結城貞広

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結城貞広
時代 鎌倉時代後期
生誕 正応2年(1289年
死没 延慶2年11月13日1309年12月15日
改名 犬次郎丸(幼名)[1]→貞広
幕府 鎌倉幕府
氏族 結城氏
父母 父:結城時広、母:小山長村
朝祐
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結城 貞広(ゆうき さだひろ)は、鎌倉時代後期の武士御家人下総結城氏5代当主。

略歴[編集]

正応2年(1289年)、4代当主・結城時広の子として誕生。

の「貞」の字は、元服当時の鎌倉幕府9代執権北条貞時から偏諱を受けたものである[2]

誕生の翌年に父・時広が24歳で亡くなり、犬次郎丸が下総結城氏の当主となったものの、とても政務を取り仕切る事が出来なかったため、時広未亡人である母(小山長村の娘)が事実上当主を代行していたようである[3]

系図上、子は朝祐のみ[4]であり、父同様、早くに亡くなっている。当主が相次いで他界した下総結城氏は一時、衰退し、代わって分家筋の白河結城氏当主の結城宗広の力が増大する事になり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて白河結城氏が隆盛する事になる[5]

脚注[編集]

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  1. ^ 『結城市史』第四巻 古代中世通史編 P.271-272。また、鎌倉時代の永仁2年(1294年)頃に成立したとみられる「結城系図」(結城錦一旧蔵「結城家文書」に収録、白河集古苑所蔵)には「犬次郎丸」と記載されている。
  2. ^ 「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則氏所蔵))の貞広の付記に「鎌倉執権北条貞時授一字、故名貞広」(鎌倉執権北条貞時一字を授く。故に貞広と名す)とあり(『結城市史』第一巻/P.664、書き下しは第四巻/P.297に拠る)、生誕年から算出されるおおよその元服の年次(1297年-1304年)を考慮しても、この期間の得宗家当主は貞時(執権在任は1301年まで)であり、これに合致する。また、永仁2年(1294年)頃に成立したとみられる「結城系図」(結城錦一旧蔵「結城家文書」に収録、白河集古苑所蔵)には幼名で「犬次郎丸」と記載されており、この頃はまだ元服を済ませていなかった事が窺える。
  3. ^ 結城一門・山川氏末裔の山川修二氏所蔵の文書の中に、かつて「結城貞広公御母公御制止一通」があったと記されている事から、貞広の母の果たしていた役割は大きかったものと考えられている(『結城市史』第四巻 古代中世通史編 P.271-272)。
  4. ^ 尊卑分脈』・『系図纂要』・『続群書類従』所収「結城系図」・「結城系図」(別途脚注参照)など、いずれの系図でも一致している。例外的に、鎌倉時代末期に作成されたとみられる『結城小峯文書』内の「結城系図」では、貞広の子が犬鶴丸、追筆で「使 左衛門尉 朝高 結城七郎」となっている(『結城市史』第四巻 古代中世通史編 P.933)が、結城氏家督継承者の通称である「結城七郎」を称している事、左衛門尉及び検非違使に任官している事のいずれもが朝祐に合致しているため、この朝高も朝祐と同一人物と考えられている(『結城市史』第四巻 古代中世通史編 P.275-277 「結城朝高」の節)。よって、貞広の男子は朝祐(初め朝高)ただ一人であった事が分かる。
  5. ^ 但し、宗広は下総結城氏から見ればあくまで庶流としての地位を占めていたに過ぎず、惣領家にとって代わるという事はなかったが、得宗家に接近する等して自立性を強め、鎌倉時代末期には惣領の結城朝祐に対し、実際の力関係という点では凌いでいた(『結城市史』第四巻 古代中世通史編 P.273-275 「下総・白河両結城氏の立場」の節 を参照)。

出典[編集]

  • 『結城市史』第一巻 古代中世史料編(結城市、1977年)
  • 『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)
  • 市村高男 「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫入間田宣夫白根靖大編『中世武家系図の史料論 上巻』(高志書院、2007年))