ドミニク・デヌーチ
ドミニク・デヌーチ | |
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2012年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
ドミニク・デヌーチ ドン・デヌーチ ドン・デヌッツィ ドミニク・ブラボー |
本名 | ドミニク・デヌーチ |
ニックネーム | イタリアの虎鮫 |
身長 | 188cm - 191cm |
体重 | 120kg - 130kg |
誕生日 | 1932年1月23日[1] |
死亡日 | 2021年8月12日(89歳没)[1] |
出身地 |
イタリア ヴェネト州ヴェネツィア |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー |
ユーボン・ロバート トニー・ランザ |
ドミニク・デヌーチ(Dominic DeNucci、1932年1月23日 - 2021年8月12日[1])は、イタリア・ヴェネト州ヴェネツィア出身のプロレスラー。生年は1936年ともされた[2]。
ベビーフェイスのパワーファイターとして、イタリア系移民の多いニューヨークのWWWF圏を中心に活躍した[2][3]。日本では、ドン・デヌーチまたはドン・デヌッツィ(Don DeNucci)のリングネームで知られる。
来歴
[編集]1955年にイタリアからカナダのモントリオールに移住し、同地区のスター選手だったトニー・ランザのトレーニングを受けてデビュー。1960年代初頭はドミニク・ブラボーと名乗り、初代ディノ・ブラボーとの "The Bravo Brothers" で活動した[4]。
その後、リングネームを本名のドミニク・デヌーチに戻してシングルプレイヤーとなり、アメリカ合衆国のNWA圏に進出。1964年1月25日にはサンフランシスコにてレイ・スティーブンスからUSヘビー級王座を奪取した[5]。同年下期からはオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征、11月7日にキラー・コワルスキーを破り、豪州版のIWA世界ヘビー級王座を獲得している[6]。
カナダでの活動も続け、1966年12月26日にはバンクーバーにてドン・レオ・ジョナサンと組み、ダッチ・サベージ&ドン・ジャーディンからNWA世界タッグ王座を奪取[7]。翌1967年からはWWWFに登場、バロン・シクルナ、ブル・ラモス、ケンタッキー・ブッチャー、ルーク・グラハム、プロフェッサー・タナカ、ブルドッグ・ブラワー、ルー・アルバーノなどのヒール勢と対戦した[4]。
以降、1960年代後半から1970年代初頭にかけてはオーストラリアとWWWFを股にかけて活躍。オーストラリアではマーク・ルーインらをパートナーに、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイス、スカル・マーフィー&キラー・カール・コックス、コワルスキー&ビル・ミラーなどの強力チームを破り、IWA世界タッグ王座を再三獲得[8]。1970年1月7日にはキング・イヤウケアに勝利し、IWA世界ヘビー級王座への通算4回目の戴冠を果たした[6]。WWWFでは1971年6月18日、同郷の大スターであるブルーノ・サンマルチノとのコンビでザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)からインターナショナル・タッグ王座を奪取している[9]。
1971年下期からはNWFに参戦し、12月8日にワルドー・フォン・エリックを下してNWF世界ヘビー級王座を獲得[10]。NWFではオーストラリアでもタッグを組んでいたトニー・パリシ(アントニオ・プリエーゼ)とイタリア人コンビを結成、NWF離脱後もパリシとのタッグチームで活動し、フロリダでは1974年12月28日、トール・タナカ&ディック・スレーターからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取した[11]。
1975年よりWWWFに復帰して、5月13日にビクター・リベラと組んでバリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント&ジョニー・バリアント)からWWWF世界タッグ王座を奪取[12][13]。リベラのWWWF離脱後はアイリッシュ・パット・バレットを新パートナーに防衛戦を行ったが、同年8月26日、ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)にタイトルを奪われた[13]。
王座陥落後もWWWFを主戦場に、1977年6月10日にはペンシルベニア州ピッツバーグにてスーパースター・ビリー・グラハムのWWWFヘビー級王座に挑戦した[14]。1978年はディック・ザ・ブルーザーが主宰していたインディアナポリスのWWAにも出場し、3月4日にウイルバー・スナイダーと組んでバリアント・ブラザーズからWWA世界タッグ王座を奪取[15]。10日後の3月14日には2代目のディノ・ブラボーをパートナーに、タナカ&ミスター・フジを破ってWWWF世界タッグ王座に再び戴冠[12][13]、WWAとWWWFの両世界タッグ王座の2冠王となった[3]。
1980年代初頭もWWFへの出場を続け、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、サージェント・スローター、ザ・ハングマン、アンジェロ・モスカ、キラー・カーン、ジェシー・ベンチュラ、アドリアン・アドニスらヒール勢のジョバーを務めた。1983年にWWFを離れてからは、ビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻の対抗組織としてAWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが結成した "Pro Wrestling USA" のニューヨーク近郊での興行に単発出場していた[16]。
現役引退後はニューヨーク・タイムズの運転手となって働く一方、ピッツバーグのレスリング・スクールにて後進の指導・育成に携わり、ミック・フォーリーやシェーン・ダグラスを指導した。近年も東部地区のインディー団体やリユニオン・イベントに出場しており、2005年8月27日の "WrestleReunion 2" ではイワン・コロフ、2007年3月24日の "IWC Night of Legends 3" ではラリー・ズビスコなど、往年のライバルとの対戦も実現している[16]。2012年4月14日にはトロントのPWSにて弟子のダグラスとタッグを組んだ[16]。
2021年8月12日に死去したことが、カリフラワー・アレイ・クラブより発表された[17]。89歳没。
日本マットでの活動
