金剛代艦
金剛代艦(こんごうだいかん)とは、ワシントン海軍軍縮条約の規定(海軍休日)に基づいて、条約終了とほぼ同時に艦齢20年を迎える金剛を置き換える代艦の建造を目的とした計画で建造が予定されていた高速戦艦である。
概要
ワシントン海軍軍縮条約において、列強の戦艦の保有数と新造は厳しく制限された。しかしながら、艦齢20年以上に達した戦艦は、条約の範囲内(基準排水量35000t、主砲口径16インチ・10門以下)で代艦の建造が可能という規定があった。条約下における兵器を研究する軍備制限研究委員会が1928年(昭和3年)に岡田啓介海軍大臣に提出した報告書によると、排水量35,000t、41サンチ砲12門の主力艦を整備すべしとあった。金剛は1933年(昭和8年)においてちょうど艦齢が20年に達し、代艦の建造が可能になるため、これにあわせて軍令部は艦政本部に報告書と同様の要求をしたと思われ、藤本喜久雄造船少将と平賀譲造船中将がそれぞれ設計案を提出した。
しかしロンドン海軍軍縮会議の締結により、戦艦の建造中止措置の5年延長(10年から15年に延長)が決定したため、結果として建造は行われなかったが、両者の設計案は後の大和型戦艦に影響を与えたと言われている。
藤本案計画時
正式名称は「艦政本部案」。
- 満載排水量 39250t 基準排水量 35000t
- 全長 237m
- 全幅 32m
- 機関 四軸減速タービン73000shp
- 最大速力 26ノット
- 兵装 40cm三連装砲 3基9門(推測)
- 15cm砲12門(推測)
- 12.7cm連装高角砲8門(推測)
- 61cm固定式魚雷2門
- 航空機 2機
- 射出機 1基
なお艦艇研究家である遠藤昭は藤本案について、 平時に軍縮条約に抵触しない覆面軍艦として建造し、条約失効後に
- 艦尾を24m延長。(全長261m)
- 主砲塔を1基増設。40cm砲三連装3基を46cm砲連装4基8門に換装。
- 後部副砲群を除去、機関を強化し速力を30ノットに。
上記に上げた内容の高速戦艦へと改装するというものであった、という説を上げている。[1]
平賀案計画時
平賀案は建造されていたならば、恐らく戦艦加賀や巡洋戦艦天城、戦艦紀伊のような艦形となり、主砲配置はペンサコーラ級重巡洋艦のようになっていたことが推測される。
- 満載排水量 39200t 基準排水量 35000t
- 全長 232m
- 全幅 32m
- 機関 三軸減速タービン80000shp
- 最大速力 26.5ノット
- 兵装 40cm連装砲 2基、三連装 2基 計10門(推測)
- 15cm単装砲16門(推測)
- 12.7cm連装高角砲8門(推測)
- 61cm固定式魚雷2門
- 航空機 2機
- 射出機 1基
両者の設計案を比較すると、藤本案がバイタルパートを船体全長に行き渡らせているのに対し、平賀案は集中防御を徹底させている保守的なものであった。
当時平賀は内部対立により艦船設計の大基である艦政本部第四部から海軍技術研究所の造船研究部長という閑職に左遷されており、平賀案は藤本案を良しとしない平賀が勝手に作成した私案であったと言われている。藤本案という艦政本部の公案と、多大な功績を残しているとはいえ左遷された一軍人の個人案が中央で比較検討されたということからも(中央を混乱させたとする批判的な指摘もあるが)、平賀譲という人物の影響力が窺い知れる。
脚注
- ^ この説の文献上の初出は遠藤昭『戦艦 大和』(『第二次世界大戦ブックス』86・サンケイ出版1981年6月)であると思われるが、同書では傍証による根拠も示さず先行研究にもふれることなくこの説が述べられている。以下に同書から抜粋する。「(引用者注:引用部直前は藤本案のラフスケッチの遠藤氏による説明でスケッチ以外の資料への言及はなし)そこで、発表されたラフスケッチを利用して、ヴァイタル・パートの副砲の部分に主砲塔を一基、艦尾に追加してみると、どうなるだろうか。(中略)「天城」型巡洋戦艦が、一三万二〇〇〇馬力で三〇ノットの予定であったことを考えると、無条約時代とともに、「金剛代艦」が、高速戦艦に変身したことは、まず間違いのないところだろう。」(64頁)