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*契約更改時の時の格好がパンチパーマにサングラスにセカンドバッグなどで、ある意味独特の格好で未だに関西の芸人にネタにされたりする。
*契約更改時の時の格好がパンチパーマにサングラスにセカンドバッグなどで、ある意味独特の格好で未だに関西の芸人にネタにされたりする。
*サントリーの「[[BOSSコーヒー|BOSS贅沢微糖]]」のCMに「贅沢川藤」として出演。
*サントリーの「[[BOSSコーヒー|BOSS贅沢微糖]]」のCMに「贅沢川藤」として出演。
*長い間子宝に恵まれなかったが40代後半になってから双子の子供を授かった。
*長い間子宝に恵まれなかったが40代後半になってから双子の子供を授かった。ちなみに、奥さんは富山の旧家の一人娘で、川藤はここの婿養子に入ったため、「川籐」姓は通称である


== 年度別打撃成績 ==
== 年度別打撃成績 ==

2008年6月22日 (日) 01:47時点における版

川藤 幸三
基本情報
出身地 日本の旗 日本福井県三方郡美浜町
生年月日 (1949-07-05) 1949年7月5日(74歳)
身長
体重
174 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1967年 9位
初出場 1969年
最終出場 1986年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

川藤 幸三かわとう こうぞう1949年7月5日 - )は、元プロ野球選手野球解説者。右投げ右打ち。通称「浪花の春団治」、「野次将軍」。あるいは「川さん」。「」ともいう。元プロ野球投手の川藤龍之輔(現・福井ミリオンドリームズ監督)は実兄。

来歴・人物

1967年ドラフト阪神タイガースから9位指名され、若狭高校から阪神に入団(同期にニチダイ硬式野球部監督の桑野議がいる)。プロ入り当初は強肩・俊足の内野手として鳴らし、1969年にはウエスタン・リーグ盗塁王(30個)を獲得、同年5月22日のウエスタン広島戦1回では1イニング3盗塁という快挙を達成した。

1974年までは一軍で代走・守備固めを務めたりスタメンで出場もしていたが、アキレス腱を断裂する大ケガを負ってしまったため、足に負担が掛からない代打に自分の役割を絞り、後に代打の切り札として一軍に定着する。1986年、現役を引退。通算記録に特筆すべきものはないが、記録ではなく記憶に残る選手であった。その男臭い風貌と、常に全力を信条としたプレースタイルで、特に男性ファンが多かった。

引退後、読売テレビの野球解説者を務めた後、1990年に外野守備コーチとして阪神に復帰、翌1991年には総合コーチに昇格し、中村勝広監督の下で後進の育成に励んだ。また、2001年からはプロ野球マスターズリーグ大阪ロマンズにも参加している。

現在は読売テレビとデイリースポーツの野球解説者として活躍中。チャンスの少ない若手選手に対しては、ポジティブな発言を行うことが多い。これは、自身の現役時代が影響しているものと思われる。阪神について語る時の口調は、タイガースを大きな愛情をもって見守るも、厳しい言葉を敢えて投げて奮起を促し、鼓舞するスタイルであり、どちらかと言うと解説者というよりもファンの視線に近い。その独特な口調と、技術論をあまり交えずに「根性」や「気合い」といった要素に集約される精神論偏重の解説は、人によって好き嫌いの分かれやすいものと言える。

