ページ「甑島列島」と「ウェーブ (観客)」の間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ページ間の差分)
削除された内容 追加された内容
上甑島・下甑島の内容に列島全体の歴史的観点を追加して加筆
タグ: サイズの大幅な増減
 
出典を追加して加筆
タグ: サイズの大幅な増減
 
1行目: 1行目:
[[ファイル:La ola 01.jpg|thumb|265px|[[ドイツ]]の観客によるウェーブ]]
[[画像:Koshikijima Islands.png|thumb|right|300px|甑島列島の位置]]


'''ウェーブ'''({{Lang-en|Wave}})とは、[[スポーツ]]イベントなどで[[観客]]が行う[[パフォーマンス]]である。[[スタジアム]]の観客が縦列ごとに順番に空中に向かって手を広げ立ち上がってから座るという動作を行うが、この動作が周囲へと伝播し遠方から見るとスタンド全体が[[波]]打っているように見えることから呼ばれる<ref name="BBC20020912">{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/2253747.stm |title=Mexican Wave secrets revealed |date=2002年9月12日 |work=[[BBC News]] |accessdate=2012年5月5日}}</ref><ref name="findingDulcinea">{{cite web |title=On This Day: Krazy George Henderson Leads First Crowd Wave|publisher=findingDulcinea |url=http://www.findingdulcinea.com/news/on-this-day/September-October-08/On-this-Day--Krazy-George-Leads-First-Crowd-Wave.html |date=2010年10月15日|accessdate=2012年5月5日}}</ref>。'''メキシカン・ウェーブ''' ({{Lang-en|Mexican Wave}})とも呼ばれる<ref name="BBC20020912"/>。
'''甑島列島'''(こしきじまれっとう)は、[[東シナ海]]にあり、[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]に属する[[列島]]。'''甑列島'''(こしきれっとう)ともいう。'''[[上甑島]]'''(かみこしきじま)、'''中甑島'''(なかこしきじま)、'''[[下甑島]]'''(しもこしきじま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる<ref name="鹿の子百合の咲く島">三浦 (2007)</ref>。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては子敷島、古志岐島とも書いた<ref name="島嶼大事典221頁">日外アソシエーツ (1991)、221頁</ref><ref name="日本の島事典172頁">菅田正昭編(1995)、172頁</ref>。列島全体では人口5,576人、面積117.56km<sup>2</sup>、海岸線延長183.3kmである<ref name="離島統計年報2011">日本離島センター (2011)</ref>。


ウェーブは[[1980年代]]初頭に[[アメリカ合衆国]]で始まった現象だが、その起源については諸説あり議論の対象となっている<ref name="findingDulcinea"/>。1980年代から[[1990年代]]にかけて世界各国の様々なスポーツ観戦の場で実践されるようになり大衆文化の一部となった<ref name="findingDulcinea"/>。その後は一時期のような流行は沈静化しているものの、世界各国のスタジアムでこの現象を確認することが出来る<ref name="findingDulcinea"/><ref name="FourFourTwo">{{cite web|url=http://au.fourfourtwo.com/news/168505,fan-crazes.aspx |title=...Fan Crazes |publisher=Australian Four Four Two |date=2010年6月11日 |accessdate=2012年5月5日}}</ref>。
== 地理 ==
[[ファイル:Koshikijima Map ja.png|thumb|220px|甑島列島の大字]]

{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
! colspan=5| 各島の大字
|-
! !! [[里村|里地域]] !! [[上甑村|上甑地域]] !! [[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島地域]] !! [[下甑村|下甑地域]]
|-
! [[上甑島]]
| style="text-align:left" | [[里町里|里]] || style="text-align:left" | [[上甑町中甑|中甑]]、[[上甑町中野|中野]]、[[上甑町江石|江石]]、[[上甑町小島|小島]]、[[上甑町瀬上|瀬上]]、[[上甑町桑之浦|桑之浦]] || ||
|-
! 中甑島
| || style="text-align:left" | [[上甑町平良|平良]] || ||
|-
! [[下甑島]]
| || || style="text-align:left" | [[鹿島町藺牟田|藺牟田]] || [[下甑町手打|手打]]、[[下甑町片野浦|片野浦]]、[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]、[[下甑町青瀬|青瀬]]、[[下甑町長浜|長浜]]
|}

甑島列島は[[鹿児島県]][[いちき串木野市]]の沖合約45kmにあり、列島全体の長さは38km、幅は10kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた<ref name=" UターンとIターン資料">高橋 (2007)</ref>。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、[[リアス式海岸]]と起伏に富んだ地形がある<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。北東から南西にかけて[[上甑島]]、中甑島、[[下甑島]]の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある<ref group="注">1964年発行の『離島の人文地理』では平良島と表記している。</ref><ref name="過疎化の進行と近年の変化">浮田 (1993)</ref><ref name="京都園芸">菊池立身「甑島の自然 -園芸植物と山草・野草」『京都園芸 第84集』京都園芸倶楽部、1989年、69-72頁</ref><ref name="日本の島事典173頁">菅田正昭編(1995)、173頁</ref>。面積は上甑島が44.14km<sup>2</sup>、中甑島が7.31km<sup>2</sup>、下甑島が66.12km<sup>2</sup>であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である<ref name="甑島地域離島振興計画">[http://www.pref.kagoshima.jp/ac07/documents/33648_20130816104500-1.pdf 甑島地域離島振興計画]鹿児島県</ref>。鹿児島県の離島の面積は[[奄美大島]]、[[屋久島]]、[[種子島]]、[[徳之島]]、[[沖永良部島]]、[[長島 (鹿児島県)|長島]]、[[加計呂麻島]]、下甑島、[[喜界島]]、上甑島の順となり、下甑島の面積は[[山手線]]の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423mの遠目木山<ref name="島嶼大事典161頁">日外アソシエーツ (1991)、161頁</ref>、中甑島が294mの木の口山<ref name="島嶼大事典361頁">日外アソシエーツ (1991)、361頁</ref>、下甑島が604mの尾岳<ref name="島嶼大事典268頁">日外アソシエーツ (1991)、268頁</ref>であり、尾岳の尾根には[[航空自衛隊]]の[[下甑島分屯基地]]がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に[[大陸間弾道ミサイル|大陸間弾道弾]]も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー([[J/FPS-5]])への更新工事が完了した。

甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない<ref name="離島の人文地理10頁">藤岡 (1964) 10頁</ref>。[[上甑島]]と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、[[下甑島]]は400-500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の[[陸繋砂州]](トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだ[[リアス式海岸]]の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。甑島列島の平均気温は18.5度と温暖であり、本土の同緯度地域(阿久根市)よりもやや気温が高い<ref name="離島の人文地理6-7頁">藤岡 (1964) 6-7頁</ref>。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け<ref name="甑島地域離島振興計画"/>、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい<ref name="離島の人文地理6-7頁"/>。降水量は年2,500mmほどであり、本土(鹿児島市)よりもやや多い<ref name="離島の人文地理6-7頁"/>。

=== おもな島 ===
; 有人島
* [[上甑島]](かみこしきじま)
* 中甑島(なかこしきじま)
* [[下甑島]](しもこしきじま)

