石巻市立大川小学校

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石巻市立大川小学校
Okawa Elementary School after Tsunami.JPG
震災後の大川小学校(2011年5月19日)
Okawa Elementary School after Tsunami 2012.jpg
震災後の大川小学校(2012年3月28日)
過去の名称 釜谷小学校
長面小学校
大川尋常高等小学校
大川国民学校
大川村立大川小学校
河北町立大川小学校
河北町立大川第一小学校
河北町立大川小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 石巻市
併合学校 河北町立大川第二小学校
設立年月日 1873年(明治6年)
閉校年月日 2018年(平成30年)2月24日
共学・別学 男女共学
分校 福地分校(-1958年)
所在地 986-0111
宮城県石巻市釜谷山根1
外部リンク 石巻市立大川小学校
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石巻市立大川小学校(いしのまきしりつ おおかわしょうがっこう)は、宮城県石巻市釜谷山根にかつて存在した公立小学校である。旧桃生郡河北町に位置する。

沿革[編集]

東日本大震災[編集]

地点 標高 位置
当校 約1m 地図
「三角地帯」 6.69m 地図
裏山(林道) 約75m 地図

概要[編集]

2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)に伴う津波が本震発生後およそ50分経った15時36分頃[4]三陸海岸追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を遡上してきた。この結果、河口から約5kmの距離にある学校を襲い[5]、校庭にいた児童78名中74名と[6][7][8][9]、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した[10][11]。スクールバスの運転手も死亡している[12]

学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事となった[13]

地震後の学校の対応[編集]

本震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認したのちに、避難先について議論を始めた。学校南側の裏山に逃げた児童たちもいたが、教諭に「戻れ!」と怒られ、連れ戻された。校庭のすぐそばには裏山を登るための緩やかな傾斜が存在し、児童らにとってシイタケ栽培の学習でなじみ深い場所である裏山は有力な避難場所であったが、悪天候(降雪)により足場が悪いことなどから、登って避難するには問題があるとされていた[14][15][16]

教職員の間では、裏山へ逃げるという意見と、校庭にとどまり続けるという意見が対立した。避難所でもある小学校にすでに避難してきていた老人がいることから、裏山ではなく、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもと(三角地帯)へ避難するという案も上がった。市教委の報告書によれば「教頭は『山に上がらせてくれ』と言ったが、釜谷(地区の)区長さんは『ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう』と言って、喧嘩みたいに揉めていた」という。

この議論の間、20家族ほどの保護者が児童を迎えに来て、名簿に名前を書き帰宅していった。大津波警報が出ていることを報告した親もいた。教師たちは「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言い、逆に保護者達を引き留めたという。実際に引き留めに応じた母親(津波により死亡)が、15時29分に「子どもと学校にいます。」と夫に向けてメールを送っている。また、山に逃げたものの連れ戻された児童らが「津波が来るから山へ逃げよう」「地割れが起きる」「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴えている光景が、このときの保護者達により目撃されている[16][17]

最終的に三角地帯に避難することになり、教職員と児童らは地震発生から40分以上たってから移動を開始した。防災無線は「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけており、このときすでに、町の側溝からは水が噴き出し、堤防からは水があふれ始めていた[18]

津波の到達[編集]

津波は、鉄筋コンクリートの壁を突き破り、すべてを飲み込んだ。

児童らが県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がり、一部は助かったが[19]、迫りくる津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難できない児童も居た[20]。家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かった[20]

避難先として選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており避難が完了していても被害は避けられなかった[20]。避難先の北上川堤防付近の標高は6〜7mであったが[13]、予想津波高は15時14分には当初の6mから10mに変更されていた[21]。当時得られた情報から想定を超える規模の津波の到達を予見できたか否かは、後に起こされた民事訴訟で争点となった[13]

被災後[編集]

学校機能の移転・統合と慰霊碑建立[編集]

