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伊達行朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達行朝/伊達行宗
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応4年(1291年
死没 正平3年/貞和4年5月9日1348年6月6日
改名 行朝(初名)→行宗[1]
別名 藤原朝村、伊達入道[2][3]
諡号 念海公
官位 従五位下左近将監従四位下宮内大輔、贈従三位
幕府 鎌倉幕府
主君 北条高時後醍醐天皇
氏族 伊達氏
父母 父:伊達基宗
田村氏娘・静照院
宗遠行資宗政?
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伊達 行朝/伊達 行宗(だて ゆきとも/だて ゆきむね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。後年、行宗(ゆきむね)に改称した[4]官位従四位下宮内大輔伊達氏7代当主。南朝側の武将として各地を転戦した。

概要

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元弘元年(1331年)9月、元弘の乱に際して、北条高時の命によって畿内への討伐軍に加わった[4][3]。『太平記』などには「伊達入道」と記されており[3]諸根樟一らはこれを行朝に比定している[2][5]

元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政下で陸奥守として下向した北畠顕家に従い、同国の式評定衆の一人として奥羽行政の中枢に参画した。

建武2年(1335年)に顕家が足利尊氏を追って西上した際には、奥羽諸将と共に従軍し、延元元年(1336年)に帰国した。この留守の間に北朝方の勢力が盛んになり、多賀国府が脅かされると、国府は伊達氏の勢力圏にある霊山に移った。

延元2年(1337年)には、惨敗に終わる北畠顕家の二回目の西上にも従った。顕家の死後は常陸国伊佐郡伊佐城に一族の中村経長中村城主)らと共に楯籠ったが、高師冬に攻められ行朝と経長は囲いを突破し自領へ降りた[6]

正平3年/貞和4年(1348年)5月9日、死去した[7]

人物

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和歌にも通じており、『風雅和歌集』などにも入集した。和歌集での掲載名は藤原朝村

系譜

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注:系譜には疑問点も多い。詳細は伊達宗遠を参照のこと。

脚注

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  1. ^ 大槻文彦は『伊達行朝勤王事歴』の中で行宗は後世に付けられた名ではないかとの説を掲げた。
  2. ^ a b 結城宗広大勤王論(諸根樟一)
  3. ^ a b c 『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」
  4. ^ a b 「伊達行朝」『日本大百科全書』
  5. ^ Fukushima saishi, 第 1 巻、406頁
  6. ^ 真岡市史案内第4号・P69「中村城のこと」
  7. ^ 茨城県指定史跡の伊佐城跡(茨城県筑西市中館)に伊達宮内大輔行朝公塔と刻まれた供養塔あり。

関連作品

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関連項目

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