山内豊隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
山内豊隆
Yamauchi Toyotaka.jpg
山内豊隆像(土佐山内家宝物資料館蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝元年11月16日1673年12月23日
死没 享保5年4月14日1720年5月20日
改名 右京・松之助(幼名)→鳥居伊右衛門→豊隆
別名 豊長
戒名 竜泉院静国鉄心
墓所 高知県高知市天神町の真如寺
官位 従四位下侍従土佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
土佐藩
氏族 山内氏
父母 父:山内一俊、母:鳥居忠春娘・浄心院
養父:山内豊房
兄弟 豊房、
休(山内豊昌養女、久留島通政継室)、豊隆豊秀、女子
正室:なし
側室:北川氏(円徳院)ほか
豊常、長(山内豊敷正室)、
整(上杉宗憲正室)、久米千代、氏松ら10男4女

山内 豊隆(やまうち とよたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名土佐藩6代藩主。

生涯[編集]

延宝元年(1673年)11月16日、山内家の分家である武蔵国指扇山内家(新橋山内家)の当主・山内一俊の次男として生まれる。はじめ鳥居家の養子となって鳥居伊右衛門と名乗っていた。しかし兄の5代藩主・山内豊房に継嗣がなかったため、宝永3年(1706年)に兄が死去すると、その養子として跡を継いだ。

しかし豊隆は無能であり、兄が登用した山内規重谷秦山深尾重方などを次々と処罰してゆく。宝永4年(1707年)10月4日には宝永地震で1,844人(10月26日時点)の死者を出すという惨事に見舞われた[1]ため、地震の救済に務めながら宝永の改革と呼ばれる藩政改革に着手したが、効果はなかった。

享保5年(1720年)4月14日、江戸で死去した。享年48。跡を次男の豊常が継いだ。

先代からの重臣たちを次々と粛清したことから評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている。

出典[編集]

  1. ^ 間城龍男 『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』 あさひ謄写堂、1995年