難を逃れた児童22名は新学期より、約10km離れた石巻市立飯野川第一小学校(現・石巻市立飯野川小学校)へ通学していた[22][23]が、2014年からは石巻市立二俣小学校敷地内の仮設校舎に移転している。当初は校舎も新たに建て直す予定であった[24]が、のちに児童数減少のため前述の通り二俣小へ統合することになった[3]。その大川小には、犠牲者を慰霊するために制作された母子像が設置され、2011年10月23日に除幕式が行われた[25]

震災遺構として保存[編集]

2016年3月、石巻市は被災した大川小学校の旧校舎を存置という形で、全体を震災遺構として保存することとなった[26]。遺族の中には「校舎を見たくない」という意見もあるため、周辺を公園化して、植栽などで校舎を囲むことが検討されている[26]

地震対応をめぐる問題[編集]

学校側の対応への疑問視[編集]

地震発生から津波到達まで50分間の時間があったにもかかわらず[20]、最高責任者の校長不在下での判断指揮系統が不明確なまま[27]、すぐに避難行動をせず校庭に児童を座らせて点呼を取る[20]、避難先についてその場で議論を始めるなど学校側の対応を疑問視する声が相次いだ[20]。普段から避難に関する教育を徹底し児童らだけの自主的避難により99.8%が無事だった釜石の全小中学校や[28] [29]、地震直後より全員高台に避難させ、在校児童が全員無事だった石巻市立門脇小学校[30]とは対照的である。

宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図[31]では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入るとされ、大川小学校には津波は到達しないとされていた。そのため大川小自体が避難先とされていたケースもあり、実際に地震の直後高齢者を含む近所の住民が大川小学校に避難してきた[20]。石巻市教育委員会は2010年2月、各校に津波に対応するマニュアル策定を指示していたが[32]、被災後の議論で教育委員会は、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した2次避難先が明記されていなかった点で責任があると認め、父母らに謝罪している[33]

2011年4月9日の説明会で、無事だった教諭が、裏山に「倒木があった」と証言した。 同年6月4日夜の説明会で、石巻市教育委員会は、前述の証言を「倒木があったように見えた」と訂正し、裏山へ避難しなかった理由を、津波が校庭まで来ると想定していなかった事に加え、余震による山崩れや倒木の恐れがあったためと説明した。避難が遅れた理由には保護者や避難住民への対応を挙げた。震災時の議論の詳細は明確にならなかった。謝罪はあったが、学校も教育委員会も責任に言及しなかった[32]

第三者検証委員会[編集]

2012年12月、大川小の惨事を検証する第三者検証委員会が設置された。2013年7月の中間報告で調査委員は、大川小の「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」に「第1次避難」は「校庭等」、「第2次避難」は「近隣の空き地・公園等」と記載があるのみで具体的場所の記載が無かったことを指摘したものの、遺族からは既に判明している事柄ばかりで目新しい情報がない、生存者の聞き取り調査を行っていない、なぜ50分間逃げなかったのか言及がないなど不満が噴出した。

2013年9月8日、石巻市教育委員会による遺族説明会が約10ヶ月ぶりに行われ、「話し合いを拒んできた理由を説明してほしい」など批判が相次いだ[34]

2014年3月1日に「大川小学校事故検証報告書 最終報告書」[21]が石巻市に提出された。

民事訴訟[編集]

2014年3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し、総額23億円損害賠償を求める民事訴訟仙台地方裁判所に起こした[35]

仙台地裁[編集]

2016年10月26日、仙台地方裁判所は学校側の過失を認定し、23人の遺族に総額14億2658万円の支払いを石巻市と宮城県に命じた[36]

石巻市と宮城県は、大川小学校は津波の浸水想定区域に入っておらず、津波の際の避難所として指定されていたことなどを理由に津波の襲来を予見できなかったと主張したが、仙台地方裁判所は少なくとも石巻市の広報車が大川小学校付近で津波の接近を告げ高台への避難を呼びかけた時点までに、教員らは大規模な津波の襲来を予見できたはずであり、学校の裏山に避難しなかったのは過失だと結論づけた[37]

仙台高裁[編集]

