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川藤龍之輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川藤 龍之輔
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福井県三方郡美浜町
生年月日 (1947-08-17) 1947年8月17日
没年月日 (2021-03-21) 2021年3月21日(73歳没)
身長
体重
181 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 ドラフト9位
初出場 1967年
最終出場 1973年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

川藤 龍之輔(かわとう りゅうのすけ、1947年8月17日 - 2021年3月21日)は、福井県三方郡美浜町[1]出身のプロ野球選手投手)。

元プロ野球選手の川藤幸三は実弟[1]

来歴・人物

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地元の名士の家に生まれ[2]若狭高校では1年次の1963年、控え投手として夏の甲子園に出場するが、1回戦で横浜高に敗退し登板機会はなかった。2年次の1964年夏はエースとして北陸大会準決勝に進出するが、小松実業に敗退。同年秋季の北信越大会では準決勝に進むが、塚原天竜高に敗れ春の選抜出場を逸する。3年次の1965年夏は、県予選準決勝で武生高に敗れ、甲子園には出場できなかった[3]同年のドラフト9位で東京オリオンズに入団[1]

貴重な大型左腕と期待され、2年目の1967年に一軍初登板を果たす[1]。3年目の1968年7月21日には近鉄戦で初先発、鈴木啓示と投げ合い2安打完封勝利を飾る。その後は先発陣に組み入れられて同年は3勝を挙げたが、1969年以降は膝の怪我もあって伸び悩み、1970年千田啓介との交換トレードで、読売ジャイアンツへ移籍[1]。同年6月11日には阪神を相手に先発し、江夏豊に投げ勝ちセ・リーグ初勝利。しかしその後は活躍の機会がなく、1973年に自由契約となり、太平洋クラブライオンズに移籍[1]。ここでも好成績を挙げることはできず、同年限りで現役引退。武器はシュート、カーブ、フォークボール。

引退後は広告代理店に勤務した後に地元福井市に帰郷し、サンピア敦賀に勤務[1]。スポーツ用品店を営みながら社会人野球クラブチーム福井ミリオンドリームズで監督を務めたのち、2018年より部長に就任。

2021年3月21日死去[4]

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1967 東京
ロッテ
2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 8 2.0 2 1 1 0 0 1 0 0 1 1 4.50 1.50
1968 28 9 2 1 1 3 4 -- -- .429 367 86.0 79 5 29 8 0 27 4 0 34 23 2.41 1.26
1969 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 11 1.2 3 1 2 0 1 0 0 0 4 4 21.60 3.00
1970 巨人 6 2 0 0 0 1 1 -- -- .500 42 10.0 12 1 1 0 0 3 1 0 6 6 5.40 1.30
1973 太平洋 9 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 51 10.2 15 1 3 0 0 3 0 0 10 10 8.44 1.69
通算:5年 49 12 2 1 1 4 5 -- -- .444 479 110.1 111 9 36 8 1 34 5 0 55 44 3.59 1.33
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更
  • 1971年と1972年は一軍出場なし

背番号

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  • 33 (1966年 - 1969年)
  • 45 (1970年 - 1972年)
  • 49 (1973年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、172ページ
  2. ^ 森岡浩編「県別全国高校野球史」東京堂出版、ISBN 44902043612001年7月1日、p121。
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ “元プロ野球選手 川藤龍之輔氏死去”. 福井新聞. (2021年3月31日). https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1288713 2021年9月18日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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