中村達太郎
中村 達太郎(なかむら たつたろう、万延元年11月15日(1860年12月26日) - 昭和17年(1942年)7月28日)は、日本の建築史家、建築家、建築学者。工学博士。
東京帝国大学教授として、建築に関する人材の育成に尽力した。また、建築学会草創期に会誌「建築雑誌」の編集を手がける。工手学校(現工学院大学)造家学科の教員も務めた。日本の建築構造学の始祖ともいわれ、建築構造や建築材料などの講義を行ったほか、建築史や晩年には建築衛生学なども教える。
建築界の各種委員会を嘱託し、建築条例実行委員会委員長として建築法令の制定にも関わる。1921-1923年に建築学会長を務めた。建築学会名誉会長。おもな建築作品に、改良演芸会会場、淀橋浄水場内施設、台湾製糖製造所などがある。
『日本建築辞彙』は日本初の建築用語辞典として知られ、広く読まれた。
生涯
[編集]1860年に江戸尾張藩邸で生まれる。1882年、工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、卒業後は工部省営繕局へ技手として入局する。1883年からは皇居造営事務局専務心得になる。1887年からは母校の後身である帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)助教授に就任。1894年教授に就く。
1892年に建築法規の研究のため欧米へ留学する。1894年に震災予防調査委員会委員に就任し、1897年にインドのアッサム地方震災の調査に、1905年にはサンフランシスコへ審査調査に向かう。
1907年には、台湾総督府庁舎設計図案懸賞審査の委員をつとめ、1915年に建築学会の建築条例実行委員長に就任。1918年から、臨時議院建築局の顧問。
1921年東京帝国大学を退官し、名誉教授になる。その後、教え子の田辺淳吉と中村田辺建築事務所を開設するほか、大蔵省営繕管財局顧問もつとめた。1942年に逝去。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
著書
[編集]- 『建築学階梯』(全3巻、米倉屋書店、明治20年(1887年))
- 『簡易構造強弱』(共益商会、明治30年(1897年))
- 『日本建築辞彙』(明治36年(1903年))
- 『建築衛生家屋排水の話』(松相社、大正9年(1920年))
- 『建築衛生除塵装置と汚水処分』(松相社、大正10年(1921年))
- 『鉄筋コンクリート早割出』(丸善、大正15年(1926年))
- 『給水給湯及消火設備』(丸善、昭和2年(1927年))
- 『換気煖房の計算必携』(丸善、昭和5年(1930年))
- 『建築随想-建築学会パンフレット』(昭和5年(1930年))
- 『新しき建築学階梯』(全3巻、丸善)
- 『火災防止、建築設備』(丸善、昭和8年(1933年))
など