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山内豊範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山内豊範
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 弘化3年4月17日1846年5月12日
死没 明治19年(1886年7月13日(40歳没)
改名 幼名:熊五郎、鹿次郎、:鵬洋
戒名 崇文院殿天常端誠大居士
墓所 高知県高知市天神町の真如寺
官位 正二位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
土佐藩主→高知藩知事
氏族 山内氏
父母 父:山内豊資、養父:山内豊信
兄弟 豊熈豊惇豊矩豊範
正室:毛利信順毛利斉熙三男)の娘
継室:上杉斉憲の娘
豊景豊静豊中、寿子、娘(大関増輝正室)
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山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名明治前期の日本華族実業家位階爵位正二位侯爵

土佐藩第16代(最後)藩主で、同藩初代(最後)藩知事。三条実美の従弟にあたる。

経歴

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第12代藩主・山内豊資の十一男として生まれる。嘉永元年(1848年)に兄の豊熈(第13代藩主)、豊惇(第14代藩主)が相次いで死去したため後継者と目されたが、わずか3歳だったため、家督は分家出身の豊信(容堂)が継承することとなった。安政6年(1859年)2月26日、豊信が安政の大獄で隠居処分となったため、家督を継承した。

しかし文久2年(1862年)に豊信の隠居が解かれると、実権は豊信に握られることとなり、豊範の主体性は薄かった。同年、朝廷から京都警護の内勅を受ける。明治2年(1869年)には薩摩藩長州藩などと共に連名で版籍奉還を行なった。また、義父・上杉斉憲米沢藩戊辰戦争によって官軍の追討を受けると、その赦免に奔走した。

明治4年(1871年)の廃藩置県後は、鉄道事業や銀行事業などの成立に寄与している。明治19年(1886年)7月13日、41歳で死去した。跡を長男の豊景が継いだ。

栄典

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系譜

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豊範の主要家臣

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元治元年(1864年)の武鑑掲載の主要家臣は以下のとおり。

家老
深尾内記、山内主馬、山内下総(酒井勝作)、深尾蕃顕(弘人)、五藤内蔵助、桐間蔵人、福岡宮内、山内昇之助、柴田備後深尾丹波、山内藤馬
中老
山内右近、山内掃部、山内八郎、松下一学、寺村主水、安田斎、渡辺玄蕃、西野丹下、村田仁右衛門、孕石主税
仕置役
吉田元吉、朝比奈泰平、真辺正心(榮三郎)
用人
寺村左膳、由比猪内、渡辺弥久馬定府)、坂井与次右衛門、仙石寅治、葛目楠吉、下田七郎、神山左多衛、間左平
城使
宮井駿蔵(定府)、若尾直馬(定府)

主治医

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登場作品

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脚注

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  1. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  2. ^ 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
日本の爵位
先代
叙爵
侯爵
(高知)山内家初代
1884年 - 1886年
次代
山内豊景