陸軍機甲整備学校

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陸軍機甲整備学校(りくぐんきこうせいびがっこう)とは、現在の神奈川県相模原市中央区にあった日本陸軍の教育機関(軍学校)のひとつである。


概要[編集]

前身[編集]

沿革[編集]

陸軍機甲整備学校の組織・区分[編集]

戦車・牽引車・自動車の整備に関する全軍的な教育機関。機動歩兵を含む機甲兵・機動砲兵・機械化工兵・戦車兵の戦車学生と牽引車学生を対象して教育。

  • 本部
  • 第1中隊:戦車
  • 第2中隊:牽引車
  • 第3中隊:自動車
    • 幹部候補生隊
    • 技術部兵技兵教育
  • 材料廠

人事[編集]

歴代校長[編集]

  • 天谷知彰 少将(陸士11期) (輜):1925年5月1日 -1927年7月26日
  • 唐原与次 少将 (陸士12期) (輜):1927年7月26日 -1929年8月1日
  • 飯田恒次郎 少将(陸士14期)(輜):1929年8月1日 -1933年3月18日
  • 小嶋時久 少将 (陸士15期) (輜):1933年3月18日 -1934年8月1日
  • 佐々木吉良 少将(陸士17期)(輜):1934年8月1日 - 1935年8月1日[9]
  • 井関隆昌 少将(陸士18期) (砲):1935年8月1日[9] - 1936年3月23日[10]
  • 土橋一次 少将(陸士18期) (砲):1936年3月23日 -1938年7月15日
  • 井出鉄蔵 少将(陸士21期) (輜):1938年7月15日 -1939年3月9日
  • 武内俊二郎少将(陸士23期) (輜):1939年3月9日 -1940年10月22日
  • 落合忠吉 少将(陸士23期) (輜):1940年10月22日 - 1941年8月1日
  * 1941年8月1日「陸軍機甲整備学校」と改称。補職学校名変更。
落合忠吉 中将(陸士23期) (輜):1941年8月1日 -1942年4月1日(*1941年10月15日 中将)
細見惟雄 少将(陸士25期) (機甲):1942年4月1日 -1943年12月27日
長沼稔雄 少将(陸士25期) (機甲):1943年12月27日 - 年 月 日

歴代幹事[編集]

  • 武内俊二郎 大佐(陸士23期)(輜):1937年8月2日 -1937年9月1日
  • 落合忠吉 大佐(陸士23期) (輜):1938年7月15日 - 1939年4月8日(*1939年3月9日 少将)
  • 中村肇 大佐 (陸士25期) (輜):1940年5月7日 - 1940年12月2日
  • 三島義一郎 大佐(陸士28期)(砲):1940年12月2日 - 1941年7月7日
  •        (陸士 期) ( ): 年 月 日- 年 月 日

     * 1941年8月1日「陸軍機甲整備学校」と改称。補職学校名変更。

  •        (陸士 期) (機甲): 年 月 日- 年 月 日
  • 細見惟雄 大佐(陸士25期) (機甲):1941年10月15日 - 1942年4月1日
  •        (陸士 期) (機甲): 年 月 日- 年 月 日

教育部[編集]

  • 部長:飯田恒次郎 大佐(陸士14期)(輜):1925年5月1日 - 1926年3月2日

教官[編集]

  • 島本正一 少佐(陸士21期) (歩): 年 月 日 - 年 月 日
  • 小畑信良 大尉(陸士30期) (輜):1931年3月 日 -1932年6月日
  • 板花義一 中佐(陸士23期) (輜): 年 月 日 - 年 月 日
  • 武内俊二郎 大佐(陸士23期)(輜):1934年12月10日 -1935年8月1日
  • 鈴木庫三 大尉(陸士33期) (輜): 年 月 日- 年 月 日
  • 石原章三 大佐(陸士26期) (輜):1939年1月19日 - 1940年8月13日(* 兼 輜重兵監部員)
  • 小山嘉兵衛  (陸士33期) (輜): 年 月 日- 年 月 日
  • 松木熊吉   (陸士36期) (輜): 年 月 日- 年 月 日
  • 向井憲太郎 中佐(陸士 期) (輜): 年 月 日- 年 月 日

     * 1941年8月1日「陸軍機甲整備学校」と改称。補職学校名変更。

  •       (陸士 期) (機甲):: 年 月 日- 年 月 日

練習隊 附[編集]

