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エリク・トルストベット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリク・トルストベット
2010年7月31日に撮影
名前
本名 エリク・トルストベット
愛称 エリク・ザ・バイキング
ラテン文字 Erik Thorstvedt
基本情報
国籍  ノルウェー
生年月日 (1962-10-28) 1962年10月28日(62歳)
出身地 スタヴァンゲル
身長 193cm
体重 88kg
選手情報
ポジション GK
ユース
1979 ノルウェーの旗madla IL
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1981 ノルウェーの旗バイキングFK 0 (0)
1982-1983 ノルウェーの旗EIKトンスベルグノルウェー語版 44 (0)
1984-1985 ノルウェーの旗バイキングFK 38 (0)
1986 ドイツの旗ボルシアMG 12 (0)
1987-1988 スウェーデンの旗IFKヨーテボリ 22 (0)
1989-1996 イングランドの旗トッテナム・ホットスパーFC 218 (0)
代表歴
1982  ノルウェー U-21 5 (0)
1982-1996 ノルウェーの旗 ノルウェー[1] 97 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エリク・トルストベット(Erik Thorstvedt、1962年10月28日 - )は、 ノルウェースタヴァンゲル出身の元サッカー選手。元ノルウェー代表。ポジションはGK。身長は193cmの長身で、リーチが長く、反射神経にも優れる。ノルウェー史上最高のGKとの呼び声も高い。

幼少期

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トルストベットは1962年10月28日にノルウェー、スタヴァンゲルで生まれた。彼は父、母と2歳上の兄とマドラノルウェー語版で育ち、1979年に地元のクラブ、地域リーグ3部のmadla ILでサッカーを始める[2]

クラブ

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1980年に地元のビッグクラブバイキングFKによって引き抜かれる。しかしそこでの出番は1度もなく、1882年にEIKトンスベルグノルウェー語版に移籍。そこで2シーズンプレーした後、バイキングFKに戻ると、そこでのプレーが国外のクラブからの注目を集め、1985年7月1日にドイツ1部ボルシアMGに移籍。

1986年3月18日、26節SVヴァルトホーフ・マンハイム戦(1-1)でブンデスリーガデビューを果たした。同年4月5日、30節ボルシア・ドルトムント戦(2-1)では、60分にレッドカードを提示され一発退場となった。85-86シーズン、トルストベットは9試合に出場し、チームはリーグ戦で4位の成績を収めた。1986-87シーズンは開幕から3試合連続で出場したが、それ以降はウーヴェ・カンプスドイツ語版にポジションを奪われ、1987年6月30日、スウェーデン1部IFKヨーテボリに移籍。

引退したトーマス・ヴァーナションドイツ語版の後を継ぐ形で1年プレー、22試合に出場しチームはリーグ戦を2位でシーズンを終えた。シーズンの終わりにトルストベットは、イングランド1部トッテナム・ホットスパーFCと契約。ヨーテボリに400,000ポンドが支払われ、トルストベットは1988年12月にロンドンに向かった。

当時トッテナムは正GKだったレイ・クレメンスが怪我のため1988年に引退し、GKはボビー・ミムズ英語版ピーター・ガスリー英語版の二人しかいなかった。正GKはボビー・ミムズが務めていたが、ミスが多く不安定だった。そのため本当のレイ・クレメンスの後継者となり得るノルウェーの若手GKとの契約にファンは期待した。そしてそのトルストベットのデビューは1989年1月14日21節ホームで迎えたノッティンガム・フォレストFC戦だった。しかしその試合、トルストベットはナイジェル・クラフのミドルシュートを、ほぼ正面であったが止めきれず、失点を許し試合には1-2で敗れてしまった。しかもこの試合はテレビでライブ放送されていたため、トルストベットのミスは多くの人の目に触れることとなり、トルストベットにとっては悪夢のようなデビュー戦となってしまった[3]。そんな悪夢のようなスタートを切りながらも正GKに定着し、1989年2月のサウサンプトンFC戦で初めてのクリーンシートを達成し、ゴール裏のスパーズファンに向かってグローブを投げ、早くもファンとの関係を築いた[4]。88-89シーズンはデビュー戦の21節から最終節まで連続で出場し、トルストベットは18試合で16失点、チームは6位でシーズンを終えた。翌89-90シーズンは34試合に出場、チームは3位という成績を残した。90-91シーズン、リーグ戦は10位という成績だったが、FAカップでは全6試合に出場し、見事に優勝を果たした。91-92シーズンは、UEFAカップウィナーズカップで準々決勝まで進むがフェイエノールトに0-1で敗れ、タイトル獲得はならなかった。その後トルストベットは1996年に背中の怪我を理由に34歳で引退。1994年10月29日12節ウェストハム・ユナイテッドFCを3-1で破った試合が最後の試合となった。

