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;昭和12年([[1937年]])
;昭和12年([[1937年]])
*7月7日 [[盧溝橋事件]]
*7月7日 [[盧溝橋事件]]
*8月13日 [[第二次上海事変]]
*10月25日 [[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の[[防疫演説]]([[:en:Quarantine Speech]])。日本を侵略国と非難
*10月25日 [[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の[[防疫演説]]([[:en:Quarantine Speech]])。日本を侵略国と非難
*12月12日 [[パネー号事件]]
*12月12日 [[パナイ号事件]]
*12月14日 日本の支援による[[中華民国臨時政府 (北京)|北京中華民国臨時政府]]成立

;昭和14年([[1939年]])
;昭和14年([[1939年]])
*7月26日 アメリカが[[日米通商航海条約]]の廃棄を通告
*7月26日 アメリカが[[日米通商航海条約]]の廃棄を通告

;昭和15年([[1940年]])
;昭和15年([[1940年]])
*1月26日、日米通商航海条約失効。日米間が「無条約時代」に入る
*1月26日、日米通商航海条約失効。日米間が「無条約時代」に入る
*6月22日 フランス政府、[[独仏休戦協定]]を締結しドイツと休戦。日本で[[フランス領インドシナ]]への進駐計画が始まる。
*7月22日 [[第二次近衛内閣]]成立。[[大本営政府連絡会議]]において対米戦争も想定に入った[[世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱]]を決定。
*3月30日 [[南京]]で[[汪兆銘]]の南京国民政府([[汪兆銘政権]])成立
*7月22日 [[第二次近衛内閣]]成立。[[大本営政府連絡会議]]において対米戦争も想定に入った[[世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱]]を決定。
*8月22日 [[松岡洋右]]外相、駐米大使に[[野村吉三郎]]を指名
*8月22日 [[松岡洋右]]外相、駐米大使に[[野村吉三郎]]を指名
*9月22日 [[北部仏印進駐]]
*9月22日 [[西原・マルタン協定]]締結により、北部[[仏印進駐]]開始。
*9月27日 [[日独伊三国同盟]]締結
*9月27日 [[日独伊三国同盟]]締結
*10月12日 ルーズベルト大統領、「脅迫や威嚇には屈しない」と演説
*10月12日 ルーズベルト大統領、「脅迫や威嚇には屈しない」と演説
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*7月15日 松岡外相、野村大使に「日米諒解案」のアメリカ政府非公式案に対する日本側回答を訓令。
*7月15日 松岡外相、野村大使に「日米諒解案」のアメリカ政府非公式案に対する日本側回答を訓令。
*7月16日 [[第3次近衛内閣]]成立。松岡外相は更迭され、[[豊田貞次郎]]が後継外相となる。
*7月16日 [[第3次近衛内閣]]成立。松岡外相は更迭され、[[豊田貞次郎]]が後継外相となる。
*7月19日 野村・ウェルズ国務長官代理会談
*7月19日 野村と[[サムナー・ウェルズ]]国務長官代理の初会談
*7月23日 豊田外相、野村大使に日米交渉の継続を訓令。野村大使は南部仏印への進駐が「国交断絶一歩手前迄進ムノ惧レ」があると報告
*7月23日 豊田外相、野村大使に日米交渉の継続を訓令。野村大使は南部仏印への進駐が「国交断絶一歩手前迄進ムノ惧レ」があると報告
*7月24日 野村・ウェルズ国務長官代理会談。野村大使は南部仏印進駐が平和目的であると説明、ウェルズは石油禁輸の可能性を示唆。
*7月24日 野村・ウェルズ国務長官代理会談。野村大使は南部仏印進駐が平和目的であると説明、ウェルズは石油禁輸の可能性を示唆。
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==関連項目==
==関連項目==
*[[日米関係史]]
*[[九カ国条約]]
*[[岩畔豪雄]]
*[[岩畔豪雄]]
*[[機密戦争日誌]]
*[[杉山メモ]]

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2011年3月4日 (金) 08:40時点における版

日米交渉(にちべいこうしょう)とは、1941年(昭和16年)4月から同年11月の間になされた、太平洋戦争大東亜戦争)開戦直前の大日本帝国およびアメリカ合衆国間での国交調整交渉である。

