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サー・オリバー・フンパーディンク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サー・オリバー・フンパーディンク
サー・オリバー・フンパーディンクの画像
左からケンドー・ナガサキ、フンパーディンク、ホワイト・ニンジャ(1986年)
プロフィール
リングネーム サー・オリバー・フンパーディンク
ビッグ・ダディ・ディンク
レッド・サットン
本名 ジョン・ジェイ・サットン
身長 178cm
体重 114kg
誕生日 (1949-01-16) 1949年1月16日
死亡日 (2011-03-20) 2011年3月20日(62歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミネソタ州の旗 ミネソタ州
ヘネピン郡ミネアポリス
デビュー 1973年
引退 1993年
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サー・オリバー・フンパーディンクSir Oliver Humperdink、本名:John Jay Sutton1949年1月16日 - 2011年3月20日)は、アメリカ合衆国プロレスリングマネージャーミネソタ州ミネアポリス出身。芸名である "Humperdink" の原音に近い表記は「ンパーディンク」だが、本項では日本で定着している表記を使用する。

1970年代から1980年代にかけて、フロリダCWFを中心にNWAの主要テリトリーで活躍[1]ハウス・オブ・フンパーディンクThe House of Humperdink)なるヒール軍団を組織し[2]、悪徳マネージャーとして観客のブーイングを浴びた[3]。キャリア末期は、WWFWCWでも活動した[3]

来歴

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少年時代からのプロレス・ファンであり、1965年に地元ミネアポリスの興行で会場の案内員を務めたことを機に業界入り[4]バーン・ガニアAWAにて、雑用係のリングボーイやセキュリティ・ガードとなって働きつつ、ニック・ボックウィンクルレイ・スティーブンスパット・パターソンボビー・ヒーナンディック・ベイヤーなどプロレスラーとの人脈を築いた[4]

1973年マッドドッグ・バションらが主宰していたカナダモントリオールのグランプリ・レスリングに活動の場を移し、レフェリーを経て、ブッチャー・バションの勧めでヒールマネージャーに転向[3][4]。特徴的な赤毛のため当初はレッド・サットンRed Sutton)と名乗り、後にドン・ジャーディンの提案により、ハンプティ・ダンプティを思わせる体型であったことからサー・オリバー・フンパーディンクSir Oliver Humperdink)と改名[3][4]ジェリー・ブラウンバディ・ロバーツハリウッド・ブロンズのマネージャーとなり、ミッドサウスやフロリダロサンゼルスなど各地を転戦した[3][4]

1976年にブロンズと別れ、エディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区に定着。以降、スーパースター・ビリー・グラハムオックス・ベーカーアーニー・ラッドイワン・コロフザ・ファンクスなどのヒール勢をマネージメントして、同地区のヒーローだったダスティ・ローデスとの抗争を指揮した[4][5]1982年から1983年にかけては、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区にて活動し、グレッグ・バレンタインポール・ジョーンズワンマン・ギャングらを担当[4]。その後はフロリダに戻り、ケビン・サリバンと結託してローデスやブラックジャック・マリガンと抗争を展開した[4]

彼自身はレスラーではないが試合にも時折出場しており、フロリダでは1980年にプレイング・マネージャーのロード・アルフレッド・ヘイズと抗争[5]1987年2月24日にはバッドニュース・アレンからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取している[6]1981年には、NWAセントラル・ステーツ地区デューイ・ロバートソンを破りTV王座を獲得したともされている[7])。

1987年、長く主戦場としていたフロリダ地区がジム・クロケット・プロモーションズに買収されたことを機に、NWAを離れてWWFと契約[4]バンバン・ビガロのマネージャーとなり、共にベビーフェイスのポジションでハルク・ホーガンとも共闘した[8]。WWFでは、リック・ルードと抗争していたポール・オーンドーフのマネージャーも務めている[3]

1988年にNWAへ復帰し、ヒールに戻ってサモアン・スワット・チーム(サムゥ&ファトゥ)などのマネージャーを担当。1990年代初頭のWCWでは、ビッグ・ダディ・ディンクBig Daddy Dink)の名義でファビュラス・フリーバーズマイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)のローディーを演じた[9]。しかし、彼はこのギミックに不満を持ち、当時のWCWの舞台裏における政治的な軋轢に疲弊したこともあり、1993年にプロレスリング・ビジネスから引退した[3]

2001年大動脈弁の置換手術を受け心臓ペースメーカーを移植。その費用は、プロレス関係者のOB会であるカリフラワー・アレイ・クラブの有志によって集められ、彼に寄付された[4]

2011年3月20日、肺炎による合併症で死去。62歳没[4]

担当選手

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獲得タイトル

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チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回[6]
セントラル・ステーツ・レスリング
  • NWAセントラル・ステーツTV王座:1回[7]

脚注

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  1. ^ Sir Oliver Humperdink: Places”. Wrestlingdata.com. 2020年7月5日閲覧。
  2. ^ House of Humperdink”. Online World of Wrestling. 2011年3月24日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Sir Oliver Humperdink recalls career of yesteryear”. SLAM! Sports (January 17, 2008). 2011年3月24日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k Sir Oliver Humperdink dead at 62”. SLAM! Sports (March 20, 2011). 2011年3月24日閲覧。
  5. ^ a b Sir Oliver Humperdink Interview Part Two”. Mid-Atlantic Gateway. 2017年3月24日閲覧。
  6. ^ a b NWA Florida Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年3月24日閲覧。
  7. ^ a b NWA Central States Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年3月24日閲覧。
  8. ^ WWE Yearly Results 1987”. The History of WWE. 2011年3月24日閲覧。
  9. ^ Garvin, Badstreet, Big Daddy Dink & Hayes”. Online World of Wrestling. 2011年3月24日閲覧。

外部リンク

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