エピソード

  • 1983年に球団から若返りのために引退を薦められた際、フロントの首脳に「阪神一筋で野球ができるなら給料は要りません。ただ、そんなに引退しろというなら僕をトレードに出してください」と訴え、阪神での現役続行を認められた。このエピソードにより、「球界の春団治」の異名が付く。
  • 結局この年、当時の最低保障年俸で阪神と再契約したが、この話に感動した阪神ファンの上岡龍太郎桂春蝶らが「川藤の給料はワシらで出そう!」とカンパで集めたお金(ヒット1本につき賛同者から10,000円徴収しプールしたという)をシーズンオフに「これを給料の足しにしてほしい」と持って行ったところ、川藤は「上岡さんたちの気持ちはありがたいけど、そんなことはできない。このお金は自分のためではなく、ファンのために使わせていただきます」と言って甲子園の年間予約席を購入した。川藤はこの席に毎試合身体障害者を招待し、席はファンから「川藤ボックス」と呼ばれるようになった。
  • なお、翌1984年には62試合出場、打率.241、本塁打2、打点20という、前年を上回る成績を残し、年俸も元の値段に戻っている(1983年の成績は、34試合出場、打率.241、本塁打1、打点5)。
  • 1984年から引退するまでの3年間は代打一筋の野球人生を過ごしてきたため、この3年間の守備記録は無い。しかし試合前の守備練習では自費で購入したミットを手にファーストを守り、時には内野手からの送球を後ろに逸らすなどしてチームのムード作りに努めていた。
  • 1985年セ・リーグ優勝・日本シリーズ制覇時には、首脳陣と選手とのパイプ役として欠かせない存在であった。特にランディ・バースに対しては、将棋を教えながらほとんど日本語だらけの英語でコミュニケーションを取り、決してチームから孤立させなかった。
  • 1973年に阪神がマジック1から優勝を逸した時の現役で、1985年の優勝時にも現役として吉田義男監督を胴上げした唯一の選手である。山本和行も前年の1972年に阪神に入団していたが、アキレス腱を断裂していたため1985年の胴上げには加われなかった(しかし、日本シリーズで日本一決定時には特別の計らいで胴上げされた)。
  • 1986年のオールスターゲームに、全セの吉田監督の推薦で出場。現役19年目にして初めての出場で、同年の引退への花道となった。試合では小野和義から左中間真っ二つの見事な長打性の安打を放ち、一塁ベースコーチの王貞治が腕を回して二塁に進むも、王が予想していた以上に鈍足であったため、二塁ベースで悠々アウト、選手・ファンらの爆笑を誘った。また、アウトをコールした二塁塁審でさえも爆笑していた。川藤曰く「バットにボールが当たって、やれ仕事が終わったと思ったら、一塁で王さんがグルグル腕を回してる。これはあかんと思った」。
  • この試合のTV中継で、ベンチレポートを務めていた元チームメイトの小林繁は、インタビュー・ブースに現れた川藤に対し「先ほど見事な“二塁打”を放った川藤選手です!」と呼び掛け、現場スタッフや視聴者を爆笑させた。川藤は「じゃかましいわい!!」と怒鳴りながらひたすらに照れ笑いするしかなかった。
  • コーチ時代、メガホンを片手にベンチから率先して声を出し、選手にもそれを強要していた。ノックアウトされて落ち込んでいる投手にさえも声を出すよう促していたという。彼が「野次将軍」と呼ばれるのはそのためである。
  • 選手の指導方針について中村監督と対立し、阪神のコーチを辞任した際に「中村は血も涙もない冷酷非情な男や。オレは犠牲者やで」と言い放った(後に和解)。
  • 代打の切り札として活躍したという自負からか、「打って走って守れてこそ野球選手」という広岡達朗の野球理論を公然と批判している(しかし江夏豊東尾修らアンチ広岡派とは違い、その人間性については批判していない)。
  • 大食漢として有名で、後輩選手には「とにかく飯を食え」と指導していた。現役時代に札幌に遠征した際、試合後にススキノでさんざん飲み食いしたにもかかわらず、その直後大盛の札幌ラーメンを何杯も平らげ、同席していた江本孟紀を仰天させたというエピソードもある。現役晩年には当時新人であった遠山昭治を朝まで飲みに付き合わせて、翌日の二軍での試合でマウンド上で嘔吐させてしまったこともある。また力士と大食い勝負をして勝ったこともある。
  • 若手時代は、酒豪として有名だった遠井吾郎の「愛弟子」として、日々酒を飲むのに付き合っていたという。また、カミュのXOを「カマスのペケマル」と呼んで好む(カミュはCamusと表記)。
  • 現役時代から、兵庫県中部の遠坂トンネルの近くに「KAWATO TIGER SPORTS SHOP」を経営している。
  • サントリーモルツのCMにも出演し桂ざこばとの共演。ざこばの台詞「川藤出さんかい!」「ホンマに出してどないすんねん」は話題となる。このCMが縁で、大沢啓二率いるモルツ球団に参加。毎年1度組まれる球団の試合に代打として登場している。その際、モルツを口に含んでバットに吹き付ける、あぶさんを真似た登場の仕方で場内を沸かせている。
  • 藪恵壹は、野球を始めた時のポジションがセカンドだったため、一度でいいから背番号4を付けたがっていた。阪神の背番号4は2000年までは高波文一が付けていたものの、2001年から高波が65に戻したため空き番となっていた。藪は「阪神の4番といえば川藤さんだから」と背番号4の使用許可を川藤に求め、川藤が即座に快諾したためすぐに球団に背番号を変更を申請。2002年の春季キャンプ直前だったため、球団側は申し出に難色を示したが、星野仙一新監督の後押しもあって最終的には背番号変更を認められた。その藪は、解説者である川藤のことを『阪神タイガースのセラピー・コーチ』と呼んでいた。
  • 2005年、関西ローカル番組「ゲツキン!」で、メイン司会者の大平サブロー森若佐紀子らとともにホノルルマラソンに挑戦。13時間以上かけ完走した。
  • 大の阪神ファンで有名な松村邦洋に、度々モノマネのネタにされている。その縁で松村と共演する機会も多い。
  • バースが首脳陣との軋轢などでスランプに落ち込んでいたとき川藤が女性を紹介し、以来バースは復調したという。
  • TV解説で「バッティングで、ボールを捕らえるのが真芯すぎると、かえって打球は飛ばない」という説を披露したが、同席していた村山実から「…そんなことあるわけないでしょ」と一蹴された。
  • 1987年、篠塚・正田・落合の首位打者争いの最中、規定打席不足ながら、その3人を上回る打率をマークしていた中畑が打席に立つと、TV解説をしていた川藤は、首位打者争いについてアナウンサーに聞かれ、「わしゃ、規定打席に達したことがないからわからん」とある意味、川藤らしい返答をしている。
  • 1985年、藤村富美男から「TVで見たが、お前ベンチで偉そうにしているな。それでいい。タイガースの歴史を作ってきたのは大学出のスターじゃない。お前ら補欠の人間だ。だからそのまま偉そうにしておけ」と激励を受ける。以来、その言葉を忠実に守っている。
  • 契約更改時の時の格好がパンチパーマにサングラスにセカンドバッグなどで、ある意味独特の格好で未だに関西の芸人にネタにされたりする。
  • サントリーの「BOSS贅沢微糖」のCMに「贅沢川藤」として出演。
  • 長い間子宝に恵まれなかったが40代後半になってから双子の子供を授かった。ちなみに、奥さんは富山の旧家の一人娘で、川藤はここの婿養子に入ったため、「川籐」姓は通称である。

