イディ・アミン
| イディ・アミン Idi Amin Dada |
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| 任期 | 1971年 – 1979年 |
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| 副大統領 | ムスタファ・アドリシ |
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| 出生 | 1925年頃 |
| 死去 | 2003年8月16日 |
| 配偶者 | マルヤム・アミン (離婚) ケイ・アミン (離婚) ノラ・アミン (離婚) メディナ・アミン サラ・アミン |
イディ・アミン・ダダ(Idi Amin Dada、1925年[1] - 2003年8月16日)は、ウガンダの軍人、政治家、第3代大統領。元帥、法学博士[2]の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンや1975年にはアフリカ統一機構議長になったこともある。
目次
経歴[編集]
生い立ち[編集]
アミンは生涯を通じて自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。イギリスの植民地時代のウガンダで1925年頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。
マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 – 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の西ナイル地方に住むカクワ族出身で、1910年にカトリックからイスラム教へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、イディ・アウォ=オンゴ・アンゴー(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。グウェデコによれば母はルグバラ族の伝統的なハーブ療法家のアッサ・アアテ(1904年 – 1970年)でブガンダ王室にも患者がいた。
軍歴[編集]
| 軍歴 | |
| イギリス植民地軍 王立アフリカ小銃隊 | |
| 1946年 | 王立アフリカ小銃隊入隊 |
| 1947年 | 二等兵 (Private) |
| 1952年 | 伍長 (Corporal) |
| 1953年 | 軍曹 (Sergeant) |
| 1958年 | 曹長 (小隊長) |
| 1959年 | エフェンディ (准士官) |
| 1961年 | 最初のウガンダ人国王任命士官 中尉 |
| ウガンダ軍 | |
| 1962年 | 大尉 |
| 1963年 | 少佐 |
| 1964 | 国軍副司令官 |
| 1965年 | 大佐 国軍司令官 |
| 1968年 | 少将 |
| 1971年 | 国家元首 国防評議会議長 国軍総司令官 陸軍参謀長 空軍参謀長 |
| 1975年 | 元帥 |
イディはボンボのイスラーム学校でコーランを暗唱、雑務をへて、1946年イギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊に炊事係として雇われた[3]。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍、衆目を浴びる。
ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、白人ばかりのウガンダのラグビーチーム唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍中尉にまで昇進する。ウガンダ独立後はミルトン・オボテに協力しムテサ2世を排除、ウガンダ軍参謀総長となった。
大統領[編集]
権力掌握[編集]
ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月、イギリス連邦首脳会議のためオボテが外遊中に軍事クーデターで権力を掌握。1970年代のウガンダに独裁政治を敷いた。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは冷戦下において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し成功した。
その後は、クーデターを支持したイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国や、イスラエルと友好的な関係を持つこととなり、これらの国からの投資や企業の進出を受け入れることになる。
独裁[編集]
しかし、やがて独裁化が進むとともにオボテ支持派を弾圧し、アジア人(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身の印僑であり、これに伴いインドはウガンダと国交断絶した)を追放、国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称された。
近隣及び西側諸国との対立[編集]
この様な独裁と弾圧、虐殺を西側諸国から批判された上に、経済制裁を受けたことで当初の親西側諸国の姿勢を急変させ、反西側諸国、反イスラエルの姿勢を取って双方の軍事顧問を追放するとともに[4]、アフリカにおける反欧米の代表的存在のリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーと接近した[5][6][7]。
さらに、当時冷戦下で西側諸国と対峙していたソビエト連邦がウガンダ最大の武器供給国となる[8]。また、東ドイツの情報機関とも協力し、後のタンザニア侵攻でも関わっている[9]。
1975年からはアフリカ統一機構議長を務めることとなったものの、反西側諸国、反イスラエル姿勢をさらに強め、その結果西側諸国と良好な関係を保っていた近隣諸国との関係も悪化することになる。さらに1976年に発生したエールフランス機ハイジャック事件における対応に失敗し、国際的な批判を浴びただけでなく、イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦を招く結果となり、ウガンダ軍内からの離反を招く結果となる。
1978年に、ウガンダ軍を軍事訓練を行うふりをして、かねてから対立していた隣国タンザニアに侵攻させるが失敗し、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。この事でこれまで何とか掌握をしていたウガンダ軍主流派の離反は決定的なものとなる。
失脚[編集]