代表

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1982年から1996年にかけてノルウェー代表として、ノルウェー代表歴代キャップ数4位の97試合に出場。 1982年11月13日、クウェート戦(0-1)で代表デビュー。

1984年のロサンゼルスオリンピックにノルウェー代表として参加。トルストベットはグループリーグのチリ戦(0-0)、フランス戦(1-2)、カタール戦(1-0)の全3試合に出場したが、チームは1勝1敗1引き分けの3位でグループリーグ敗退となった。

1994年ワールドカップ予選にも参加。ノルウェー代表はオランダイングランドポーランドトルコサンマリノという顔ぶれのグループ2に入った。初戦でサンマリノを10-0で圧倒し、続くオランダ戦では2-1で勝利をおさめ、その後はイングランドを2-0で破るなど好調な戦いで、失点はグループ内最少の5、順位は1位で本大会出場を決めた。ノルウェーが本大会に出場するのは、1938年大会以来、56年ぶり、2回目のことであった。

1994年ワールドカップ本大会ではアイルランドメキシコイタリアという顔ぶれのグループEに入った。ノルウェーはトルストベットに加え、名リベロルネ・ブラツェットリヴァプールFCなどで活躍したビョルンビーマンチェスター・シティで300キャップという記録を持つハーランドマンチェスター・ユナイテッドなどで活躍したヘニング・ベルグという豪華な守備陣を擁した。トルストベットは全3試合に出場し、メキシコ戦、アイルランド戦でクリーンシートを達成し、失点はイタリア戦でセットプレーからディノ・バッジョに決められた1点のみで、グループ最少だった。ノルウェーはグループリーグを1勝1敗1引き分けの勝ち点4で終えた。しかしグループEは混戦で、4チームが3戦を1勝1敗1引き分けで終え、勝ち点が4、得失点差は0で並ぶという事態になり、得点数で順位を決めることになった結果、ノルウェーの得点はヒェティル・レクダルがメキシコ戦で決めた1点のみで、ノルウェーは最下位に沈み、グループリーグで姿を消した。

1996年3月27日の北アイルランド戦(2-0)が代表最後の試合となった。

引退後

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TV 2 Sportenノルウェー語版コメンテーターなどとして活動。 2005年にTVNorge英語版で放送されたリアリティ番組Heia Tufte!ノルウェー語版サッカー経験のない16人のおたくで結成されたTufte ILのコーチを務めた。

人物

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家族

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1985年に結婚し、妻との間にアレクサンダーとシャーロット・トルストベットノルウェー語版、の2人の子が生まれた。しかし1997年に離婚。 2001年にSiv Bore Thorstvedtと再婚。現在は4児の父となっている[5]。 娘のシャーロット・トルストベットノルウェー語版モデル。息子のクリスティアン・トルストベットは現役ノルウェー代表

タイトル

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クラブ

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IFKヨーテボリ

アルスヴェンスカン1987

トッテナム・ホットスパーFC

FAカップ1991

個人

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クニクセン賞英語版年間最優秀選手部門:1990

クニクセン賞英語版名誉賞部門:1996

脚注

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外部リンク

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