年度別打撃成績

年度 チーム

試合 打数 得点 安打





塁打 打点 盗塁

犠打 犠飛 四球 死球 三振

失策 打率
1968年 阪神 45 一軍出場なし
1969年 3 11 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 2 0 1 .091
1970年 4 14 24 5 6 0 1 0 8 0 1 1 0 0 0 0 6 0 0 .250
1971年 7 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
1972年 22 15 5 3 0 0 0 3 0 3 0 0 0 0 0 5 0 0 .200
1973年 77 151 14 32 3 2 0 39 7 9 2 5 1 6 1 20 5 1 .212
1974年 106 202 20 40 3 0 1 46 8 9 7 20 1 14 3 36 6 3 .198
1975年 8 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 .143
1976年 20 15 5 2 0 0 0 2 0 0 1 0 0 1 0 3 1 0 .133
1977年 82 80 14 17 1 0 2 24 7 4 0 1 0 6 2 7 0 1 .213
1978年 42 55 6 18 2 0 2 26 8 0 2 2 1 7 1 8 1 2 .327
1979年 61 23 3 7 2 0 0 9 6 1 0 0 0 1 0 5 0 3 .304
1980年 53 47 9 17 1 1 0 20 3 2 5 1 0 0 1 4 1 2 .362
1981年 52 59 3 18 5 0 1 26 13 0 1 1 2 2 1 9 0 1 .305
1982年 48 46 3 11 3 0 1 17 10 0 0 0 1 1 2 8 2 0 .239
1983年 34 29 2 7 1 0 1 11 5 0 0 0 0 3 0 7 2 0 .241
1984年 62 54 3 13 4 0 2 23 20 0 0 0 0 6 2 18 2 0 .241
1985年 31 28 2 5 1 0 0 6 6 0 0 0 0 3 0 7 1 0 .179
1986年 49 49 5 13 0 0 5 28 14 0 0 0 0 0 0 12 1 0 .265
通算成績 771 895 101 211 26 4 16 293 108 29 19 30 6 50 13 159 23 13 .236

ディスコグラフィー

  • 『猛虎の衆』(2003年7月24日発売)

背番号

  • 45(1968年~1969年)
  • 4(1970年~1986年)
  • 77(1990年~1991年)

現在の出演番組

過去の出演番組

関連項目

外部リンク