津波てんでんこ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

津波てんでんこ(つなみてんでんこ)は、1990年(平成2年)11月に岩手県下閉伊郡田老町(現・宮古市)にて開催された第1回「全国沿岸市町村津波サミット」において、津波災害史研究家である山下文男らによるパネルディスカッションから生まれた標語[1][2]。同様の意味で「命てんでんこ」がある[2]

意味[編集]

「てんでんこ」は、「各自」「めいめい」を意味する名詞「てんでん」に、東北方言などで見られる縮小辞「こ」が付いた言葉。すなわち、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」をそのまま共通語に置き換えると、それぞれ「津波はめいめい」「命は各自」になる。

「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を防災教訓として解釈すると、それぞれ「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」になるという。

また、「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」という不文律でもあると言い、災害後のサバイバーズ・ギルト対策や人間関係修復の意味を言外に含むとされる。

矢守克也は、「津波てんでんこ」は、次の4つの意味を多面的に織り込んだ重層的な用語であることを、この言葉の成立史、東日本大震災やその他の津波避難事例に関する社会調査のデータ、及び集合行動に関する研究成果をもとに明らかにした[3][4]

  • 自助原則の強調(「自分の命は自分で守る」)
  • 他者避難の促進(「我がためのみにあらず」)
  • 相互信頼の事前醸成
  • 生存者の自責感の低減(亡くなった人からのメッセージ)

標語提唱者の意図[編集]

「てんでんこ」の語呂よい響きが手伝って、他人にかまわず逃げろという、ややショッキングなメッセージ性が強調され、利己主義だと誤解を受けやすい。

しかし、元々この言葉を防災の標語として提唱した山下文男は2008年の著作で、この言葉に「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という主張も込めていると述べており、緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめの話し合って決めておくよう提案している[5]。つまり、標語の意図は「他人を置き去りにしてでも逃げよう」ということではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐのが第一である。

山下がこの言葉の理解を広めるために、津波被害の象徴的な例として挙げているものには、北海道南西沖地震1993年)の奥尻島での津波における近藤家母子の悲劇がある。この事例では手をつないで避難していた母子3名が、途中で祖母の家に立ち寄ったため、わずかな時間差で命を落とした。その痛ましい教訓として山下が強調するのは、祖母がすでに避難していたのにも関わらず、それを知らずに尊い命を落とした点であり、母がわが子を連れ立って逃げた点ではない。「津波てんでんこ」は、災害時の行動スキームもあらかじめ考え、互いに共有しておくことを唱えた防災思想であり、「ばらばらに自分だけでも逃げる」という行為は、その意志を共有することで互いを探して共倒れすることを防ぐための約束事である。これは、自分が助かれば他人はどうなっても良いとする利己主義とはまったく異なる。

防災標語としての成立[編集]

この言葉が古くからの言い伝えではないということは、山下自身が著書『津波てんでんこ』でハッキリと明言している。その経緯から、防災の意識を高めるための標語として「津波てんでんこ」という言葉が使われるようになったのは、1990年以降のことである。

1990年に岩手県田老町で開催された「全国沿岸市町村津波サミット(第一回)」において山下文男は、防災の意識に関して、次のような家族のエピソードを語った。

山下が9歳のころ(1933年)の昭和三陸津波では、彼の父や兄弟は彼を置き去りにして逃げた(山下は末っ子)。山下の母は、後年に父親の非情さを度々なじったが、その都度、山下の父は「なに!てんでんこだ」と反論したという。著書によると、当時すでに標語や言い伝えとして「てんでんこ」という言葉が浸透していたという事実は認められていないが、山下の友人も多くは同じように置き去りにされており、集落内では「津波はまず各々が逃げることが大切」という行動規範は浸透していた。そうした点を踏まえ、山下の父の言葉は「こういうときは、みんなバラバラに逃げるものだ」と端的に述べたものと考えられる。

サミットで語った上記エピソードがとくに注目され、講演に参加した有識者ら(広井脩阿部勝征津村建四朗伊藤和明渡部偉夫)とのやりとりのなかで「津波」と「てんでんこ」を合成した「津波てんでんこ」という言葉ができた。

その後、北海道南西沖地震1993年)や北海道十勝沖地震2003年)などで津波の被害が出るたびに、「津波てんでんこの話が被災地にもっと普及していれば……」とマスメディアに標語が取り上げられる機会があり、しだいに昔からある言い伝えかのような誤解が広がっていくことになる。2003年9月27日の朝日新聞の社説には、「三陸沖やチリの地震で津波の被害に何度もあっている三陸地方には、津波てんでんこという言い伝えがある」とはっきり書かれ、古い言い伝えであるという印象を抱かせる内容になっている[6]

近年の実践例[編集]

2011年東日本大震災で「釜石の奇跡」と呼ばれる事例では、「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた岩手県釜石市内の小中学生らのうち、当日学校に登校していた生徒全員が生存し、話題となった。小中学生らは、地震の直後から教師の指示を待たずに避難を開始。「津波が来るぞ、逃げるぞ」と周囲に知らせながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができた[7]。市教委は「常識ではあり得ないことが起きた訳では無く、訓練や防災教育の成果であり。実践した児童生徒自身が奇跡の意味は違うと(当初から)感じていた」と説明しており日頃の取り組みの積み重ねだった事を明かしている。市では奇跡という文言を使用せず「釜石の出来事」として扱っている。(「津波避難”釜石の奇跡”に住民ら複雑」河北新報 2015年1月30日)

市内の防災教育を指導し、「釜石の奇跡」の立役者となった片田敏孝教授は、「津波てんでんこ」が古い伝承だと述べているなど[8]、山下の2008年の著作は読んでいないと思われるが、その教えの内容は山下のまとめた「津波てんでんこ」の考え方と多くの共通点がある。具体的には、みずから状況判断して逃げること、災害弱者を助ける立場の者はあらかじめ明らかにしておくこと、家族はそれぞれ逃げると信じて行動することなどを指導しており[5]、標語本来の意図とかなり近い考え方をもって防災教育を実践した。

両者の考え方で相違点を挙げるとすれば、率先して逃げる行為の捉え方がある。山下は、率先して逃げる者が避難を促すというポジティブな面を捉えてはいるが、一人でまず逃げるという行為は、最善の災害対策としてやむをえない「哀しい教え」であると評価している。しかし、片田はポジティブな捉え方を徹底している。片田は、現実にはほとんどの津波警報が杞憂に終わり、率先して逃げた者が「臆病者」というレッテルを受けやすいことを踏まえ、「それでも最初に誰かが逃げることで他者も続き、救われる命があるので、後ろ指さされる可能性を知りながら率先して逃げる者こそ本当に勇気がある者だ」という立場で教育している。釜石の奇跡においても、最初に率先して逃げ出したサッカー部の生徒を大きく評価しており、「津波てんでんこ」を行動に移す際の心理的ハードルを取り除く工夫が、山下とは異なる[9]

課題[編集]

2011年の東日本大震災をきっかけに再び「津波てんでんこ」という言葉がマスメディアに露出することになった。「釜石の奇跡」と呼ばれる岩手県釜石市の事例によって、「津波てんでんこ」は防災教育の標語として全国的な注目を集めた。しかし、当事者の三陸地域の人々においてすら本来の意味とは違った「利己主義的な発想」との誤解が蔓延している状況がある[10][11]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 山下文男『津波てんでんこ-近代日本の津波史』新日本出版社、2008年(平成20年)。ISBN 9784406051149

関連項目[編集]