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[[1996年]]6月、ストールは[[イギリス]]・[[ノッティンガム]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)でシングルス決勝戦に進出したが、[[ヤン・シーメリンク]]([[オランダ]])に 3-6, 6-7 で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、[[全豪オープン]]・[[全仏オープン]]・[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]は2回戦止まりだったが、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1996年ウィンブルドン選手権|1996年]]・[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年]]の3度3回戦進出があり、芝生コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。 |
[[1996年]]6月、ストールは[[イギリス]]・[[ノッティンガム]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)でシングルス決勝戦に進出したが、[[ヤン・シーメリンク]]([[オランダ]])に 3-6, 6-7 で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、[[全豪オープン]]・[[全仏オープン]]・[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]は2回戦止まりだったが、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1996年ウィンブルドン選手権|1996年]]・[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年]]の3度3回戦進出があり、芝生コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。 |
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[[1997年]]から[[1998年]]の2年間、ストールは大半のトーナメントで[[シリル・スーク]]([[チェコ]])とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親[[ベラ・スコバ]]は[[1962年ウィンブルドン選手権|1962年ウィンブルドン]]女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉の[[ヘレナ・スコバ]]も女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、[[1998年全米オープンテニス|1998年全米オープン]]の男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、[[1995年全米オープンテニス|1995年]]以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人は[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親[[フレッド・ストール]]は、全米選手権(当時の名称、[[1968年]]から「全米オープン」に変更)で[[1966年]]の男子シングルス優勝、[[1965年]]・[[1966年]]・[[1969年]]の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。 |
[[1997年]]から[[1998年]]の2年間、ストールは大半のトーナメントで[[シリル・スーク]]([[チェコ]])とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親[[ベラ・スコバ]]は[[1962年ウィンブルドン選手権|1962年ウィンブルドン]]女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉の[[ヘレナ・スコバ]]も女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、[[1998年全米オープンテニス|1998年全米オープン]]の男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、[[1995年全米オープンテニス|1995年]]以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人は[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親[[フレッド・ストール]]は、全米選手権(当時の名称、[[1968年全米オープンテニス|1968年]]から「全米オープン」に変更)で[[1966年全米テニス選手権|1966年]]の男子シングルス優勝、[[1965年全米テニス選手権|1965年]]・[[1966年全米テニス選手権|1966年]]・[[1969年全米オープンテニス|1969年]]の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。 |
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その後、ストールは[[1999年]]に[[ウェイン・ブラック]]([[ジンバブエ]])、[[2000年]]は[[ポール・ハーフース]]([[オランダ]])や、オーストラリアの後輩選手[[レイトン・ヒューイット]]などとペアを組んだ。[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]2回戦で[[ゴラン・イワニセビッチ]]に敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。[[2000年]]はハーフースとのコンビで好成績が多く、[[2000年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[2000年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。[[2001年]]3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。[[2002年]]10月、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]大会で[[ジョシュア・イーグル]](同じオーストラリアの選手)と組み、決勝で[[チェコ]]ペアの[[イリ・ノバク]]&[[ラデク・ステパネク]]組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。[[2003年]]1月、[[2003年全豪オープンテニス|全豪オープン]]の男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、[[2007年]]9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。 |
その後、ストールは[[1999年]]に[[ウェイン・ブラック]]([[ジンバブエ]])、[[2000年]]は[[ポール・ハーフース]]([[オランダ]])や、オーストラリアの後輩選手[[レイトン・ヒューイット]]などとペアを組んだ。[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]2回戦で[[ゴラン・イワニセビッチ]]に敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。[[2000年]]はハーフースとのコンビで好成績が多く、[[2000年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[2000年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。[[2001年]]3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。[[2002年]]10月、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]大会で[[ジョシュア・イーグル]](同じオーストラリアの選手)と組み、決勝で[[チェコ]]ペアの[[イリ・ノバク]]&[[ラデク・ステパネク]]組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。[[2003年]]1月、[[2003年全豪オープンテニス|全豪オープン]]の男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、[[2007年]]9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーサイト内の“Career Highlights/Bio”欄から、一部の伝記情報が消滅。本記事の第2段落は、この公式ガイドブックを参照した) |
* ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーサイト内の“Career Highlights/Bio”欄から、一部の伝記情報が消滅。本記事の第2段落は、この公式ガイドブックを参照した) |
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{{全米オープン男子ダブルス優勝者}} |
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{{DEFAULTSORT:すとおる さんとん}} |
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[[Category:オーストラリアのテニス選手]] |
[[Category:オーストラリアのテニス選手]] |
2008年7月14日 (月) 07:10時点における版
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基本情報 | ||||
フルネーム | Sandon Frederick Stolle | |||
国籍 | オーストラリア | |||
出身地 | 同・シドニー | |||
生年月日 | 1970年7月13日(53歳) | |||
身長 | 193cm | |||
体重 | 79kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1990年 | |||
引退年 | 2003年 | |||
ツアー通算 | 22勝 | |||
シングルス | 0勝 | |||
ダブルス | 22勝 | |||
生涯通算成績 | 515勝371敗 | |||
シングルス | 100勝120敗 | |||
ダブルス | 415勝251敗 | |||
生涯獲得賞金 | 3,762,442 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 2回戦(1992・94・96・99) | |||
全仏 | 2回戦(1997) | |||
全英 | 3回戦(1992・96・97) | |||
全米 | 2回戦(1992) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト8(2001) | |||
全仏 | 準優勝(2000) | |||
全英 | 準優勝(2000) | |||
全米 | 優勝(1998) | |||
優勝回数 | 1 | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 50位 | |||
ダブルス | 2位 | |||
サンドン・ストール(Sandon Stolle, 1970年7月13日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の男子プロテニス選手。フルネームは Sandon Frederick Stolle (サンドン・フレデリック・ストール)という。当地の往年の名選手フレッド・ストールの息子で、ダブルスのスペシャリストとして活動し、1998年の全米オープン男子ダブルスでシリル・スーク(チェコ)とペアを組んで優勝した。4大大会男子ダブルスでは、他に3度の準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝1度)、ダブルスで22勝を挙げた。
サンドンは6歳の時から、父親のフレッドにテニスを習い始めた。テレビ解説者になった父親は、息子に「お前が大きくなったら、テレビでお前の試合の解説をしたいと思う」と口癖のように話していたという。サンドンはアメリカ・テキサス州フォートワースにあるテキサスクリスチャン大学で、2年間マーケティングとビジネスを専攻した後、1991年からプロテニス選手になった。1991年ウィンブルドンで、サンドンは大会初出場から2回戦に進出し、センター・コートでジョン・マッケンローと対戦した。父親のフレッドがこの試合のテレビ解説を担当し、ストール親子はここで夢を実現させた。1992年10月、台湾・台北市開催大会のダブルスでジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、男子ツアーでダブルス初優勝を果たす。1993年1月の「NSWオープン」男子ダブルスでは、同じ年のジェイソン・ストルテンバーグと組んで2勝目を挙げた。間もなく、サンドンはダブルスの分野で躍進を始める。
1994年にストールは男子ツアーでダブルス3勝を挙げたが、3月末に日本・大阪大会でマルティン・ダム(チェコ)と組んだ優勝もあった。1994年後半から1995年にかけて、彼はアレックス・オブライエン(アメリカ)と組んで大半のトーナメントに出場した。1995年全米オープンで、ストールとオブライエンは初めて4大大会の男子ダブルス決勝に進出する。この決勝戦では「ウッディーズ」の愛称で知られるマーク・ウッドフォード&トッド・ウッドブリッジ組(ともにオーストラリア)に 3-6, 3-6 のストレートで敗れ、準優勝に終わった。ストールとオブライエンは、同年10月中旬の「セイコー・スーパー・テニス」にも出場し、準決勝でパトリック・マッケンロー(アメリカ)&ヤコブ・ラセク(スイス)組に敗れたが、このトーナメントはスポンサー撤退のため1995年の第18回大会を最後に開催中止となった。
1996年6月、ストールはイギリス・ノッティンガム大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)でシングルス決勝戦に進出したが、ヤン・シーメリンク(オランダ)に 3-6, 6-7 で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、全豪オープン・全仏オープン・全米オープンは2回戦止まりだったが、ウィンブルドンで1992年・1996年・1997年の3度3回戦進出があり、芝生コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。
1997年から1998年の2年間、ストールは大半のトーナメントでシリル・スーク(チェコ)とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親ベラ・スコバは1962年ウィンブルドン女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉のヘレナ・スコバも女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、1998年全米オープンの男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、1995年以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人はダニエル・ネスター(カナダ)&マーク・ノールズ(バハマ)組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親フレッド・ストールは、全米選手権(当時の名称、1968年から「全米オープン」に変更)で1966年の男子シングルス優勝、1965年・1966年・1969年の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。
その後、ストールは1999年にウェイン・ブラック(ジンバブエ)、2000年はポール・ハーフース(オランダ)や、オーストラリアの後輩選手レイトン・ヒューイットなどとペアを組んだ。1999年ウィンブルドン2回戦でゴラン・イワニセビッチに敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。2000年はハーフースとのコンビで好成績が多く、全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。2001年3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。2002年10月、オーストリア・ウィーン大会でジョシュア・イーグル(同じオーストラリアの選手)と組み、決勝でチェコペアのイリ・ノバク&ラデク・ステパネク組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。2003年1月、全豪オープンの男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、2007年9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。
4大大会ダブルス成績
関連項目
外部リンク
参考文献
- ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーサイト内の“Career Highlights/Bio”欄から、一部の伝記情報が消滅。本記事の第2段落は、この公式ガイドブックを参照した)