; 無人島
* 筒島 (かせとう)
* 野島
* 犬島
* 近島
* 双子島
* 沖の島
* 弁慶島


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 古代・中世 ===
=== 起源 ===
[[ファイル:Ballpark.jpg|thumb|265px|初めてウェーブが起こったとされる[[オー・ドットコー・コロシアム]]]]
2008年(平成20年)、[[下甑島]]の[[鹿島町藺牟田]](いむた)にある[[中生代]][[白亜紀]]後期の地層から恐竜の歯や肋骨の化石が発見された<ref name="甑島振興だよりNo.12">「甑島振興だよりNo.12」薩摩川内市、2010年3月</ref>。詳細な分類は不明だが、3m以上の[[肉食恐竜]]のものとみられており、恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてである。藺牟田にある地層からは[[翼竜]]や[[ワニ]]など爬虫類の化石も発見されている<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。[[上甑島]]の[[里町里|里]]遺跡は、[[縄文土器]]が出土した甑島列島唯一の縄文式遺跡である<ref name="離島の人文地理55頁">藤岡 (1964) 55頁</ref>。上甑島の里遺跡、[[上甑町江石|江石]]遺跡、[[上甑町桑之浦|桑之浦]]遺跡、下甑島の[[下甑町手打|手打]]遺跡、[[下甑町片野浦|片野浦]]遺跡は弥生式遺跡であり、[[弥生土器]]、[[土師器]]、[[須恵器]]などが出土している<ref name="離島の人文地理55頁"/>。
プロフェッショナル・チアリーダーの{{仮リンク|クレイジー・ジョージ・ヘンダーソン|en|Krazy George Henderson}}は、[[1981年]][[10月15日]]に[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]で行われた[[アメリカンリーグ]]の[[リーグチャンピオンシップシリーズ|チャンピオンシップシリーズ]]、[[オークランド・アスレチックス]]対[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦において、47.301人の観客を主導してウェーブを初めて実行したと主張している<ref name="findingDulcinea"/><ref name="krazygeorge">{{cite web|url=http://www.krazygeorge.com/wave.html |title=My Wave |publisher=krazygeorge.com |accessdate=2013年10月5日}}</ref><ref name="BBC20100610">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/8742454.stm |title=Who invented the Mexican Wave? |publisher=BBC News|date=2010年6月10日 |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。ヘンダーソンの主張するウェーブはアスレチックスがヤンキースに2敗を喫して迎えた第3戦において行われた<ref name="BBC20100610"/>。まずスタンドにおいて最も熱狂的な群衆の位置する区域にブーイングの合唱に参加するように働きかけた後、ウェーブが実施され3回目の挑戦で初めてスタジアムを一周し4回目以降も持続的にスタジアム全体に波及した<ref name="BBC20100610"/>。ヘンダーソンによると1981年10月15日にオークランドで実行された1年前から観客によるウェーブの研究が始まり、観客数の少ないスポーツイベントにおいて練習を重ねていたという<ref name="findingDulcinea"/>。また最初にウェーブが作られたのは[[NHL]]の[[エドモントン・オイラーズ]]の試合でヘンダーソンがチアリーディングを務めた時のことだが、これは偶然に発生した現象なのだとしている<ref name="findingDulcinea"/>。


一方、[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]のチアリーダーだった{{仮リンク|ロブ・ウェラー|en|Robb Weller}}は、同年[[10月31日]]に[[シアトル]]で行われた[[アメリカンフットボール]]の試合の際に実行されたのが起源だと主張している<ref name="krazygeorge"/><ref name="washington.edu">{{cite web|url=http://www.artsci.washington.edu/news/Summer01/Weller.htm |title=Reconnecting with the University |publisher=University of Washington, College of Arts and Sciences |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。ウェラーは同大学の学生だった[[1970年代]]にスポーツイベントのエールリーダーを務め30年後の[[2000年代]]においても同大学の最高のエールリーダーの一人と考えられているが<ref name="washington.edu"/>、1981年10月の試合にはゲストチアリーダーとして招かれていたのだという<ref name="washington.edu"/>。
上甑島の桑之浦には[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]に関する伝説が残る<ref name="離島の人文地理3頁">藤岡 (1964) 3頁</ref>。[[奈良時代]]には薩摩[[隼人]]族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される<ref name="離島の人文地理3頁"/><ref name="島嶼大事典221頁"/>。[[平安時代]]初期に編纂された『[[続日本紀]]』には[[遣唐使]]船が甑島に停泊したことが記され、中期に編纂された『[[和名抄]]』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する<ref name="離島の人文地理3頁"/>。甑島列島の各地に[[平家の落人]]伝説が残っている<ref name="離島の人文地理3頁"/>。[[鎌倉時代]]中期から370年間、13代に渡って[[小川#日本の氏族|小川氏]]が統治を行ない<ref name="甑島の内侍舞とその周辺">吉川 (2009)、79-93頁</ref><ref name="島嶼大事典161頁"/>、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された<ref name="離島の人文地理3頁"/>。里には[[承久の乱]]で功績を挙げた[[小川季直]]が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の[[日置郡]]田布施(現[[南さつま市]])に移封されて甑島の統治から離れた<ref name="日本の島事典172-173頁">菅田正昭編(1995)、172-173頁</ref>。


この外にも[[紀元前]]に[[インディアン]]が行っていた狩猟方法を起源とする説<ref name="ESPN20100227">{{cite web|url=http://espn.go.com/blog/playbook/fandom/post/_/id/18888/its-settled-where-the-wave-first-started |title=It's settled: Where The Wave first started |publisher= ESPN.com|date=2010年2月27日 |accessdate=2013年10月5日}}</ref>、[[1930年代]]の[[スペイン]]で行われた名もないイベントとする説<ref name="ESPN20100227"/>、[[1960年代]]初頭にアメリカ合衆国で行われた{{仮リンク|パシフィック・ルーテラン大学|en|Pacific Lutheran University}}の[[バスケットボール]]の試合とする説<ref name="ESPN20100227"/>、1960年代に[[メキシコ]]で生み出され[[1968年]]に行われた[[メキシコシティオリンピック]]を契機に世界各国へ伝播したとする説<ref>{{Cite book| author = Timothy Gay| title =Football Physics: The Science of the Game | year = 2004| publisher =Rodale Pr | isbn=978-1579549114 |page=254}}</ref><ref>{{Cite book| author = Tim Freegarde| title =Introduction to the Physics of Waves | year = 2012| publisher =Cambridge University Press | isbn=978-0521197571 |page=3}}</ref>、[[1973年]]にアメリカ合衆国で行われた[[インディ500]]レースとする説<ref name="BBC20100610"/>、[[1976年]]に[[カナダ]]で行われた[[モントリオールオリンピック]]でのイベントや1970年代後半に[[北米サッカーリーグ]]で行われたとする説<ref name="ESPN20100227"/>、1977-78シーズンにアメリカ合衆国で行われた[[ミシガン大学]]のバスケットボールの試合とする説<ref name="ESPN20100227"/>などが存在する。
=== 近世・近代 ===
[[江戸時代]]には[[島津藩]]の直轄地となって[[地頭]](領主)が派遣され、里・[[上甑町中甑|中甑]]・手打に地頭仮屋が置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ<ref name="日本の島100 178-179頁">山と渓谷社 (2006)、178-179頁</ref>、薩摩藩の[[南蛮貿易]]の中継基地にもなった<ref name="日本島図鑑306頁">加藤 (2013)、306頁</ref>。甑島列島は[[天草]]や[[長崎]]と同じく[[キリシタン]]文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた[[島原の乱]]の残党35人が処刑されて殉教した<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。1780年代の[[天明の大飢饉]]の際には、下甑島の百姓が出水(現在の[[出水市]])に、郷士が串良(現在の[[肝属郡]][[串良町]])に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁">菅田正昭編(1995)、173-174頁</ref>。江戸時代には薩摩藩が[[浄土真宗]]を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1871年(明治4年)には[[鹿児島県]]に所属<ref name="日本の島事典172頁"/>。1889年(明治22年)に[[町村制]]が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が[[甑島郡]][[上甑村]](かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して[[里村]](さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/><ref name="日本の島事典172-173頁"/>。下甑島も6村が合併して[[下甑村]](しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]](かしまむら)となった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている<ref name="鹿児島大百科辞典224頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、224頁</ref>。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは[[種子島]]に33戸、本土の薩摩郡[[高江村]](現[[薩摩川内市]])に6戸が移住し<ref name="日本の島事典172-173頁"/>、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1896年(明治29年)には甑島郡が[[薩摩郡]]に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、[[九州商船]]によって串木野航路が開かれた<ref name="鹿児島大百科辞典255頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、255頁</ref>。


=== 現代 ===
=== 世界各国での受容 ===
[[1983年]]にアメリカ合衆国の[[ミシガン州]][[アナーバー]]にある[[ミシガン・スタジアム]]で行われたアメリカンフットボールの試合の際にミシガン大学のファンは従来のウェーブに加えて高速のパターン、低速のパターン、逆回転のパターンといった様々な種類のウェーブを実行した<ref name="ESPN20100227"/>。
[[国勢調査]]が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する<ref name="地域と歴史134頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 134頁</ref>。[[奄美大島]]の[[瀬戸内町]]や[[宇検村]]と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域である<ref name="地域と歴史134頁"/>。[[高度成長期]]における県外転出者は、昭和30年代初めは近隣の熊本県が多かったが、その後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府と兵庫県の2府県で45%弱を占めた<ref name="地域と歴史126頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 126頁</ref>。1951年(昭和26年)に九州を襲った[[ルース台風]]では甑島列島も大きな被害を受け、里では護岸が900mに渡って破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた<ref name="離島の人文地理37頁">藤岡 (1964) 37頁</ref>。


