榎本和平
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榎本 和平 えのもと わへい | |
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生年月日 | 1926年6月23日 |
出生地 | 山形県天童市 |
没年月日 | 2006年4月24日(79歳没) |
死没地 | 山形県山形市 |
出身校 | 中央大学経済学部 |
前職 | 山形県議会議員 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 勲三等旭日中綬章、従五位 |
選挙区 | 旧山形1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1983年 - 1990年 |
当選回数 | 4回 |
榎本 和平(えのもと わへい、1926年6月23日 - 2006年4月24日)は、日本の政治家。元自由民主党衆議院議員。1996年勲三等旭日中綬章[1]。2006年従五位[2]。
来歴・人物
[編集]山形県天童市出身。中央大学経済学部卒業後、山形新聞に入社。整理部記者などを歴任。木村武雄秘書を経て、山形県議会議員を4期務め、自民党県連幹事長、県議会副議長等を担った[3][4]。
1983年の衆議院議員総選挙山形1区で木村武雄の後継として田中角栄派(木曜クラブ)から出馬。67300票を獲得し初当選。
1985年1月27日、竹下登は田中に「若手といっしょに勉強会をやりたい」と告げた。田中は「いいだろう」と答え[5]、竹下らは翌日から入会勧誘を開始した。1月29日、田中は勉強会は見せかけで公然たるクーデターであることに気付き、1月31日に二階堂進に切り崩しを命じた[6][7]。83人いた参加希望者は次々と脱落した。2月7日、40人の議員により、創政会が結成される。その中に榎本もいた[8]。
1987年7月4日、経世会が結成。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた[9]。田中派は「竹下派」「木曜クラブ(二階堂グループ)」「中立系」に3分裂した[10]。榎本は竹下派に所属した。
防衛政務次官などを歴任した。県議選、衆院選にあっては、服部敬雄が強力に支援した[3]。
1990年の衆院選で落選。
2006年4月24日、肺癌のため山形市内の病院で死去[12]。79歳没。
著書
[編集]- 『明日へ向って翔けよう 榎本和平・その異色の言動』拓進会、1978年。
脚注
[編集]- ^ 『朝日新聞』1996年11月3日
- ^ 『読売新聞』山形版 2006年5月13日
- ^ a b 「史上初の保守乱立知事選 山新・山交グループの彷徨 小田桐誠」『創』1993年3月号
- ^ 「榎本和平元衆院議員が死去」『読売新聞』山形版 2006年4月26日
- ^ 早坂茂三『駕籠に乗る人・担ぐ人―自民党裏面史に学ぶ』祥伝社、1988年11月20日、11頁。ISBN 978-4396610159。
- ^ マスコミ研究会 編『暗闘 田中角栄VS竹下登』国会通信社、1985年2月、170-171頁。
- ^ 朝日新聞政治部 編『田中支配とその崩壊』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1987年9月20日、279-280頁。ISBN 978-4022604729。
- ^ 中野士朗「『創政会』誕生の舞台裏を探る」 『月刊官界』1985年4月号、行政問題研究所、66-79頁。
- ^ 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”. 日本経済新聞 2020年8月2日閲覧。
- ^ 『国会便覧 昭和62年8月新版』(第76版)日本政経新聞社、1987年9月1日、333-336頁。
- ^ 「96秋の叙勲受章者 勳三等」『読売新聞』1996年11月3日朝刊
- ^ l “榎本和平氏死去 元自民党衆院議員”. 共同通信. (2006年4月26日) 2013年10月21日閲覧。