ポール・ビヤ
ポール・ビヤ Paul Biya | |
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任期 | 1982年11月6日 – |
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任期 | 1975年6月30日 – 1982年11月6日 |
出生 | 1933年2月13日(90歳)![]() |
政党 | カメルーン人民民主連合(RPDC) |
配偶者 | ジャンヌ=イレーヌ・ビヤ(1992年まで) シャンタル・ビヤ(1994年から) |

ポール・ビヤ(Paul Biya 、又はPaul Barthélemy Biya'a bi Mvondo、1933年2月13日 - )は、カメルーンの政治家。1982年より同国の大統領を務めている。2022年9月8日にはイギリスの女王エリザベス2世が96歳で崩御したことにより、90歳で存命する就任中の国家元首の中で、世界最高齢となった。
来歴[編集]
ビヤはフランス領カメルーン(当時)南部のムヴォメカ村に生まれた。パリ政治学院で学び、1961年に国際関係論で学位を受けた。
カメルーンに帰国後、アマドゥ・アヒジョ大統領に仕え、1975年に首相に任命された。アヒジョが1982年11月6日に辞任すると、ビヤは大統領になった。アヒジョは辞任後、ビヤと政治的に対立するようになった。アヒジョは1983年に国外追放され、1989年にセネガルのダカールで死亡した。
ビヤは反対者に対して強硬な姿勢をとると一部からは批判されており、またしばしば国民に対して超然としていると非難されている。ビヤはカメルーンの英語使用者(かつて英国植民地だったカメルーンの地域の住民)からも「社会的少数者を孤立させる政策を採り、抑圧的である」と強く非難されている。ビヤに対するもっとも強い反対はこの地方からなされている。
また、サッカーカメルーン代表引退を発表していたロジェ・ミラを自らチームに呼び戻すなど、サッカーを政権への不満逸らしに利用[1]。1992年の総選挙に際しては反対勢力が10月11日の大規模ストライキを予告していたが、ビヤは、同月10日開催のFIFAワールドカップ最終予選最終節・カメルーン対ジンバブエにおけるカメルーンの勝利及び同国の本大会出場権獲得に乗じて、翌11日を国民の休日にすると宣言。ビヤの目論見通りストライキは取り止められた[1]。
ビヤは2004年10月11日の選挙で再選された。公式に発表された得票率は75%であるが、選挙には不正があったという指摘もあり、これを理由とする選挙結果に対する反対もなされている。2011年の選挙でも当選し、85歳で臨んだ2018年大統領選挙でも得票率71%で7選。野党は選挙無効を訴えたが、10月19日に憲法評議会が訴えを却下している[2]。2025年までの任期を全うすれば92歳、43年間の長期政権となる。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 公式ページ(フランス語)
外交職 | ||
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先代 メレス・ゼナウィ |
アフリカ統一機構議長 第34代:1996 - 1997 |
次代 ロバート・ムガベ |
公職 | ||
先代 アマドゥ・アヒジョ |
![]() 第2代:1982 - |
次代 (現職) |
先代 (創設) |
![]() 初代:1975 – 1982 |
次代 Bello Bouba Maigari (en) |