[[1984年]]にアメリカ合衆国で行われた[[ロサンゼルスオリンピック (1984年) におけるサッカー競技|ロサンゼルスオリンピックサッカー競技]]は世界各国にウェーブを浸透させる契機となった<ref name="BBC20100610"/><ref name="SPIEGEL ONLINE">{{cite web|url=http://www.spiegel.de/sport/fussball/la-ola-die-zwangswelle-a-698233.html |title="La Ola": Die Zwangswelle |publisher=SPIEGEL ONLINE |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。元[[サッカーフランス代表]]の{{仮リンク|ジョゼ・トゥーレ|fr|José Touré}}の証言によると同年[[8月11日]]に[[カリフォルニア州]][[パサデナ (カリフォルニア州)|パサデナ]]にある[[ローズボウル (競技場)|ローズボウル]]で行われた決勝のフランス対[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では10万人の観客によりウェーブが行われた<ref name="FIFA.com">{{cite web|url=http://www.fifa.com/tournaments/archive/tournament=512/edition=8229/news/newsid=94154.html |title=José Touré: "It was at the Olympic Games that I realised I was an athlete" |publisher=FIFA.com |date=2004年9月13日 |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。
里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字[[里町里|里]]に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある[[上甑町中甑|中甑]]に加えて、[[上甑町中野|中野]]、[[上甑町江石|江石]]、[[上甑町小島|小島]]、[[上甑町瀬上|瀬上]]、[[上甑町桑之浦|桑之浦]](いずれも上甑島)、[[上甑町平良|平良]](中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、[[下甑町手打|手打]]、[[下甑町片野浦|片野浦]]、[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]、[[下甑町青瀬|青瀬]]、[[下甑町長浜|長浜]]などの集落に人家が分散していた。甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの町が[[薩摩川内市]]の大字となった。合併後は「従前の村名を町名とし、従前の大字名を冠したものをもって大字とし」たため、薩摩郡里村里が薩摩川内市里町里、薩摩郡下甑村手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。


[[1986年]]6月に[[メキシコ]]で[[サッカー]]の国際大会である[[1986 FIFAワールドカップ]]が開催されたが、この際に観客によりウェーブが実行され世界的な注目を集めた<ref name="FourFourTwo"/>。北米以外の地域でウェーブが実行されたのは初めてのことであり、これ以来「メキシカン・ウェーブ」<ref name="FourFourTwo"/>や[[スペイン語]]で波を意味するラ・オラ (''La Ola'') とも呼ばれるようになった<ref name="BBC20020912"/>。
=== 行政区画の変遷 ===
{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
| 郡 || 明治22年以前 || 明治22年 || 明治23年-明治45年 || 大正1年-大正15年 || 昭和1年-昭和64年 || 平成1年-現在
|-
| rowspan=14| [[薩摩郡]]<ref group="注">明治29年以前は[[甑島郡]]</ref> || 里村 || rowspan=8| 明治22年合併<br>[[上甑村]] || 明治24年一部分離<br>[[里村]] || 里村 || 里村 || rowspan=14| 平成16年[[川内市]]ほかと合併<br>'''[[薩摩川内市]]'''
|-
| 中甑村 || rowspan=7| 明治24年一部分離<br>上甑村 || rowspan=7| 上甑村 || rowspan=7| 上甑村
|-
| 中野村
|-
| 江石村
|-
| 小島村
|-
| 瀬上村
|-
| 桑之浦村
|-
| 平良村
|-
| 藺牟田村 || rowspan=6| 明治22年合併<br>[[下甑村]] || rowspan=6| 下甑村 || 昭和24年一部分離<br>[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]] || 鹿島村
|-
| 手打村 || rowspan=5| 昭和24年一部分離<br>下甑村 || rowspan=5| 下甑村
|-
| 片野浦村
|-
| 瀬々野浦村
|-
| 青瀬村
|-
| 長浜村
|}


[[ドイツ]]では[[1987年]]に行われた{{仮リンク|アイスホッケー・ブンデスリーガ|de|Eishockey-Bundesliga}}の{{仮リンク|ESVカウフボイレン|de|ESV Kaufbeuren}}対{{仮リンク|ケルナー・ハイエ|label=ケルナーEC|de|Kölner Haie}}戦で初めてウェーブが実施され<ref name="SPIEGEL ONLINE"/>、この試合の後に全国へと波及した<ref name="SPIEGEL ONLINE"/>。
=== 人口数の変遷 ===
<!--
人口の1/50に換算したグラフを使用しています。(m01=50人、m100=人口5,000人)
-->
: 出典 : 国勢調査
: [[画像:m10.png]]里地域 [[画像:g10.png]]上甑地域 [[画像:r10.png]]下甑地域 [[画像:b10.png]]鹿島地域
: いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。


[[2008年]][[8月23日]]、アメリカ合衆国[[テネシー州]]{{仮リンク|ブリストル (テネシー州)|label=ブリストル|en|Bristol, Tennessee}}にある[[ブリストル・モーター・スピードウェイ]]で行われた[[NASCAR]]主催の自動車レースの[[スプリントカップ・シリーズ]]シャーピー500において157,574人の観客によりウェーブが実施されたが、この記録は[[ギネス世界記録]]として認定されている<ref>{{cite web|url=http://www.guinnessworldrecords.com/records-6000/largest-mexican-wave/ |title=Largest Mexican wave |publisher=Guinness World Records - Officially Amazing |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。
{|class="wikitable"
|-
| 1920年(大正9年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]] || 20,061人
|-
| 1930年(昭和5年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] || 21,435人
|-
| 1940年(昭和15年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]] || 20,815人
|-
| 1950年(昭和25年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:b50.png]][[画像:b50.png]] || 24,744人
|-
| 1960年(昭和35年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b50.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]] || 20,496人
|-
| 1970年(昭和45年)
|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]][[画像:b05.png]] || 11,750人
|-
| 1980年(昭和55年)
|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g50.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]] || 9,428人
|-
| 1990年(平成2年)
|| [[画像:m01.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]] || 6,268人
|-
| 2000年(平成12年)
|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:r50.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]] || 5,860人
|-
| 2010年(平成22年)
|| [[画像:m01.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]] || 5,576人
|}
<!--
基データは以下の通りです。
立項初版ではこの中から10年刻みで表を作成しました。
{|class="wikitable"
|-
| 1920年(大正9年)
|| 里村3,009人、上甑村5,517人、下甑村11,535人、鹿島村存在せず、合計20,061人
|-
| 1925年(大正14年)
|| 里村3,017人、上甑村5,509人、下甑村11,745人、鹿島村存在せず
|-
| 1930年(昭和5年)
|| 里村3,174人、上甑村5,878人、下甑村12,383人、鹿島村存在せず、合計21,435人
|-
| 1935年(昭和10年)
|| 里村3,029人、上甑村5,652人、下甑村12,152人、鹿島村存在せず
|-
| 1940年(昭和15年)
|| 里村2,928人、上甑村6,053人、下甑村11,834人、鹿島村存在せず、合計20,815人
|-
| 1945年(昭和20年)
|| 里村3,678人、上甑村7,155人、下甑村13,670人、鹿島村存在せず、合計24,504人
|-
| 1950年(昭和25年)
|| 里村3,870人、上甑村7,296人、下甑村10,546人、鹿島村3,032人、合計24,744人
|-
| 1955年(昭和30年)
|| 里村3,692人、上甑村7,009人、下甑村9,918人、鹿島村3,010人
|-
| 1960年(昭和35年)
|| 里村3,357人、上甑村6,091人、下甑村8,237人、鹿島村2,811人、合計20,496人
|-
| 1965年(昭和40年)
|| 里村2,834人、上甑村4,730人、下甑村6,483人、鹿島村2,254人
|-
| 1970年(昭和45年)
|| 里村2,183人、上甑村3,426人、下甑村4,864人、鹿島村1,277人、合計11,750人
|-
| 1975年(昭和50年)
|| 里村1,926人、上甑村2,877人、下甑村4,176人、鹿島村1,023人
|-
| 1980年(昭和55年)
|| 里村1,920人、上甑村2,728人、下甑村3,752人、鹿島村1,028人、合計9,428人
|-
| 1985年(昭和60年)
|| 里村1,967人、上甑村2,651人、下甑村3,577人、鹿島村1,072人
|-
| 1990年(平成2年)
|| 里村1,753人、上甑村2,315人、下甑村3,247人、鹿島村1,033人、合計6,268人
|-
| 1995年(平成7年)
|| 里村1,676人、上甑村2,234人、下甑村3,017人、鹿島村999人
|-
| 2000年(平成12年)
|| 里村1,517人、上甑村2,008人、下甑村2,803人、鹿島村892人、合計7,220人
|-
| 2005年(平成17年)
|| 里地域1,405人、上甑地域1,692人、下甑地域2,545人、鹿島地域564人 ※2004年に合併して薩摩川内市の一部に
|-
| 2010年(平成22年)
|| 里地域1,260人、上甑地域1,536人、下甑地域2,289人、鹿島地域491人、合計5,576人
|}
-->