概要

大日本帝国陸軍中国大陸撤退を条件に、満州国の承認、日米通商関係の正常化などの交渉が、野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル国務長官との間で始められていた。

しかし、訪独の帰途の際、日ソ中立条約を締結した松岡洋右外務大臣は、対中政策の全面承認を主張した。その結果、日本軍の南部仏印進駐はアメリカ側を硬化させ、交渉は決裂した。

その後、交渉は再開したものの、1941年11月26日ハル・ノートが手渡され、再び交渉は決裂し、同年12月7日(ハワイ現地時間。日本時間12月8日)には太平洋戦争大東亜戦争)の勃発に至った。

年表

日付は日本時間

昭和11年(1936年
昭和12年(1937年
昭和14年(1939年
昭和15年(1940年
昭和16年(1941年
  • 2月11日 野村大使、ワシントンに到着
  • 2月12日 野村大使とハル国務長官の最初の会談
  • 2月14日 野村大使とルーズベルト大統領の最初の会談
  • 3月8日 フランク・ウォーカーen郵政長官の仲介による野村・ハルの秘密会談。
  • 3月12日 松岡外相、訪欧に出発
  • 3月15日 第二回野村・ルーズベルト会談
4月
  • 4月14日 野村・ハル会談。「太平洋ノ平和維持」について合意
  • 4月16日 野村・ハル会談。野村は「日米諒解案」を手渡し、ハルはこれを受けて諒解案について日本政府の正式な訓令を要請。
  • 4月22日 松岡外相、訪欧から帰国。「日米諒解案」を初めて提示される
5月
  • 5月3日 松岡外相、大本営政府連絡懇談会で「日米中立条約」を提案。また陸海軍の意見も加え、「日米諒解案」を大幅に修正した日本政府案を策定する。 野村大使に「日米中立条約」と「オーラル・ステートメント」(口述書)の申し入れを訓令
  • 5月7日 野村・ハル会談。野村大使は「日米中立条約」と「オーラル・ステートメント」の申し入れを行う
  • 5月8日 松岡外相、「オーラル・ステートメント」をルーズベルト大統領に見せるよう野村大使に要請
  • 5月12日 野村・ハル会談。野村大使、「日米諒解案」の日本政府案をハルに提示。
  • 5月15日 野村・ハル会談。ハルは日本政府案の「支那事変」の事項に疑義を呈する。
  • 5月17日 野村・ハル会談。ハルは「日米諒解案」と「オーラル・ステートメント」のアメリカ政府非公式案を提示。
  • 5月21日 野村・ハル会談。
  • 5月22日 野村・ハル会談。
6月
  • 6月1日 「日米諒解案」と「オーラルステートメント」のアメリカ政府非公式案、日本側に手交される。
  • 6月4日 野村・ハル会談。
  • 6月8日 野村・ハル会談。
  • 6月9日 野村大使、アメリカ政府非公式案を本国に打電。
  • 6月17日 日本、オランダ領東インドとの交渉打ち切り。
  • 6月22日 野村・ハル会談。ハルは「日米諒解案」と「オーラルステートメント」のアメリカ政府非公式案の修正案を提示する。独ソ戦開始。
  • 6月23日 野村・ハル会談。
  • 6月25日 大本営政府連絡懇談会で南進の方針が決定される。
  • 6月29日 野村大使、「日米諒解案」の早急な成立を本国に具申。
7月
  • 7月2日 御前会議情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱が正式決定される。
  • 7月4日 野村・バレンタイン国務参事官会談。
  • 7月10日 若杉要駐米公使、事情聴取のため帰国命令。野村大使も帰国を申し出るが却下される。大本営政府連絡懇談会で松岡外相が「アメリカ政府修正案」を受け入れることはできないと発言。
  • 7月12日 大本営政府連絡懇談会で松岡外相が対米交渉を打ち切るべきと発言。平沼騏一郎内務大臣杉山元参謀総長は継続を主張。「オーラル・ステートメント」の撤回要請が決定。
  • 7月14日 松岡外相、野村大使に「オーラル・ステートメント」のアメリカ政府非公式案の撤回要請を訓令。
