は最後の水雷戦隊旗艦として舞鶴にて無傷で残存していた。終戦後は復員船として活動した。
艦歴
1942年11月21日、佐世保工廠で起工。1944年4月9日進水。同年11月30日竣工。 上記にあるように、作戦参加の機会もなくもっぱら内地で訓練に従事していた。
1945年3月には僚艦の矢矧とともに天一号作戦に参加する予定となり呉に移動したが、直前になって酒匂の出撃は中止され、呉工廠岸壁に係留。燃料不足のため、陸上から電気を引きボイラーの火は消された状態となった。終戦時は舞鶴にて無傷で残存。1945年10月1日除籍。
1945年12月1日特別輸送艦に指定され釜山やニューギニアなどで復員輸送に従事。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員900名に対し、この時点の酒匂には300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し、甲板に居住区やトイレが設置された[1]。武装は15cm砲のみ撤去し、砲塔は残っていた。艦内秩序は維持され、同乗した豪州海軍の少尉が敬礼を求めると、大原艦長は「こっちは大佐だ」とやり返したという[2]。
当時の乗組員の手記によれば、函館港から釜山港へ1000名ほどの朝鮮人労働者を送り届けた際には、戦勝国民を宣言し士官居住区解放を求める韓国人労働者と酒匂乗組員との間に対立が起こった[3]。だが酒匂が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは船酔いに悩まされ、交渉は取りやめとなった[4]。この時、韓国人労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂乗員は泣かされることになったという[5]。1946年2月25日に特別輸送艦の指定を解除されたあと、核実験(クロスロード作戦)の標的艦として戦艦「長門」などとともに、横須賀でアメリカ海軍に引き渡された。日本海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われたが、意思疎通不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた。負荷が取り除かれた巡航タービンは規定回転数を超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵と米兵はあわてて逃げだして事なきを得た。結果タービン1基が破損し3軸運転となった。操縦指導は20日間に渡って実施された。ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗が求められたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によってのみ行われた。
1946年7月1日 ビキニ環礁で行われた核実験では、艦のほぼ上空で爆弾が爆発し、その強力な爆風により艦橋より後方の構造物がすっかりなぎ倒される[6]。7月2日、丸一日近く炎上した後に沈没した[6]。
歴代艦長
艤装員長
- 大原利通 大佐:1944年9月25日 - 11月31日
艦長
- 大原利通 大佐:1944年11月31日 -
同型艦
脚注
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』412-413頁「復員航海」
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』414頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』416頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417頁
- ^ 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417-418頁、「軍艦『酒匂』始末記」
- ^ a b 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」
参考文献
- 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社、2010年)ISBN 978-4-7698-1479-5
池田武邦(矢矧航海士。終戦時、大尉)は復員船「酒匂」に分隊長として勤務。
外部リンク
- 軍艦『酒匂』始末記:乗艦していた方の手記