== 交通 ==
=== 問題点と評価 ===
[[オーストラリア]]では[[クリケット]]が人気の高いスポーツとなっているが{{仮リンク|オーストラリア・クリケット協会|en|Cricket Australia}}は[[2000年代]]に競技場内でのウェーブを禁止した<ref name="News.com">{{cite web|url=http://www.news.com.au/national-news/mexican-wave-could-return-to-mcg/story-e6frfkx0-1111118420731 |title=Mexican wave could return to MCG |publisher=News.com.au|date=2008年12月28日|accessdate=2013年10月5日}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.mcg.org.au/Events/Policies/Conditions%20of%20Entry.aspx |title=MCG Conditions of Entry |publisher=Melbourne Cricket Ground |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。これはウェーブの行為自体が問題視されたのではなく<ref name="The Star Online">{{cite web|url=http://www.thestar.com.my/story.aspx?file=%2f2007%2f2%2f2%2fsports%2f16760662&sec=sports |title=Cricket Australia ban Mexican wave at stadia |publisher=The Star Online|date=2007年2月2日|accessdate=2013年10月5日}}</ref>、観客がウェーブを実施するのと同時に所持品の投げ入れが行われたり<ref name="News.com"/>、[[ビール]]などのアルコール飲料や[[尿]]が入ったプラスチック製コップなどの液体物が投げ入れられていたことや<ref name="The Star Online"/>、物の投げ入れにより負傷者が発生していたことに対する措置だった<ref name="The Star Online"/>。
=== 列島外部との交通 ===
[[File:Ferry New Koshiki.jpg|thumb|right|200px|フェリーニューこしき]]


[[2007年]]、イギリスのジャーナリストであるジェレミー・ウォーカーは同年[[7月1日]]に[[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア州]][[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]]で行われた[[2007 FIFA U-20ワールドカップ|FIFA U-20ワールドカップ]]の[[U-20サッカー日本代表|日本]]対[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]戦での観客の反応について次のように評した<ref name="ウォーカー20070705">{{cite web|url=http://jeremy.footballjapan.jp/2007/07/post_5d65.html |title=ウェーブはご勘弁を |publisher=ジェレミー・ウォーカーのA View From A Brit|date=2007年7月5日|accessdate=2013年5月25日}}</ref>。
==== 交通の歴史 ====
{{Quotation|試合会場の雰囲気は常軌を逸していた。さらに状況を悪化させたのが後半のウェーブだ。[[国際サッカー連盟]] (FIFA) は全てのサッカースタジアムでウェーブを禁止し[[扇動者]]の入場を永久に禁止するべきである。ウェーブは観客が幸福感を示すものではなく退屈感を示すものであり、サッカー人生を賭けて試合に挑む選手たちに失礼である。考えてみてほしい。若き選手達がピッチ上において、これまで積み上げてきた練習の成果を発揮する瞬間、多くの観客は明後日の方向を向いてウェーブがやってくるのを心待ちにしているのである<ref name="ウォーカー20070705"/>。|ジェレミー・ウォーカー}}
甑島列島は[[琉球諸島]]から[[天草]]・[[長崎]]・[[朝鮮半島]]・[[日本海]]に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い<ref name="鹿児島島嶼の列島性">長嶋 (2011)</ref>。戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の[[牛深市|牛深]])や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には[[九州商船]]が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎-天草(西と牛深)-[[里町里|里]]-[[下甑町手打|手打]]を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、[[いちき串木野市|串木野]]と甑島を結ぶ航路が開かれた<ref name="離島の人文地理154頁">藤岡 (1964) 154頁</ref>。1951年(昭和26年)には[[阿久根市|阿久根]]と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された<ref name="離島の人文地理154頁"/>。地理学者の[[藤岡謙二郎]]らが調査した1964年(昭和39年)時点では、[[串木野港]]と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、[[阿久根港]]と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた<ref name="離島の人文地理2頁">藤岡 (1964) 2頁</ref>。いずれも一日一便であり、東岸伝いに[[下甑島]]の主要港まで航行していた。阿久根港・里港間の33kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には[[艀]](はしけ)が一日数便運航されていた<ref name="離島の人文地理154頁"/>。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島-串木野-長崎は経済的なつながりが続いていた<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。


[[2010年]]、[[ドイツ]]の『[[デア・シュピーゲル]]』誌はウェーブについて「観客は個々人の参加意思は自由であるにも関わらず一旦ウェーブが発生すれば、その場から逃れることは出来ない。仮にボイコットしたとしても前の席の観客が飛び上れば視線は遮られ試合観戦に集中することは出来ないからだ。またボイコットした者は[[宴会|パーティ]]を白けさせる者と見做され容赦なく批判を受ける」と紹介した<ref name="SPIEGEL ONLINE"/>。
==== 現在の航路 ====
; 串木野-甑島列島
本土から甑島列島までの主要な交通手段は、[[甑島商船]]が[[いちき串木野市]]の[[串木野港|串木野新港]]から運航している高速船とフェリーである。「高速船シーホーク」と「フェリーニューこしき」は、一日あたりそれぞれ往復2便が運航されており、高速船は上甑島の里港まで約50分、フェリーは約75分である。いずれも起点は串木野新港であり、終点は下甑島の長浜港であるが、便によって立ち寄り先が異なり、下甑島の鹿島港などに立ち寄る場合がある。2013年(平成25年)7月1日時点での自動車航送を含まない料金は、高速船が3,610円(串木野-長浜)、フェリーが2,330円(串木野-長浜)である。高速船とフェリー以外では、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。


2010年、[[英国放送協会]] (BBC) はサッカージャーナリストのクリス・ハントの「メキシカンウェーブはやや時代遅れである」との発言や、ウェーブの創始者を名乗っているヘンダーソンやワシントン大学が[[2010年代]]において殆どウェーブを実施しないことを例に挙げて「多くの人々にとってウェーブは退屈に感じている」と紹介した<ref name="BBC20100610"/>。同じくBBCは欧米におけるウェーブの受容のされ方について「試合内容に盛り上がりを欠きピッチにおいて特筆するべき事象が何も発生していない時に、ファンが自ら購入したチケットの費用に見合うだけの対価を引き出す手段として実施される」と紹介した<ref name="BBC20100610"/>。
串木野新港と[[JR九州|JR]][[鹿児島本線]][[串木野駅]]間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から鹿児島駅までは在来線で約35分である。串木野新港と[[川内駅]]間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から[[博多駅]]までは[[九州新幹線]]で最速71分であり、川内駅から[[鹿児島空港]]まではバスで約70分である。串木野新港から鹿児島インターチェンジまでは自動車で約40分であり、[[九州縦貫自動車道]]や[[南九州西回り自動車道]]などを経由する。


=== 日本での受容 ===
; 薩摩川内-甑島列島
[[日本]]では、雑誌編集者の加納正洋が、[[1956年]]6月の[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]の[[早慶戦]]において初めて実施された[[早稲田大学応援部]]のウェーブが起源であると主張している<ref name="加納149-150">{{Cite book|和書|author=加納正洋 |year=2006 |title=サッカーのこと知ってますか ? |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4103026716 |page=149-150}}</ref>。この応援スタイルは、[[旗]]指し物を携帯した同大学応援部員の主導の下で執り行われる<ref name="加納149-150"/>が、あくまでもスタジアムの一角に位置する早稲田大学の応援者に対象を限定したものであり<ref name="加納149-150"/>、スタジアム全体に波及する効果はない<ref name="加納149-150"/>。加納はルーツを求める中で、早稲田大学のウェーブを体験したアメリカ人留学生が自国に持ち帰り、広めたのではないかと推察している<ref name="加納149-150"/>。なお、[[2013年]]の時点において早稲田大学応援部公式サイトでは、この応援スタイルに関する言及はされていない<ref>{{cite web|url=http://www.w-ouen.com/league/ouenhistory.php |title=早慶戦応援の歴史 応援に見る早慶戦の100年間 |publisher=[[早稲田大学応援部]] リーダー 吹奏楽団 チアリーダーズ|accessdate=2013年5月25日}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.w-ouen.com/info/history.php |title=応援部小史 |publisher=早稲田大学応援部 リーダー 吹奏楽団 チアリーダーズ|accessdate=2013年5月25日}}</ref>。
老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航予定である<ref name="47news">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 名称は「高速船 甑島」 14年春就航の川内甑島航路 ] 47news、2013年1月13日</ref>。[[新幹線800系電車]]「つばめ」など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている[[水戸岡鋭治]]がデザインを担当した<ref name="47news"/>。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する[[薩摩川内市]]の[[川内港]]に移設される予定である。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、[[JR九州|JR]][[鹿児島本線]][[川内駅]]と川内港の間にシャトルバスが運行される予定である。