  • 7月15日 松岡外相、野村大使に「日米諒解案」のアメリカ政府非公式案に対する日本側回答を訓令。
  • 7月16日 第3次近衛内閣成立。松岡外相は更迭され、豊田貞次郎が後継外相となる。
  • 7月19日 野村とサムナー・ウェルズ国務長官代理の初会談
  • 7月23日 豊田外相、野村大使に日米交渉の継続を訓令。野村大使は南部仏印への進駐が「国交断絶一歩手前迄進ムノ惧レ」があると報告
  • 7月24日 野村・ウェルズ国務長官代理会談。野村大使は南部仏印進駐が平和目的であると説明、ウェルズは石油禁輸の可能性を示唆。
  • 7月25日 アメリカ、在米の日本資産を凍結。第三回野村・ルーズベルト会談。ルーズベルトは南部仏印の中立化を提案。豊田・ジョセフ・グルー駐日大使会談。豊田外相は南部仏印進駐を通告
  • 7月28日 南部仏印進駐開始
  • 7月30日 ツツイラ号事件
  • 7月31日 野村・ウェルズ国務長官代理会談。ウェルズはツツイラ号事件に抗議。野村は小さな事件として扱うように要請。
8月
  • 8月1日 アメリカ、「全ての侵略国」への石油禁輸を表明。 野村・ウェルズ国務長官代理会談。野村はウェルズがツツイラ号事件解決の旨を発表したと報告。
  • 8月4日 野村大使、来栖三郎等の交渉協力者の渡米を要請。
  • 8月5日 豊田外相、野村大使に仏印中立化案への回答を訓令。
  • 8月7日 豊田外相、野村大使に近衛・ルーズベルト会談開催の要請を訓令。野村大使はアメリカの態度が交渉打ち切りのほか無いと報告。野村・ハル会談。
  • 8月9日 野村・ハル会談。ハル、8月5日の回答は「中立化案」の回答になっていないと通告。また日米交渉打ち切りを示唆。
  • 8月14日 野村・ハル会談。アメリカとイギリス、大西洋憲章を発表。
  • 8月16日 野村・ハル会談。大西洋憲章について討議。
  • 8月17日 第四回野村・ルーズベルト会談。ルーズベルト、日米首脳会談の前提は日本の態度変更が必要であると指摘。
  • 8月18日 野村大使、政府の「大英断」を求める意見具申
  • 8月24日 野村・ハル会談。
  • 8月26日 大本営政府連絡会議、ルーズベルト大統領に対する近衛首相のメッセージを策定。
  • 8月28日 野村・ハル会談。近衛メッセージの写しを手交。8時間後、再度野村・ハル会談。
  • 8月29日 第五回野村・ルーズベルト会談。近衛メッセージを手交。
  • 8月30日 ドイツ大使オイゲン・オット、日米交渉打ち切りを日本側に勧告。
9月
  • 9月2日 野村・ハル会談。
  • 9月3日 大本営政府連絡会議、帝国国策要綱によって対米戦を行う必要から、10月上旬までに日米交渉のめどをきめると決定。豊田外相、野村大使に9月の日米首脳会談を要請するよう訓令
  • 9月4日 豊田外相、日本側提案を訓令。野村・ハル会談。
  • 9月6日 御前会議において対米英蘭戦を10月下旬までに完了するよう決定。野村・ハル会談で日本側提案を手交。
  • 9月10日 グルー大使から豊田外相に質問書が渡される。
  • 9月12日 豊田外相、野村大使に質問書への回答を通知。
  • 9月17日 野村大使、9月6日に手交した日本側提案だけでは合意不可能と報告。
  • 9月18日 大本営政府連絡会議、「N工作」に対する日本側の最終的態度決定の必要性について議論
  • 9月20日 大本営政府連絡会議、日本側姿勢を『日本国「アメリカ」合衆国国交調整ニ関スル了解案』として決定。野村・ハル会談。
  • 9月23日 野村・ハル会談。野村は日中和平案を提示し、日米首脳会談を督促。
  • 9月25日 大本営政府連絡会議、日米交渉の期限を10月15日に決定。
  • 9月28日 了解案をアメリカ側に手交。この時、バレンタイン国務参事官はグルー大使から内報のあった案と了解案の項目数が異なると指摘。野村はグルー大使経由の案を優先するように伝達。
  • 9月29日 野村・ハル会談。野村・スターク海軍大将会談。
