ダニエル・アラップ・モイ
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ダニエル・アラップ・モイ Daniel arap Moi | |
任期 | 1978年8月22日 – 2002年12月30日 |
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副大統領 | ムワイ・キバキ ジョゼファト・カランジャ ジョージ・サイトティ ムサリア・ムダヴァディ |
任期 | 1981年6月24日 – 1983年6月3日 |
任期 | 1967年1月5日 – 1978年8月22日 |
大統領 | ジョモ・ケニヤッタ |
任期 | 1963年12月5日 – 2002年12月20日 |
出生 | 1924年9月2日 ケニア植民地 サッチョ |
死去 | 2020年2月4日(95歳没) ケニア ナイロビ |
政党 | (ケニア・アフリカ民主同盟→) ケニア・アフリカ民族同盟 |
受賞 | |
出身校 | タンバック教育大学 |
配偶者 | レナ・モイ (1951年 - 2004年) |
子女 | 8人 |
宗教 | キリスト教 |
署名 |
ダニエル・トロイティッチ・アラップ・モイ(スワヒリ語: Daniel Toroitich arap Moi, 1924年9月2日 - 2020年2月4日)は、ケニアの政治家。1978年10月から2002年12月まで同国大統領(第2代)を務めた。ケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) 所属。
来歴
[編集]1978年、初代大統領ジョモ・ケニヤッタの死亡に伴い、副大統領から昇格。KANU一党独裁体制のもと、5選・24年間の長期政権を維持する。その統治は強権的なものであり、独裁批判の絶えることは無かった。少数民族カレンジン(Kalenjin)の1グループトゥゲン(Tugen)の出身であり[1]、自民族を優遇しキクユ人等多数派を冷遇。また反体制派を多数弾圧投獄した。長期にわたる独裁体制及び政情不安のため、経済が停滞。そのため不満の声が高まり、1992年に複数政党制を認めざるを得なくなる。しかし、野党勢力は有力な人物を欠き、統一することができなかったため、民主化後も当選を重ねた。2002年、高齢のため引退を表明。後継の大統領候補にウフル・ケニヤッタ(ケニヤッタ初代大統領の息子)を指名するも、与党内からも反発が大きく、選挙ではムワイ・キバキに敗れた。
2020年2月4日早朝に95歳で死去。ただしウフル・ケニヤッタ大統領が発表した死去した場所については、ケニア西部の自宅とする報道と[2]、ケニアの大手新聞社デイリー・ネーションのナイロビ病院とする報道がある[3]。
人物
[編集]脚注
[編集]- ^ 津田みわ 著「一党独裁」、松田素二、津田みわ 編『ケニアを知るための55章』明石書店、2012年、91-95頁。ISBN 978-4-7503-3623-7。
- ^ “ケニアのモイ元大統領死去、95歳”. AFPBB News. フランス通信社. (2020年2月4日) 2020年2月4日閲覧。
- ^ John Kamau (2020年2月4日). “Kenya mourns death of an icon”. Daily Nation. 2020年2月4日閲覧。
外部リンク
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外交職 | ||
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先代 シアカ・スティーブンス |
アフリカ統一機構議長 第20代:1981 - 1983 |
次代 メンギスツ・ハイレ・マリアム |