[[1989年]][[9月13日]]、[[東京]]の[[国立霞ヶ丘陸上競技場]]では往年のサッカー界のスター選手を招いた「ワールドカップ・マスターズ」という試合が催された<ref name="サカダイ198912">{{Cite book|和書 |chapter=この胸のときめきを 欧州代表1-3南米代表 |title=[[週刊サッカーダイジェスト|サッカーダイジェスト]] |volume=1989年12月号 |publisher=[[日本スポーツ企画出版社]] |page=40-41}}</ref>。試合は[[ジーコ]]、[[マリオ・ケンペス]]らを擁する南米選抜が[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]、[[ジャンカルロ・アントニョーニ]]らを擁する欧州選抜を3-1で下したが、この試合のハーフタイム中に4万人の観客により複数回にわたってウェーブが実施された<ref name="サカダイ198912"/>。このウェーブについて当時の[[サッカー専門誌]]や[[サッカー漫画]]は日本初の事例として紹介した<ref name="サカダイ198912"/><ref name="ビクトリーラン">{{Cite book|和書|author=仲久晃央 作、秋月めぐる 画 |chapter=GOAL/15 ハイ・アンド・ロー |title=[[ビクトリー・ラン!]] |volume=5巻 |publisher=[[秋田書店]] |page=5 |isbn=978-4253040976}}</ref>。
=== 列島内部の交通 ===
{{Quotation|ハーフタイムには4万人の観客による異例のウェーブ。世界のサポーターの常識も内向的な日本の観客には通用しないと考えられたが、3周、4周と初めてスタジアムを人波が覆い揺るがした<ref name="サカダイ198912"/>。|『[[週刊サッカーダイジェスト|サッカーダイジェスト]]』1989年12月号}}
1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった<ref name="離島の人文地理153頁">藤岡 (1964) 153頁</ref>。1961年(昭和36年)時点での陸上交通の主流は自転車であり、甑島列島全体で616台の自転車が存在したが、この頃にはまだ自動車はほとんどみられず、トラック・乗用車合わせて10数台があるのみだった<ref name="離島の人文地理153頁"/>。
{{Quotation|9月13日、「ワールドカップ・マスターズ」のハーフタイムにおいて日本では初めてヒューマンウェーブが見られた。本場のものが[[カリフォルニア湾]]のビッグウェーブとすれば、この日の国立は[[日本海]]の波かもしれない。満員のスタジアムを一周した波はぎこちないものではあったが、この年は紛れもなく日本のサポーターによる「ウェーブ元年」であった<ref name="ビクトリーラン"/>。|『[[ビクトリー・ラン!]]』5巻}}


約1か月後の同年[[10月6日]]、[[神奈川県]][[横浜市]]にある[[横浜スタジアム]]では[[日本プロ野球]]の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]対[[読売ジャイアンツ]](以下、巨人)の試合が催されたが、日本プロ野球界において初めてウェーブが発生した試合とされている<ref name="デイリー">{{cite web|url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/03/02/0004852947.shtml |title=中畑監督ハマスタにウエーブ起こそうぜ |publisher=デイリースポーツonline|date=2012年3月2日|accessdate=2013年10月5日}}</ref>。この試合は巨人の優勝決定試合となり、同年限りでの引退を表明していた巨人の[[中畑清]]が代打で出場し2塁打を放つとウェーブが起こりスタジアムを一周した<ref name="デイリー"/>。このウェーブについて中畑は自らを日本で初めてウェーブを起こした人物であると主張している<ref name="デイリー"/><ref>{{cite web|url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/03/02/0004852947.shtml |title=「勝ちに飢える」チームで横浜の街を一つに |publisher=月刊「事業構想」オンライン|date=2012年10月|accessdate=2013年10月5日}}</ref>
現在では上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している<ref name="373news.com">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 甑島で8月から導入 小型電気自動車を公開 薩摩川内市] 373news.com、2013年7月23日</ref><ref name="日本ユニシス">[http://www.unisys.co.jp/news/nr_130801_smartoasis.html 薩摩川内市「EV導入実証事業」を甑島(こしきしま)で開始] 日本ユニシス、2013年8月1日</ref><ref name="Sankei Biz">[http://www.sankeibiz.jp/business/news/130805/bsa1308050600001-n1.htm 甑島でEVレンタカー実証 日本ユニシスと鹿児島県薩摩川内市] Sankei Biz、2013年8月5日</ref>。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、原動機付自転車扱い)を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている<ref name="373news.com"/><ref name="日本ユニシス"/><ref name="Sankei Biz"/>。
{{Quotation|横浜スタジアムで昔、日本で初めてウエーブが起こりました。その瞬間を起こした選手がこの私です<ref name="デイリー"/>。|[[中畑清]]}}


[[2000年代]]以降の日本においてウェーブは「退屈な試合内容に対する抗議<ref>{{cite web|url=http://footballweekly.jp/search?q=%A5%AD%A5%EA%A5%F3%A5%AB%A5%C3%A5%D7%A4%CE%BC%FD%B3%CF%A4%CF%B4%D1%B5%D2%A4%CE%A5%A6%A5%A7%A1%BC%A5%D6&x=28&y=12 |title=【セルジオ越後コラム】キリンカップの収穫は観客のウェーブ |publisher=FOOTBALL WEEKLY|date=2009年6月2日|accessdate=2013年10月5日}}</ref>」といった受容のされ方もあれば、それとは正反対に「試合が盛り上がり観客が一体感を得た際に行われる<ref>{{Cite book|和書|author=平野繁臣 |title=イベント用語事典 |publisher=日本イベント産業振興協会 |year=1999 |page=102 |isbn=978-4901173025}}</ref>」や「試合を盛り上げるパフォーマンス<ref>{{cite web|url=http://arthere.jp/nominate/platinum.html |title=みんなのアートコンペ「アートヒア!福岡ストリートキャンバス」 |publisher=Art here 2.0|accessdate=2013年10月5日}}</ref>」といった受容がされている。一方、選手の集中を阻害することを理由にインプレー中のウェーブを禁止するスタジアムや<ref>{{cite web|url=http://www.fighters.co.jp/stadium/cheer_manner.php |title=観戦マナー 観戦注意事項|publisher=[[北海道日本ハムファイターズ]]|accessdate=2013年10月5日}}</ref>、ウェーブの扇動および行為自体を禁止するスタジアムもある<ref>{{cite web|url=http://www.rakuteneagles.jp/stadium/rule.php |title=2013年 日本製紙クリネックススタジアム宮城 スタジアムルール |publisher=[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]|accessdate=2013年10月5日}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.carp.co.jp/facilities13/stadiumonegai.html |title=マツダスタジアムでのプロ野球開催時におけるお願い |publisher=[[広島東洋カープ]]公式サイト|accessdate=2013年10月5日}}</ref>。
==== 甑島コミュニティバス ====
[[上甑島]]と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、[[下甑島]]では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス([[薩摩川内市甑島コミュニティバス]])が[[南国交通]]によって運行されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4-7便が運行されている。


[[2011年]]、[[九州旅客鉄道]](JR九州)は[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線鹿児島ルート]]全線開通を記念したイベント「[[祝!九州]]」を企画した<ref name="朝日20110729">{{cite web|url=http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1835251.article.html |title=市民を巻き込み九州新幹線開業を祝ったキャンペーン JR九州「THE 250km WAVE(祝!九州縦断ウエーブ)」 |publisher=[[朝日新聞社]]広告局 |date=2011年7月29日|accessdate=2013年10月5日}}</ref>。このイベントは[[鹿児島中央駅]]から[[博多駅]]までを人のウエーブでつなぎ新幹線から撮影した映像を[[コマーシャルメッセージ|CM]]にするというもので、[[2月20日]]のイベント当日には1万人以上が参加した<ref>{{cite web|url=http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1835251.article.html |title=新幹線沿線に計1万人 九州縦断ウエーブCM撮影 |publisher=[[佐賀新聞]]|date=2011年2月20日|accessdate=2013年10月5日}}</ref><ref name="新聞広告データアーカイブ">{{cite web|url=http://www.pressnet.or.jp/adarc/ex/?dno=c0498 |title=新聞のニュース性を生かし話題を呼んだキャンペーン展開 九州旅客鉄道株式会社 |publisher= 新聞広告データアーカイブ|accessdate=2013年10月5日}}</ref>。同年[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響によりCM放送は3日間で終了したが[[インターネット]]の動画投稿サイト「[[YouTube]]」を通じて反響が広がった<ref name="朝日20110729"/><ref name="新聞広告データアーカイブ"/>。
甑ふれあいバスは里線、浦内・桑之浦線、平良線、江石線の4路線に分かれており、すべての路線が中甑にある南国交通の営業所を始発としている。里線は[[上甑町中甑|中甑]]- [[上甑町中野|中野]]-[[里町里|里]]を結び、浦内・桑之浦線は中甑-[[上甑町小島|小島]]-[[上甑町瀬上|瀬上]]- [[上甑町桑之浦|桑之浦]]を結び、平良線は中甑-[[上甑町平良|平良]]を結び、江石線は中甑-[[上甑町江石|江石]]を結んでいる。江石線の上り便(中甑行き)は[[デマンドバス|デマンド運行]]となり、事前の予約が必要である。江石線の下り便(江石行き)は条件付き運行となり、中甑港で乗客がいる場合のみ江石まで運行する。