10月
  • 10月2日 野村・ハル会談。「すべての国家の領土と主権の尊重」「内政不干渉」「通商平等」「現状維持」のハル4原則の確認を求めた覚書が手交される。
  • 10月4日 野村・ハル会談。大本営政府連絡会議で日米交渉「成立ノ目途ナシト云フニ在リ」との情報が披露される。
  • 10月6日 豊田外相、野村大使にハル4原則の基本的な同意、仏印からの撤兵は日中和平後に日中提携が行われてから行うことなど訓令する。
  • 10月9日 野村・ハル会談。
  • 10月10日 野村大使、譲歩しない限り日米首脳会談は成立しないとの観測を具申。野村・バレンタイン会談。
  • 10月12日 近衛首相、自邸に豊田外相・東条英機陸軍大臣及川古志郎海軍大臣鈴木貞一企画院総裁を招き五相会議を行う。東条陸相は中国からの撤兵に反対。
  • 10月15日 野村・ターナー海軍少将会談。若杉公使・ウェルズ国務長官代理会談
  • 10月16日 近衛内閣総辞職。
  • 10月18日 東条内閣成立。外相に東郷茂徳が就任。若杉・ハル・ウェルズ会談。
  • 10月21日 東郷外相、日米交渉の継続と「了解案」へのアメリカ側対案を求めるよう訓令
  • 10月23日 大本営政府連絡会議、国策遂行要領の再検討を開始する
  • 10月25日 野村・プラット海軍大将会談。
  • 10月26日 若杉公使、交渉による観測を報告。
  • 10月30日 大本営政府連絡会議で東条首相が「開戦回避」「開戦決意」「開戦を決意しながらも妥結に努める」という三案を提示。
11月
  • 11月1日 大本営政府連絡会議、国策遂行要領の見直しを終了。「即時対米交渉断念開戦決意。十二月初頭戦争発起、今後ノ対米交渉ハ偽装外交トス」という案を決定。
  • 11月3日 参謀総長と軍令部総長が対米英蘭戦争の作戦計画を昭和天皇に上奏
  • 11月4日 東郷外相、野村大使に日本側最終案「甲案」「乙案」を訓令。
  • 11月5日 東郷外相、「甲案」から交渉を始め、25日までに調印するよう訓令。御前会議で「甲案」「乙案」と帝国国策遂行要領の改訂が決定される。
  • 11月7日 野村・ハル会談(若杉・バレンタインも同席)。野村大使、「甲案」を手交。
  • 11月11日 第七回野村・ルーズベルト会談(若杉・ハルも同席)。
  • 11月13日 野村・ハル会談。ハルは甲号と乙号の二通の「オーラル・ステートメント」を提示。野村は甲号を本国に伝達。東郷外相は「乙案」の修正を訓令する。
  • 11月15日 野村・ハル会談。大本営、作戦開始時期を保留した南方作戦を発令。
  • 11月16日 特命大使として来栖三郎がワシントンに到着。
  • 11月18日 野村・来栖・ハル会談、第一回野村・来栖・ルーズベルト会談。
  • 11月20日 東郷外相、「乙案」の提示を訓令。野村・来栖・ハル会談、野村・来栖・ルーズベルト会談。
  • 11月21日 来栖・ハル会談。野村・来栖・ハル会談で「乙案」を手交。
  • 11月22日 東郷外相、調印を29日までに行うよう訓令。野村・来栖・ハル会談。
  • 11月26日 日本海軍機動部隊単冠湾を出港
  • 11月27日 野村・来栖・ハル会談。ハルは「乙案」の拒否を伝え、いわゆる「ハル・ノート」を手交。同日の御前会議で「果然米武官ヨリ来電 米文書ヲ以テ回答ス全ク絶望ナリト」と評価される。
  • 11月28日 第二回野村・来栖・ルーズベルト会談。
12月
  • 12月1日 御前会議で対米英蘭宣戦布告が決定される。
  • 12月2日 野村・来栖・ハル会談。
  • 12月3日 マレー攻略部隊、海南島を出港。
  • 12月6日 ルーズベルト大統領より昭和天皇に対し、平和を志向し関係改善を目指すという親電が送られる。東郷外相、野村大使に交渉打ち切りを伝える「対米覚書」を訓令
  • 12月8日 野村大使、ハル国務長官に「対米覚書」を手交し、日米交渉終結。宣戦詔書が発せられ、対米英蘭に宣戦布告。

外部リンク

関連項目