ジョモ・ケニヤッタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
ジョモ・ケニヤッタ
Jomo Kenyatta
Jomo Kenyatta 1978.jpg

ケニアの旗 ケニア共和国
初代首相
任期 1963年12月12日1964年12月12日

任期 1964年12月12日1978年8月22日

出生 1893年10月20日
Flag of British East Africa.svg イギリス領東アフリカ
ガトゥンドゥ、イチャウェリ
死去 (1978-08-22) 1978年8月22日(84歳没)
 ケニアモンバサ
政党 ケニア・アフリカ民族同盟
配偶者 グレース・ワフ (1919年頃に離別)

エドナ・クラーク(1942-1946 イギリス人女性) グレース・ワンジク(1950年に死別) エンジナ・ケニヤッタ

ジョモ・ケニヤッタJomo Kenyatta, 1893年10月20日 - 1978年8月22日)は、ケニアの初代首相(1963 - 1964年)および初代大統領(1964年 - 1978年)。独立国家としてのケニアの創立者。生年月日はあくまで「公式」設定で定かではなく、1889年〜1895年まで幅がある。なお出生時の名はカマウ・ウェ・ンゲンギ(Kamau wa Ngengi)で、独立運動を開始した際「ケニアの光」を意味する名に改めたという。従って、彼に因んでケニアの国名が命名された訳ではない。また、「ケニヤッタ」とは、いつも身につけていたベルト「Kinyata」にちなむと言う説もある。

 子供の頃はミッション系の学校で教育を受け、1913年に、キクユ族の成人の儀式を終えている。その後、農園労働者、商店の事務員、ナイロビ市の水道局職員等を掛け持ちで働き、白人の標準からしてもかなり裕福な暮らしぶりだったという。1917年から19年にかけて、最初の妻グレース・ワフ(?-2007 死去時は110歳くらい)と結婚しており、二人の子をもうけた。1923年頃から居酒屋経営をはじめるが、そこが民族運動家の溜まり場となったことから政治活動にも興味を持つようになり、1926年にキクユ中央連盟(Kikuyu Central Association, KCA)の書記として活動に参加しはじめる。1927年、組織の金を横領して姿を消した前任者の後をついで、仕事を辞めてKCAの活動に専念するようになった。

 1929年と31年にKCA代表として渡英し、植民地省との交渉にあたる。なお、1931年にはマハトマ・ガンジーと会見している。そしてそのまま帰国せず、ロンドン大学に入学した。同時に、ロンドンスクール・オブ・エコノミックの研究生となり、文化人類学者マリノフスキーに師事して、キクユ族の伝統文化について研究を行い、1938年、欧米で出版された最初のアフリカ人の著作と言われる名著「ケニア山を望んで Facing mount Kenya」を出版。この時、初めて「ケニヤッタ」と言う名前を用いている。その後、人類学の研究書や、ケニアの伝説に範をとった小説などをいくつか出版した後、1939年からは、ロンドン大学の教員、イギリス軍の顧問などを務めた。そして1942年には、イギリス人女性エドナ・クラークと結婚して子供も設けている(1946年に離婚)。

 1946年、ケニアに帰国。キクユ族の長老の娘と結婚し(1950年に死別)、教員として働くが、1947年6月、ケニア・アフリカ人連合(Kenya African Union, KAU)党首に選ばれた。1951年、最後の妻となるキクユ族の長老の娘、エンジナと結婚。エンジナは、ケニア最初のファーストレディ、「ママ・エンジナ」として今も人気がある。

1952年にマウマウ団の乱に関係したとされ、またその一味であったとされ逮捕された。裁判官通訳者などが不当にケニヤッタを扱った[1]とされる裁判は5ヶ月に及び、結果として7年間の重度労役処分[2]とされたが、ケニア北西の辺境地ロドワーに移送され保護監察下での執行猶予処置とされた。現在の研究でも、彼とマウマウとの関係はあったとされているが、他の説を唱える研究もある[3]。結果的に1959年まで刑務所で過ごすこととなった。

1963年にケニアが独立すると初代首相となり、1年後に大統領制に移行するとそのまま大統領となった。大統領としてのケニヤッタは一貫して西側寄りの資本主義体制を堅持し、外資を積極導入し西側寄りの政策を取った。このためケニア経済は発展し、東アフリカの地域大国となっていった。一方で国内では独裁政治を行い、1969年には完全に与党ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)による一党制を敷くこととなった。また、自らの出身民族であり、ケニア最大民族でもあるキクユ人の優遇を行い、後の民族対立の発端となった。

ケニアのみならず、アフリカ諸国の民族運動に大きな影響を与えた。自らの出身でもあるキクユ族の研究でも民俗学者として業績を残す。ナイロビにあるジョモ・ケニヤッタ国際空港は彼にちなんで名付けられた。建国の父として「ムゼー(Mzee、おじいさん)」という愛称がある。1966年から現在に至るまで、複数額面のケニア・シリング紙幣で肖像が使用されている。

語録[編集]

白人がアフリカにやってきたとき、われわれは土地を持ち、彼らは聖書を持っていた。彼らはわれわれにを閉じて祈ることを教えた。われわれが目を開いたとき、彼らは土地を持ち、われわれは聖書しか持っていなかった」

脚注[編集]

  1. ^ David Anderson (2005), Histories of the Hanged: Britain’s Dirty War in Kenya and the End of Empire, Weidenfeld & Nicolson: London p. 65参照
  2. ^ Chatterjee, Ramananda. The Modern Review, 2006. P. 344参照
  3. ^ John Lonsdale (1990) Mau Maus of the Mind: Making Mau Mau and Remaking Kenya, The Journal of African History 31 (3): 393-421参照

外部リンク[編集]