2018年4月26日、双方が控訴した控訴審でも、学校側が地震発生前の対策を怠ったのが惨事につながったと小川浩裁判長は指摘し、仙台地裁では認めなかった学校側の防災体制の不備を認定した。市と県に対して、1審判決よりも約1000万円多い総額14億3617万円の支払いを命じた。

1審判決は、地震発生後の教員らの対応に過失があったとしたが、県の責任に加えて、控訴審では、市教委まで含めた「組織的過失」を認定した。また、大川小は津波の予想浸水域外に立地していたが、「教師らは独自にハザードマップの信頼性を検討するべきだった」とも指摘した。

控訴審においては、「震災前の防災体制の適否」が争点となった。学校側は、「予想浸水域外で津波を予見できない」と主張した。しかし判決では、北上川から約200メートルに学校があり、「堤防が沈下したり壊れたりし、学校まで浸水する危険があった」と予見可能性を認定した。教師は、地域住民よりもはるかに高いレベルの知識と経験が求められると位置付けた。

さらに、避難先を「近隣の空き地・公園等」とあいまいに記載していた危機管理マニュアルの改訂を学校が怠ったとし、指導する立場の市教委にも是正させる義務があったと指摘。約700メートル離れた「高台」を避難場所に設定しておけば、震災直後に避難を開始でき、津波を回避できたと結論づけた[38]

通学区域[編集]