== 特徴 ==
甑かのこゆりバスは手打・長浜線、手打・片野浦線、長浜・瀬々野浦線、長浜・鹿島線の4路線に分かれており、2路線ずつが長浜港と手打港をターミナルとしている。手打・長浜線は[[下甑町手打|手打]]-[[下甑町青瀬|青瀬]]-[[下甑町長浜|長浜]]を結び、手打・片野浦線は手打-[[下甑町片野浦|片野浦]]を結び、長浜・瀬々野浦線は長浜-[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]を結び、長浜・鹿島線は長浜-[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]を結んでいる。手打・片野浦線の上り便(手打行き)はデマンド運行となり、事前の予約が必要である。手打・片野浦線の下り便(片野浦行き)は条件付き運行となり、手打トンネルで乗客がいる場合のみ片野浦まで運行する。
[[ハンガリー]]の[[エトヴェシュ・ロラーンド大学]]の{{仮リンク|ヴィチェク・タマーシュ|hu|Vicsek Tamás}}らは[[2002年]]にウェーブを[[数理モデル]]として解明した<ref name="BBC20020912"/><ref>{{cite web |title=Mexican wave (La Ola) |publisher= |url=http://angel.elte.hu/wave/index.cgi?m=article |date=2010年10月15日|accessdate=2012年5月5日}}</ref><ref>{{cite web |author = I. Farkas, D. Helbing, T. Vicsek |title = Mexican waves in an excitable medium |publisher = [[ネイチャー|Nature]] |id = {{ISSN|0028-0836}} |url = http://angel.elte.hu/wave/download/article/MexWave.pdf |format = PDF |doi = 10.1038/419131a|date = 2002年9月12日 |accessdate=2013年10月5日}}</ref>。サッカーの試合において少なくとも50.000人の観客を集めた試合を録画したビデオテープを基に、ウェーブが実施された14の事例を対象に調査が行われた<ref name="BBC20020912"/>。この現象は主に観客が過剰な興奮状態になく<ref name="BBC20020912"/>、試合内容に盛り上がりがない緊張感を欠いた時間帯に始められることが多く<ref name="BBC20020912"/>、波を発生させるには25人から35人の人数が必要である<ref name="BBC20020912"/>。


波は通常は[[時計回り・反時計回り|時計回り]]の方向へと進行し、一秒間につき約12メートルの速度(約20座席)で移動する<ref name="BBC20020912"/>。また一つの波は平均すると6から12メートル(約12座席)の横幅を持つ<ref name="BBC20020912"/>。波は安定的に[[線型性|線形]]に近い形状を維持し、同時に起立する人数は数十人程度に限られているためスタジアムの全観客へと波及しやすい<ref name="BBC20020912"/><ref name="findingDulcinea"/>。
==== 列島内の架橋 ====
上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1994年(平成6年)に開通した甑大明神橋(上甑島-平良島)と鹿の子大橋(平良島-中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島は最狭部で1.3kmほどであり、2006年(平成18年)から藺牟田(いむた)瀬戸架橋事業が進行中である<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。中甑島の南側半分には人家がなく、車が通行可能な道路もないが、この事業では中甑島の[[上甑町平良|平良]]から下甑島の[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]まで自動車道路を整備し、海峡を1,533mのPC連続橋桁橋でつなぐ。上甑島の里港と下甑島の長浜港は一日2往復のフェリーで約115分かかっているが、24時間通行可能な藺牟田瀬戸架橋が完成すると自動車で約50分に短縮されるという。中央部の橋梁の中央径165mは、PC連続橋桁橋としては日本国内最大級である。総事業費は220億円であり、完成予定は2017年(平成29年)である。

平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている<ref name="離島の人文地理1頁">藤岡(1964) 1頁</ref>。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという<ref name="島嶼大事典361頁"/>。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には[[下甑町長浜|長浜]]・[[下甑町青瀬|青瀬]]と[[下甑町手打|手打]]をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。

==== 観光遊覧船 ====
水中展望船「きんしゅう」、観光船「かのこ」、観光船「おとひめ」の3つの観光遊覧船が運航されている。「きんしゅう」は上甑島の里港を出港し、里集落沖合の海中を泳ぐ魚を水中から展望する。沖合には出ずに引き返して里港に戻る。

2011年に運航を開始した「かのこ」は西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも上甑島の中甑港を出港する。西海岸コースは甑大明神橋をくぐって島の東岸に出た後、下甑島の西岸に沿って南下し、鹿島断崖、山から海に滝が流れ落ちる内川内海岸、海食崖が垂直にそびえ立つコシ瀬、数百トンの巨石が崖に腰かけている壁立断崖、ナポレオンの横顔に似た奇石ナポレオン岩などを間近に見る。ナポレオン岩を過ぎてから180度向きを変えてルートを引き返し、中甑島と下甑島の海峡を東進して中甑島の東岸に出て、北上して中甑港に着く。東海岸コースは中甑港を出港して南下し、中甑島東南端にある小島(弁慶島)との間をすり抜けて下甑島の東岸を進む。下甑島の地峡部付近で引き返し、来たルートをそのまま引き返して中甑港に着く。

「おとひめ」にも西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも下甑島の手打港を出港する。西海岸コースは下甑島の南端を時計回りに回って西岸に向かい、ローソク岩、鷹の巣、ナポレオン岩、壁立、コシ瀬などを間近に見る。下甑島中央部の金山海岸を過ぎたあたりで180度向きを変え、北ルートを引き返して手打港に着く。東海岸コースは手打港から下甑島の東岸を北上し、青瀬集落や長浜集落に接近した後、下甑島中央部の尾山の鼻を過ぎたあたりで180度向きを変えて引き返す。

== 自然・地形・地質 ==
甑島列島には約8000万年前の[[白亜紀]]の地層が残っている。日本国内では初めて[[ケラトプス]]の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され<ref>[https://www.pref.kagoshima.jp/ad04/kurashi-kankyo/kankyo/sizenkouen/kennai/koshiki.html 甑島県立自然公園]鹿児島県</ref>、2009年(平成21年)には[[下甑島]]の鹿島断崖が[[日本の地質百選]]に選出された<ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ">「Number 81 甑島」全国地質調査業協会連合会『日本列島ジオサイト地質百選Ⅱ』オーム社、162-163頁</ref>。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している<ref name="日本の地質構造100選">「No.016 甑島の鹿の子断層」日本地質学会構造地質部会『日本の地質構造100選』朝倉書店、26-27頁</ref>。海岸には[[ウミガメ]]が上陸する。甑島列島は熱帯性の木生シダである[[ヘゴ]]の自生北限地のひとつであり、[[カラスバト]]の自生地とともに1952年(昭和27年)に国指定天然記念物に指定された<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref group="注">『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、ヘゴの自生北限地は東京都[[八丈町]]([[八丈島]])、長崎県[[五島市]]([[福江島]]、鹿児島県肝属郡[[南大隅町]]・[[肝付町]]([[大隅半島]])、川辺郡[[南さつま市]]([[薩摩半島]])、宮崎県[[日南市]]に加えて甑島列島である。</ref>。

=== カノコユリの自生地 ===
[[File:W kanokoyuri4082.jpg|thumb|right|200px|甑島列島に自生するカノコユリ]]

薩摩川内市の市花は[[カノコユリ]]であり、甑島列島はカノコユリの日本唯一の自生地とされている<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。

[[天明の飢饉]]の際、島民はカノコユリの鱗茎を食糧とした<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[江戸時代]]には[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]が球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、[[明治時代]]には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[大正時代]]には球根がアメリカに輸出され、クリスマス用の生花に用いられた<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった<ref name="京都園芸"/>。[[太平洋戦争]]後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。干した[[甘藷]]の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[高度成長期]]には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。

=== 里集落の陸繋砂州===
[[File:Sato Shoal.jpg|thumb|right|200px|里集落の陸繋砂州{{国土航空写真}}]]