1979年に、反体制派のウガンダ民族解放軍(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、西側諸国との関係悪化後に緊密な関係を持ったカッザーフィーのリビア経由でサウジアラビアへ亡命した。
死去[編集]
サウジへの亡命後は表舞台に姿を見せることもなくなり、2003年8月16日にジッダの病院で多臓器不全による合併症で死去した。生涯ウガンダに帰国することはなかった。
エピソード[編集]
- 「虐殺した政敵の肉を食べた」などの噂を立てられた結果、「人食い大統領」というニックネームもつけられたが、実際のアミンは菜食主義者で、肉は鶏肉しか口にしたことがなかったといわれている[10]。
- ボクシングのヘビー級チャンピオンになった経歴から、アントニオ猪木との異種格闘技戦の計画が浮上したことがある。仕掛け人は康芳夫。アミンは1979年1月にこの猪木戦を承諾し特別レフェリ-にモハメド・アリを招聘し開催時期まで決まりかけていたが、結局、反体制派クーデターの影響でお流れになった。
- ユーモア精神の持ち主で、1974年に開かれたアフリカ統一機構の首脳会議での演説でも大いにジョークを連発した。その際、激しい対立関係にあったタンザニアの大統領、ニエレレも握手を求めにきたアミンの手を思わず握り返してしまったという。
- さだまさしは名前の響きが面白いと思い、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」(アルバム『夢供養』収録)に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」と名づけた。さらに、さだのファンだった岡村孝子は、この名前を取って自らのユニット名を「あみん」とした。
- ウガンダ・トラは、アミンと容姿が似ていた事からこの芸名がつけられた。
- 終生貨幣経済や金銭に関して疎かった。若い頃、銀行員が小切手について「額とサインを書けば使用できる」と説明したのを「いくらでも使用できる」と勘違いして大量発行してもらい、数日後に使い切ると再び発行を要求したことが上司に知られ、支払いを取り消されたことがあった。大統領時代も浪費癖を側近に諫められると「それなら(紙幣を)刷ればいいじゃないか」と大真面目に答えたという。
関連作品[編集]
小説[編集]
- 『スコットランドの黒い王様』(原題:The Last King of Scotland) 武田将明訳、新潮社〈新潮クレスト・ブックス〉、1999年6月
- アミン政権下のウガンダを題材にしたジャイルズ・フォーデン (Giles Foden) の小説。アミンに仕えたスコットランド人の白人青年医師の視点から描かれている。
映画[編集]
- "Général Idi Amin Dada: Autoportrait"(General Idi Amin Dada: A Self Portrait)
- 1974年 フランス バーベット・シュローダーの監督によるドキュメンタリー。本人が出演。
- 『食人大統領アミン』(原題:Rise and Fall of Idi Amin)
- 『ラストキング・オブ・スコットランド』(原題:The Last King of Scotland)
- フォーデンの小説を元にケヴィン・マクドナルド監督が2006年に映画化。アミンを演じたフォレスト・ウィテカーがゴールデン・グローブ賞、アカデミー賞それぞれの主演男優賞に輝いた。日本では2007年3月10日公開。
漫画[編集]
- 『ゴルゴ13』「独裁者の晩餐」(1977年 著者:さいとうたかを)
- 『巨悪学園』(2011年 著者:長沢克泰うどん)
- アミンをモデルにした生徒として井出網野 王命(16歳)が登場。体格は実際のアミンよりも小柄に描かれており、部下からは「将軍」と呼ばれている。第6話にてトイレマナーをめぐるトラブルに怒り、主人公の新命 龍明抹殺のため私軍を出動させる。
脚註[編集]
- ^ a b ブリタニカ、エンカルタ、コロンビア等の百科事典は出生日不詳で1925年頃にコボコかカンパラで生まれたとしている。マケレレ大学のフレッド・グウェデコは1928年5月17日であると主張している[1]。これには議論があり、[2]死後の混同も含まれる。医師がアミンが80歳で死亡したと語ったため1923年生まれとする例もある。1920年代生まれであることは確実である。
- ^ "Idi Amin: a byword for brutality", News24, July 21, 2003.
- ^ "Amin, Idi", Encyclopædia Britannica Online, Retrieved April 16, 2008.
- ^ Tall, Mamadou (Spring–Summer 1982). "Notes on the Civil and Political Strife in Uganda". A Journal of Opinion (Issue: A Journal of Opinion, Vol. 12, No. 1/2) 12 (1/2): 41–44. doi:10.2307/1166537. JSTOR 1166537.
- ^ Roland Anthony Oliver, Anthony Atmore. Africa Since 1800. p. 272.
- ^ Dale C. Tatum. Who influenced whom?. p. 177.
- ^ Gareth M. Winrow. The Foreign Policy of the GDR in Africa, p. 141.
- ^ Dale C. Tatum. Who influenced whom?. p. 177.
- ^ Gareth M. Winrow. The Foreign Policy of the GDR in Africa, p. 141.
- ^ 歴史群像 2004年12月号 185頁
参考文献[編集]
- エーリッヒ・ヴィーデマン『アミン大統領』芳仲和夫訳、朝日イブニングニュース社、1977年
- エーリッヒ・ヴィーデマン『続・アミン大統領』朝日イブニングニュース社、1977年
- 山口智司『教科書には載せられない暴君の素顔』彩図社、2008年
関連日本語語文献[編集]
- 『大虐殺 アミンの恐るべき素顔』ヘンリー・キエンバ 青木栄一訳、二見書房、1977年
- 『独裁者アミン ウガンダの大虐殺』ダン・ウッディング、レイ・バーネット共著、島田礼子訳、いのちのことば社、1981年
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ミルトン・オボテ |
第3代:1971年 - 1979年 |
次代: ユスフ・ルレ (en) |
| 外交職 | ||
| 先代: モハメド・シアド・バーレ |
アフリカ統一機構議長 第14代:1975年 - 1976年 |
次代: シウサガル・ラングーラム |
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