石巻市福地、針岡、釜谷、長面、尾崎の全域が大川小学校の通学区域に指定されている[39]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 畠山嵩 (2016年10月12日). “<大川小保存>設計時「津波」思い至らず”. 河北新報. 2016年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月12日閲覧。
  2. ^ 光文社「女性自身」2015年9月1日号(第58巻第31号)100頁 雑誌20301-9/1
  3. ^ a b 共同通信 (2016年10月24日). “石巻・大川小学校統合を1年延期 「時期尚早」の声に配慮” (日本語). 2017年3月12日閲覧。
  4. ^ 「希望の光」見つからず 津波で壊滅の石巻・大川小”. 共同通信 (2011年3月24日). 2014年3月11日閲覧。
  5. ^ “東日本大震災:津波が奪った夢… 児童8割死亡・不明”. 毎日新聞 2011年3月19日
  6. ^ “東日本大震災:宮城・大川小、児童なお4人不明 消防団、最後の捜索”. 読売新聞 2011年8月29日
  7. ^ 娘よ…この日に会えた 四十九日の供養直後に発見 朝日新聞 2011年4月29日
  8. ^ “読経の中、大川小で冥福祈る=保護者ら200人-宮城・石巻”. 時事通信 2011年4月13日
  9. ^ “東日本大震災:おかえり小晴…重機で捜し続けた母 大川小”. 毎日新聞 2011年9月23日
  10. ^ 【東日本大震災】No.33 わが子よ 石巻市立大川小学校”. 産経新聞 (2011年3月24日). 2011年3月28日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ “児童7割死亡か不明、小学校周辺一斉捜索”. 日刊スポーツ 2011年3月27日
  12. ^ 【東日本大震災】「死にものぐるいで上に行け」 津波で74人死亡・不明 宮城・大川小の「あの時」”. 産経新聞 (2011年4月15日). 2011年6月30日閲覧。[リンク切れ]
  13. ^ a b c “<大川小訴訟>石巻市と県に14億円賠償命令”. 河北新報. (2016年10月26日). http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201610/20161026_13046.html 2016年10月27日閲覧。 
  14. ^ “東日本大震災:その時なにが…大川小、津波で多くの犠牲者”. 毎日新聞 (2011年4月19日). 2011年9月23日閲覧。
  15. ^ 偶然の生還生々しく証言  74人死亡・不明の大川小”. 福井新聞 (2011年8月23日). 2014年3月11日閲覧。
  16. ^ a b 「山さ逃げっぺ」大ちゃんの正しさを信じた遺族の6年…大川小津波訴訟、控訴審始まる”. 弁護士ドットコム (2017年4月2日). 2014年3月11日閲覧。
  17. ^ 大川小児童の遺族が立ち上がってから4ヵ月 明らかになった真実、隠され続ける真相とは”. ダイヤモンド社 (2012年10月30日). 2018年3月11日閲覧。
  18. ^ NHKクローズアップ現代「巨大津波が小学校を襲った」2011年 9月14日(水)放送
  19. ^ “石巻・大川小の悲劇、被災時の詳細明らかに”『読売新聞』 2011年4月9日
  20. ^ a b c d e f g 【震災】その時なにが…大川小、津波で多くの犠牲者「山さ上がれ」「眠れば死ぬ」「バリバリという音とともに水しぶきがきた」宮城・石巻 毎日新聞 2011年04月19日
  21. ^ a b 大川小学校事故検証委員会「大川小学校事故検証報告書」(PDF1.2MB,261p)、2014年2月付け、2014年3月11日閲覧。
  22. ^ 7割が死亡・行方不明の小学校、間借りし始業式”. 読売新聞 (2011年4月21日). 2014年3月11日閲覧。
  23. ^ 震災で被害受けた石巻市の小学校児童のためにこいのぼりを掲げよう、県内有志が奔走中/神奈川 神奈川新聞 2011年5月22日
  24. ^ 北日本新聞 2014年1月20日付33面
  25. ^ “震災の記憶忘れまい 石巻・大川小に母子像”. 河北新報 2011年10月24日
  26. ^ a b “<震災遺構>大川小全体保存 門脇小は一部”. 河北新報. (2016年10月26日). http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201603/20160326_11009.html 2016年10月27日閲覧。 
  27. ^ すべての教育者は石巻・大川小学校を訪れてみるべきだ JBpress(日本ビジネスプレス) 記事:2015年3月17日
  28. ^ 明治三陸地震の反省を生かし、「津波でんでんこ」という教育を昔からしていた。
  29. ^ 小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない 「想定外」を生き抜く力 WEDGE REPORT 2011年4月22日
  30. ^ a b 門脇小の避難先は舗装・公園化されている日和山公園であり、大川小の裏山は林業関係者しか入山しない山林であった
  31. ^ 宮城県第三次被害想定調査 浸水域予測図”. 2014年3月11日閲覧。
  32. ^ a b “「裏山登っていれば…」疑問解消されぬまま 石巻・大川小説明会”. 河北新報. (2011年6月6日). オリジナル2011年6月6日時点によるアーカイブ。. http://www.47news.jp/localnews/miyagi/2011/06/post_20110606074620.html 
  33. ^ 大川小の避難先巡り、市教委が責任認め謝罪”. 読売新聞 (2011年6月18日). 2014年3月11日閲覧。マニュアルには第二次避難【近隣の空き地・公園等】と書かれていた。
  34. ^ 大川小遺族と市教委、協議再開=10カ月ぶり「真摯に向き合って」-宮城”. 時事ドットコム (2013年9月8日). 2013年9月10日閲覧。[リンク切れ]
  35. ^ 石巻・大川小の遺族ら県と市提訴 「津波避難が不適切」(朝日新聞デジタル)
  36. ^ “大川小に過失、遺族へ14億円”. 共同通信. (2016年10月26日). http://this.kiji.is/163893191106543623?c=39546741839462401 2016年10月26日閲覧。 
  37. ^ “大川小訴訟、14億円賠償命令 津波襲来「予見できた」”. 朝日新聞. (2016年10月26日). http://www.asahi.com/articles/ASJBS72GZJBSUNHB018.html 2016年10月26日閲覧。 
  38. ^ “大川小津波訴訟、2審も市と県に14億賠償命令”. 読売新聞. (2017年4月26日). https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180426-00050084-yom-soci 
  39. ^ 小学校学区一覧 - 石巻市公式ウェブサイト 2014年3月11日閲覧。
  40. ^ 被災大川小女児が陸自隊員に手紙 「わたしもがんばる」と感謝”. 福井新聞 (2011年4月30日). 2014年3月11日閲覧。

外部リンク[編集]