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松平直恒

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松平直恒
松平直恒像(孝顕寺蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦12年5月1日1762年6月22日
死没 文化7年1月18日1810年2月21日
改名 千太郎(幼名)、直恒
戒名 俊徳院殿仁山良義大居士
墓所 埼玉県川越市小仙波町喜多院
官位 従四位下大和守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
武蔵川越藩
氏族 結城松平家
父母 松平朝矩藤井兼矩娘土
兄弟 土井利建直恒矩峯秋山正修
高力直延、喜佐姫
桜井供敦娘悦伊達村候八女富
鈴木氏、菊地氏、お美佐
知豊、兼子、直温斉典朝蟻、磯子、絹、岸、季遠姫、可寛
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松平 直恒(まつだいら なおつね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。武蔵国川越藩2代藩主。官位従四位下大和守侍従結城松平家6代。

生涯

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宝暦12年(1762年)5月1日、初代藩主・松平朝矩(直賢)の次男として江戸にて誕生。兄(土井利建)は土井氏の養子となっていたため、直恒が嫡男とされる(のち利建は土井家で廃嫡されたが、その後に家督を争った形跡は特にない)。明和5年(1768年)、父の死去により家督を継ぎ、安永6年(1777年)12月に従四位下・大和守に叙任される。安永8年(1779年)1月に元服する。

寛政元年12月16日(1790年)に侍従に任官する。文化7年(1810年)1月18日に死去した。享年49。跡を次男・直温が継いだ。

明和6年(1769年)に旧居城である前橋城を廃城・破却とした。

系譜

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注釈・出典

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