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2013年2月4日 (月) 18:45時点における版

ジャン・ピエロ・ガスペリーニ
名前
カタカナ ジャン・ピエロ・ガスペリーニ
ラテン文字 Gian Piero GASPERINI
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1958-01-26) 1958年1月26日(66歳)
出身地 グルリアスコ
選手情報
ポジション MF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジャン・ピエロ・ガスペリーニGian Piero Gasperini1958年1月26日 - )はイタリアグルリアスコ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

経歴

選手歴

1967年、9歳の時にユヴェントスFCのユースチームに入団。1976年にトップチームに昇格するも出場機会はなく、1977年ACレッジャーナ1919レンタル移籍

1978年には当時セリエBに所属していたUSチッタ・ディ・パレルモに完全移籍。5年間で128試合に出場し11得点を挙げる(すべてセリエB)。1979年にはコッパ・イタリアで決勝まで勝ち進むも、古巣ユヴェントスに敗れ、準優勝に終わった。

1985年からはペスカーラに所属。チームの昇格にともない1987年に初めてセリエAでプレーした。その後サレルニターナ・カルチョ1919などを経て、1993年に35歳で現役を退いた。

指導歴

初期

1994年、古巣ユヴェントスの下部組織で指導者としてのキャリアを開始。1998年よりプリマヴェーラのヘッドコーチに就任。ドメニコ・クリシートマッテオ・パーロセバスティアン・ジョビンコミケーレ・パオルッチら優秀な若手を育成し、ユヴェントス・プリマヴェーラの黄金時代を築いた。

2003年に当時セリエC1に所属していたFCクロトーネの監督に就任。就任初年度にチームをセリエBに昇格させるなど手腕を発揮し、計3シーズンにわたって指揮をとった。

ジェノア時代

2006年にはジェノアCFCの監督に就任。2006-2007シーズンのセリエBでユヴェントス、SSCナポリに次ぐ3位に入り、チームを13シーズンぶりのセリエA昇格に導いた[1]

2007-08シーズンは、かつてユースで指導したドメニコ・クリシートマッテオ・パーロらを率い、イタリアでは珍しい3-4-3システムによる攻撃サッカーを展開。FWマルコ・ボリエッロの活躍もあり、昇格1年目にして10位と健闘した。

2008-09シーズンには積極的な補強により、FWのディエゴ・ミリートアンドレア・ガスバッローニラファエレ・パッラディーノ、MFのティアゴ・モッタらが加入し、スペクタクルなサッカーをさらに進化させる。リーグ戦ではASローマACミラン、ユヴェントスを撃破するなどの成果を挙げた。また、終盤までACFフィオレンティーナUEFAチャンピオンズリーグ出場権を争い、同勝ち点ながら直接対決の成績で及ばなかったものの、5位でUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。

2009-10シーズンは開幕前に主力のミリートとモッタを放出したことも影響し、UEFAヨーロッパリーグはグループリーグ敗退[2]、リーグ戦は9位でシーズンを終えた。

2010-11シーズンも指揮をとったが、開幕より成績が低迷し、2010年11月8日に解任が発表された[3]

インテル時代

2011年6月、インテルナツィオナーレ・ミラノの監督に就任することが発表された[4][5]。契約期間は2年間。 しかしながら、公式戦5試合で4敗1分と成績は全く振るわずリーグのノヴァーラ・カルチョ戦に敗れた後、9月21日に解任された[6]

指導者としての特徴

組織力を活かした攻撃的な3-4-3システムを用いることが多い[7]。燻っている選手の再生に長けており、ジェノアの監督時代にマルコ・ボリエッロジュゼッペ・スクッリティアゴ・モッタらを覚醒させた。

選手歴

イタリアの旗 ACレッジャーナ1919 1977-1978 (レンタル)

指導歴

監督成績

クラブ 就任 退任 記録
試合 勝ち 分け 負け 勝率 %
FCクロトーネ イタリアの旗 2003 2006 127 54 34 39 042.52
ジェノアCFC イタリアの旗 2006 2010 185 80 45 60 043.24
インテルナツィオナーレ・ミラノ イタリアの旗 2011 2011 5 0 1 4 000.00
USチッタ・ディ・パレルモ イタリアの旗 2012 2013 23 4 8 11 017.39

脚注