  • 岩坪博秀 中尉(陸士42期) (輜):1934年1月 日 -1934年7月 日

研究部[編集]

  • 兼 部員:東條英機 大佐(陸士17期)(歩):1931年9月 日- 年 月 日(* 本務 参謀本部総務部編制動員課長 兼 陸軍通信学校研究部部員)
  • 主事:佐治直影 中佐(陸士30期) (機甲):1941年8 月 日-1942年9月 日(*1942年8月9日 大佐)

学校 附[編集]

  • 田坂専一 大佐(陸士27期) (輜):1938年3月1日 - 1938年7月15日
  • 岩畔博秀 (陸士42期) (輜): 年 月 日- 年 月 日
  • 高市近男 (陸士47期) (輜): 年 月 日- 年 月 日
  • 相沢卓司 中佐(陸士47期)(機甲): 年 月 日-1944年9月10日
  •      (陸士 期) (輜): 年 月 日- 年 月 日

自校[編集]

  • 曾我武雄 (陸士37期) (輜): 年 月 日- 年 月 日

所在地[編集]

東京35区発足前
東京府荏原郡世田ヶ谷村横根
東京35区発足から移転まで
東京府東京市世田谷区桜丘(現・東京都世田谷区桜3丁目・桜丘1丁目周辺)
移転後
神奈川県高座郡相模原町(現・相模原市中央区弥栄3丁目)

陸軍自動車学校が立地した東京都世田谷区桜丘には、戦前まで渋谷区常磐松御料地にあった東京農業大学が移転した。なおこの際、東京農大とその設立母体大日本農会は旧校舎敷地を青山学院青山学院大学)に売却している。その後、1949年(昭和24年)には農大一高が開校した。

相模原移転後の跡地は、進駐軍在日米軍キャンプ淵野辺を経て1974年(昭和49年)に返還、淵野辺公園が建設された。

脚注[編集]

  1. ^ a b 大貫孝 長嶋作太郎外数名 :世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  2. ^ a b c d e f g 世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  3. ^ 『官報』第1904号、大正7年12月7日。所在地は東京府荏原郡世田ヶ谷村横根。
  4. ^ 赤羽工兵隊 :世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  5. ^ 水谷吉蔵(陸士14期) 輜重兵 少佐が英国より導入した戦車」 :世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  6. ^ 大貫孝 常徳院の土地 :世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  7. ^ 第2次買収用地 :世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  8. ^ 大貫次郎の土地 :世田谷区桜丘1-4-10所在 庚申塔・道標台座の碑文
  9. ^ a b 『官報』第2575号、昭和10年8月2日。
  10. ^ 『官報』第2765号、昭和11年3月24日。

注釈[編集]

  1. ^ 自動車部隊の編制・訓練、自動車操縦員・整備工の育成、民間自動車の奨励と利用についての調査研究を目的
  2. ^ 軍用自動車調査委員会の試験を担当する実施機関として設置
  3. ^ 自動車隊は、隣接しているが第1師団の隷下。
  4. ^ のち幹部候補生教育用重車輌整備工場用地
  5. ^ 憲兵科を除く各兵科は、兵科の中の一つである各兵種となった。(例)これにより、従来は不可能であった、砲兵大尉歩兵連隊内の歩兵砲中隊長や、連隊砲中隊長への補職が可能となり、転科手続きなく人事行政に断髪力を持たせ、新兵器・新戦術に対応した戦備・戦力拡大図ることが可能となった。
  6. ^ 戦車は、歩兵科戦車兵から兵科機甲兵となる。
  7. ^ 乗車騎兵に歩兵出身者の補職も可能となる。
  8. ^ 挺身兵には、戦車も山砲もあるが航空であったり、船舶兵には、高射砲や野砲もあるが工兵である等、従来の兵科の垣根を跨るものの柔軟運用が可能となった。
  9. ^ 大橋にあった満州に移駐した輜重兵第1連隊の跡地(現・都立駒場高校.警視庁第三機動隊.駒場幼稚園)。
  10. ^ 全ての車輌における操縦・整備・燃料・戦術の研究・教育・行政は機甲本部に一元化。
  11. ^ 現・神奈川県相模原市

関連項目[編集]

外部リンク[編集]