[編集]1968年4月、ドン・デヌーチのリングネームで日本プロレスに初来日し、『第10回ワールドリーグ戦』に「イタリア代表」として出場。対日本陣営ではジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎、吉村道明には敗退するも、星野勘太郎、山本小鉄、ミツ・ヒライ、デューク・ケオムカからは勝利を収め、外国陣営ではコワルスキー、ジェス・オルテガ、フレッド・ブラッシー、ターザン・タイラーに次ぐパット・パターソンと同点の戦績を残した[18][19]。1971年11月の再来日では、同月24日に姫路にて大木のアジアヘビー級王座に挑戦[20]。3度目の来日となる1972年10月には、全日本プロレスの旗揚げシリーズに盟友サンマルチノと共に参戦している[21][22]。WWFと新日本プロレスの提携後も新日本には来日せず、サンマルチノの縁故で1981年10月まで通算5回全日本プロレスに来日したが、日本では真価を発揮することはできなかった[23]。
得意技
[編集]- エアプレーン・スピン - ジェス・オルテガやブラックジャック・マリガンなどの巨漢レスラーを軽々と振り回したこともある[23]。
- アトミック・ドロップ
- アブドミナル・ストレッチ
獲得タイトル
[編集]- NWA世界タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / ドン・レオ・ジョナサン)[7]
- IWA世界ヘビー級王座:3回[6]
- IWA世界タッグ王座:3回(w / マーク・ルーイン、トニー・パリシ、マリオ・ミラノ)[8]
- WWWFインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ブルーノ・サンマルチノ)[9]
- WWWF世界タッグ王座:2回(w / ビクター・リベラ〜パット・バレット、ディノ・ブラボー)[12][13]
- NWF世界ヘビー級王座:1回[10]
- NWF北米ヘビー級王座:1回
- NWF世界タッグ王座:1回(w / トニー・パリシ)
- WWA世界タッグ王座:1回(w / ウイルバー・スナイダー)[15]
- Lutte Internationale
脚注
[編集]- ^ a b c “Dominic DeNucci”. Wrestlingdata.com. 2015年10月10日閲覧。
- ^ a b 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P51(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b “Dominic DeNucci”. Online World of Wrestling. 2020年6月27日閲覧。
- ^ a b “Matches of Dominic DeNucci: 1960-1969”. Cagematch. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “NWA United States Heavyweight Title [San Francisco]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b c “IWA World Heavyweight Title [Australia]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “NWA World Tag Team Title [Vancouver]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “IWA World Tag Team Title [Australia]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “WWWF International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “NWF World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “NWA Florida Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b c “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b c d “WWWF-WWF-WWE World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1977”. The History of WWE. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b “WWA World Tag Team Title [Indianapolis]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ a b c “Matches of Dominic DeNucci: 1981-2012”. Cagematch. 2013年11月2日閲覧。
- ^ "ドン・デヌーチさん死去89歳 イタリア人プロレスラー、全日本などで活躍". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 13 August 2021. 2021年8月13日閲覧。
- ^ “The JWA matches fought by Dominic DeNucci in 1968”. Wrestlingdata.com. 2015年10月10日閲覧。
- ^ “JWA 1968 The 10th Annual World League”. Puroresu.com. 2019年3月18日閲覧。
- ^ “JWA 1971 World Champion Series”. Puroresu.com. 2019年3月18日閲覧。
- ^ “AJPW 1972 Giant Series”. Puroresu.com. 2019年3月18日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Dominic DeNucci in 1972”. Wrestlingdata.com. 2015年10月10日閲覧。
- ^ a b 『16文が行く (新装版) 』P170-172(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)
- ^ “NWA World Tag Team Title [Detroit]”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月1日閲覧。
- ^ “International Tag Team Title [Stampede Wrestling]”. Wrestling-titles.com. 2014年8月16日閲覧。
- ^ “International Tag Team Title [International Wrestling]”. Wrestling-titles.com. 2013年8月16日閲覧。