上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが[[陸繋砂州]](トンボロ)である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり<ref name="南の島大図鑑">加藤庸ニ『ニッポン南の島大図鑑』阪急コミュニケーションズ、24-25頁</ref>、[[函館市|函館]](北海道)や[[串本町|串本]](和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある<ref name="かごしま よかとこ旅">『かごしま よかとこ旅』トライ社、2010年、219頁</ref>。砂州の全長は約1,400m、全幅は最狭部で250m、標高2.3m<ref>[http://www.koshikijima.net/sato/index.html 薩摩川内市里町(旧薩摩郡里村)]甑島観光協会</ref>であり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる<ref name="離島の人文地理24頁">藤岡 (1964) 、24頁</ref>。この砂州は10cm×5cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている<ref name="離島の人文地理25頁">藤岡 (1964) 、25頁</ref>。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した<ref name="離島の人文地理25頁"/>。

下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている<ref name="離島の人文地理29頁">藤岡 (1964) 29頁</ref>。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)([[ルース台風]])には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる<ref name="離島の人文地理29頁"/>。

=== 長目の浜(甑四湖) ===
[[File:Kamikoshiki Island Nagame-no-hama 2013-08B.JPG|thumb|right|200px|長目の浜の湖沼群]]

上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が[[砂州]]によって海と隔てられた景勝地がある<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。北から[[なまこ池]](海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっており<ref name="湖水環境">久保ほか (1999)</ref>、1934年(昭和9年)の調査ではなまこ池の塩分濃度は25.25%、貝池は17.2%、鍬崎池は淡水、須口池は33.3%だった<ref name="離島の人文地理27頁">藤岡 (1964) 27頁</ref>。また、直接海と通じているわけではなく、礫洲を通じて湖水・海水の交換が行なわれるため、水位の変化は日本の他の汽水湖沼と比べて極めて小さい<ref name="湖水環境"/>。水位の変化はなまこ池で最大23cm、貝池で最大4cmであり、水位変化の周期は2湖で同じである<ref name="湖水環境"/>。なまこ池と貝池は細い水路でつながっているが、貝池の方がなまこ池よりも水位が高いため、常に貝池からなまこ池に池水が流出している<ref name="湖水環境"/>。これらの池は数千年前まで海岸線が入り組んだ入江だったが、崖の崩壊で崩れ落ちた岩石が堆積し、海面下で細長い洲となった。浜は10cm×5cm×厚さ3-4cm程度の礫が積み重なった礫浜であり<ref name="離島の人文地理27頁"/>、やがて海面が降下して砂州が地上に現れ、現在の長目の浜が形成された。第2代薩摩藩主の[[島津光久]]が景観を「眺めの浜」と称えたことが名称の由来である<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="日本の島事典172-173頁"/>。

なまこ池は最大水深24mの汽水池であり、湖水面は海の干満に3-4時間遅れて上下する。[[薩摩藩]]の時代に[[大村湾]]からの搬送中に入れられたとされる[[海鼠]]が名称の由来であり、現在も繁殖している。湖岸には[[アコヤガイ]]が密生しており、[[ボラ]]、[[キス]]、[[シマイサキ科|シマイサキ]]などの魚介類が生息する。貝池は最大水深11mの汽水池である。上部は流れ込んだ雨水で低濃度の塩水となり、下部は春から夏に侵入した海水が停滞して高濃度の塩水となっている([[部分循環湖]])。下部の海水層は多量の[[硫化水素]]を含んでおり、特別な微生物しか生息できない。水深約5mにある上部と下部の境目には、バルト海沿岸の湖と貝池のみでしか確認されていないクロマチウムという光合成硫黄細菌が濃密に分布し<ref name="SHIMADAS1022頁">日本離島センター (1998)、1022頁</ref>、20cmの厚さの赤紫色の帯が広がっている<ref name="湖水環境"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ"/><ref>[http://science.shinshu-u.ac.jp/~fukushima/koshikijima.htm 鹿児島県薩摩郡上甑村海鼠池、貝池、鍬崎池]信州大学理学部物質循環学科環境地球化学研究室</ref>。長目の浜からやや東側に離れて、[[ウナギ]]やボラが生息している須口池があり、上述の3つの池と合わせて甑四湖と呼ばれる。甑四湖はいずれも、離島にある湖沼としては規模が大きく、面積0.56km<sup>2</sup>のなまこ池は日本第3位、面積0.16km<sup>2</sup>の貝池と鍬崎池は5位、面積0.10kmの須口池は8位である<ref name="SHIMADAS553頁">日本離島センター (1998)、553頁</ref>。

=== 武家屋敷跡の玉石垣 ===
下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「[[島の宝100景]]」([[国土交通省]])に選出された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。

== 経済 ==
2010年(平成22年)の[[国勢調査]]による甑島列島の産業分類別就業者数は、[[第一次産業]]が12.3%、[[第二次産業]]が19.4%、[[第三次産業]]が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。就業者数・総生産額ともに、平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。

=== 水産業 ===
甑島列島周辺海域は[[アジ]]、[[サバ]]、[[ブリ]]などの回遊魚に加え、[[キビナゴ]]、[[バショウカジキ]]、[[アワビ]]などの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[江戸時代]]には[[イワシ]]や[[カツオ]]漁が盛んであり、薩摩[[干鰯]]の主要産地だったほか<ref name="離島の人文地理178頁">藤岡 (1964) 178頁</ref>、甑島産のカツオは[[土佐]]産に次ぐ質の高さとされた<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。[[明治時代]]にはカツオ漁業が行き詰ったことから[[サンゴ]]採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして[[大正時代]]には急速に衰えた<ref name="離島の人文地理179頁">藤岡 (1964) 179頁</ref>。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した<ref name="離島の人文地理179-180頁">藤岡 (1964) 179-180頁</ref>。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、[[カンパチ]]と[[マグロ]]の養殖漁業も行なっている<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、[[里町里|里]]が漁獲の中心となる<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている<ref name="地域発展モデル"/>。

甑島は九州で唯一[[海洋深層水]]が取水されている場所であり、水深375mからくみ上げた海水で塩や[[にがり]]などの製造が行なわれている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。上甑島の浦内湾は[[リアス式海岸]]をなし、1950年(昭和25年)から[[真珠]]の養殖を行なっている<ref name="鹿児島大百科辞典107頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、107頁</ref>。母貝には長崎県の[[大村湾]]から購入した[[アコヤガイ]]を使用している<ref name="離島の人文地理185頁">藤岡 (1964) 185頁</ref>。

=== 農林業 ===
急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、[[水稲]]、[[サツマイモ]](主に焼酎用)、[[ソラマメ]]、[[パッションフルーツ]]などが生産されており、肉用牛が放牧されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。

=== 観光業 ===
2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い<ref name="離島統計年報2011"/>。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める<ref name="離島統計年報2011"/>。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である<ref name="地域発展モデル">田中 (2012)</ref>。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった<ref name="地域発展モデル"/>。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島[[アクアスロン]]大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。里にある[[甑島風力発電所]]は観光名所のひとつとなっており、1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された[[風力発電所]]である<ref name="日本の島事典172-173頁"/><ref name="SHIMADAS1020頁">日本離島センター (1998)、1020頁</ref>。

== 教育 ==
[[File:Kamikoshiki Island Sato School 2013-08.JPG|thumb|right|200px|里小中学校]]

; いずれも薩摩川内市立

{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
! !! 区分 !! 所在島 !! 所在大字 !! 学校名 !! 開校/閉校年
|-
! rowspan=9| 現存する学校
| rowspan=4| 中学校
| rowspan=2| 上甑島
| 里 || [[薩摩川内市立里中学校|里中学校]] || 1947年開校
|-
| 中甑 || [[薩摩川内市立上甑中学校|上甑中学校]] || 1947年開校
|-
| rowspan=2| 下甑島
| 手打 || [[薩摩川内市立海陽中学校|海陽中学校]] ||
|-
| 長浜 || [[薩摩川内市立海星中学校|海星中学校]] ||
|-
| rowspan=5| 小学校
| rowspan=2| 上甑島
| 里 || 里小学校 || 1882年開校
|-
| 中甑 || 中津小学校 || 1877年開校
|-
| rowspan=3| 下甑島
| 鹿島 || 鹿島小学校 || 1880年開校
|-
| 手打 || 手打小学校 || 1874年開校
|-
| 長浜 || 長浜小学校 || 1880年開校
|-
! rowspan=6| 閉校した学校
| 中学校
| 下甑島 || 鹿島 || [[薩摩川内市立鹿島中学校|鹿島中学校]]
| 2012年3月末閉校
|-
| rowspan=5| 小学校
| 上甑島
| 瀬上 || 浦内小学校 || 1903年開校、2008年3月末閉校
|-
| 中甑島
| 平良 || 平良小学校 || 1879年開校、2011年3月末閉校
|-
| rowspan=3| 下甑島
| 瀬々野浦 || 西山小学校 || 1879年開校、2013年3月末閉校
|-
| 青瀬 || 青瀬小学校 || 1886年開校、2012年3月末閉校
|-
| 片野浦 || 子岳小学校 || 1886年開校、2012年3月末閉校
|}

2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も児童生徒数不足に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、[[薩摩川内市立里中学校|里中学校]]が17人、[[薩摩川内市立上甑中学校|上甑中学校]]が16人、[[薩摩川内市立海陽中学校|海陽中学校]]が18人、[[薩摩川内市立海星中学校|海星中学校]]が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。甑島列島内に高校はなく、中学校卒業生の多くは本土に引っ越して本土の高校に進学する<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。[[高度成長期]]には、子どもの高校進学を機に一家揃って島外に移住する挙家離村も多くみられたが、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。

=== 学校の統廃合 ===
2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の[[上甑町瀬上|瀬上]]には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に[[上甑町中甑|中甑]]の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の[[上甑町平良|平良]]には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された<ref name="教育基本方針">[http://www.satsumasendai.jp/www/contents/1297297422084/files/152-06-07.pdf 薩摩川内市立小・中学校の再編等に関する基本方針]薩摩川内市</ref>。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である<ref name="教育基本方針"/>。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった<ref name="教育基本方針"/>。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である<ref name="教育基本方針"/>。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された<ref name="教育基本方針"/>。

=== 山村留学制度 ===
薩摩川内市は下甑島で[[山村留学]]制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている。留学生は里親の下で暮らし、長期休暇のみ実家に帰省していたが、近年では家族そろっての留学(移住)も増えているという。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島が[[ウミネコ]]の繁殖南限地であることに由来する<ref name="鹿児島大百科辞典107頁"/>。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった<ref name="教育基本方針"/>。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「ナポレオン岩」に由来する。

== 文化 ==
2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている。2010年度には[[京都造形芸術大学]]、[[東京造形大学]]、[[鹿児島純心女子大学]]、[[鹿児島大学]]、[[熊本大学]]の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、[[宮崎大学]]、[[九州産業大学]]、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が、2012年度には熊本大学、[[九州情報大学]]、宮崎大学、[[鹿屋体育大学]]、[[鹿児島国際大学]]、九州産業大学の6大学が甑島列島で学外活動を行なった。

鹿島村離島住民生活センターは国の登録有形文化財に指定されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[鹿島町藺牟田|鹿島町]]は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである<ref name="SHIMADAS1028頁">日本離島センター (1998)、1028頁</ref>。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島町は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた<ref name="SHIMADAS1028頁"/>。下甑町の歴史民俗資料館には、世界で一枚だけしかないビーダナシ([[フヨウ]]の織物)などが展示されている<ref name="SHIMADAS1029頁">日本離島センター (1998)、1029頁</ref><ref>[http://www.kagoshima-it.go.jp/pdf/shido_jirei/jirei_kagaku_21.pdf ビーダナシ(芙蓉布)の復元]鹿児島県工業技術センター</ref>。

=== 上甑島の内侍舞 ===
上甑島・中甑島の8集落には[[内侍舞]](ないしまい)が伝承されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定民俗文化財となっている<ref name="SHIMADAS1021頁">日本離島センター (1998)、1021頁</ref>。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と[[十島村]]([[トカラ列島]])だけとされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。

=== 下甑島のトシドン ===
下甑島には秋田県の[[ナマハゲ]]に似た「[[トシドン]]」という伝統的な民俗行事がある<ref name="甑島振興だよりNo.12"/><ref name="島嶼大事典268頁"/>。大みそかの夜、地元の若者がトシドンという怪物に扮し、首なし馬に乗って家々を回る。子どもたちの素行や行儀を戒めて諭し、褒美として子どもに歳餅を与えて去ってゆく。[[シュロ]]の木の皮などで作った衣服をまとっており、[[ポリネシア]]の島々の祭礼を思わせる<ref name="日本の島100 199頁">山と渓谷社 (2006)、199頁</ref>。1977年(昭和52年)には国の[[重要無形民俗文化財]]の指定を受け、2009年(平成21年)には「甑島のトシドン」として[[国連教育科学文化機関]](UNESCO)の[[無形文化遺産]]に登録された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。

=== 作品の舞台 ===
[[堀田善衛]]の『鬼無鬼島』のモデルは下甑島である。[[椋鳩十]]が書いた児童文学「孤島の野犬」は下甑島の野犬が主人公であり、手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている<ref>[http://satsumasendai.gr.jp/spotlist/%E5%AD%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%87%8E%E7%8A%AC%E5%83%8F/ 孤島の野犬像]薩摩川内 観光物産サイト こころ</ref>。映画「[[釣りバカ日誌]]9」では下甑島がロケ地となった<ref name="鹿児島県観光サイト">[http://www.kagoshima-kankou.com/travel/2008/03/post-41.html 鹿島・下甑 甑島の旅]鹿児島県観光サイト</ref>。浜ちゃんの上司が結婚式を挙げたのは手打地区の民家であり、ラストシーンでは主人公ふたりが手打海岸でキス釣りをした。下甑島は[[森進一]]の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には「[[おふくろさん]]」の歌碑が手打に建立された<ref>[http://www.jvcmusic.co.jp/mori/joho/bn.html 『おふくろさん』歌碑除幕式と記念コンサート行われる]森進一公式ウェブサイト</ref>。[[山田貴敏]]が描いた漫画「[[Dr.コトー診療所]]」の舞台である「古志木島」は下甑島がモデルであり<ref name="鹿児島県観光サイト"/>、30年間も離島医療に携わってきた手打診療所の瀬戸上健二郎医師が主人公のモデルだが、テレビドラマのロケは沖縄県の[[与那国島]]で行なわれた。下甑島の奇岩「ナポレオン岩」はDr.コトー診療所や[[ゆでたまご]]の「[[キン肉マン2世]]」などの漫画に登場する。

== 関連人物 ==
* [[梶原景季]] <ref name="SHIMADAS1023頁">日本離島センター (1998)、1023頁</ref> - 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。
* [[楠木正行]] <ref name="SHIMADAS1023頁"/> - 南北朝時代の武将。中甑で死没したとされる。
* [[町春草]] <ref name="SHIMADAS1031頁">日本離島センター (1998)、1031頁</ref> – 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。
* [[本田成親]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> - 数学者、文筆家。1942年神奈川県横浜市生まれ、里村育ち。
* [[斉藤きみ子]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> – 児童文学作家。1949年里村生まれ、大阪育ち。
* [[小倉一郎]] <ref name="SHIMADAS1031頁"/> – 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。

== ギャラリー ==
<gallery>
File:Kamikoshiki Island Suguchi Pond and Sato Village 2013-08.JPG|須口池と陸繋砂州(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Nishinohama Beach 2013-08.JPG|西之浜海水浴場(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Namako Pond 2013-08.JPG|なまこ池(上甑島/中甑)
File:Kamikoshiki Island Namako Pond Aerial photo.png|長目の浜の空中写真{{国土航空写真}}
File:Kamikoshiki Island Koshikijima-kan Hotel 2013-08.JPG|ホテル「甑島館」(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Sato Branch Office 2013-08.JPG|薩摩川内市役所里支所]](上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Fureai Bus 2013-08A.JPG|甑ふれあいバス(上甑島)
File:Kibinago sashimi by jetalone in Kagoshima.jpg|名物であるキビナゴの刺身
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
; 書籍
* 『甑島調査報告』鹿児島縣農地部農業協同組合課、1949年
* 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
* 『甑島・長島有形民俗資料調査報告書』鹿児島県明治百年記念館建設調査室、1970年
* 『研究報告No.182 甑島経済社会の現況と課題』九州経済調査協会、1978年
* 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
* 田島康弘「甑島における過疎化と転出者の集団形成」『鹿児島の地域と歴史』鹿児島大学教育学部社会科教室、1983年
* 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年
* 菅田正昭編『日本の島事典』三交社、1995年
* 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
* 『地図帳 日本の島100』山と渓谷社、2006年
* 松原武実「甑島の内侍舞とその周辺」 吉川周平『京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告 民俗芸能における神楽の諸相』京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター、2009年
* 『離島統計年報 2011年版』日本離島センター(CD-ROM)
* 加藤庸ニ『原色日本島図鑑 – 日本の島443-有人島全収録-』新星出版社、2013年(改定第2版)

; 雑誌論文
* 田中史朗「離島における水産業を核とした地域発展モデル -鹿児島県甑島列島を事例として-」『鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇』63巻、2012年、71-87頁
* 長嶋俊介「鹿児島島嶼の列島性 -連続的地域特性の現地確認(社会=生活環境・島嶼経営領域)-」『南太平洋海域調査研究報告』52巻、2011年、37-46頁
* 高橋さつき「『離島』里のUターンとIターン資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、59-62頁
* 三浦尚子「鹿の子百合の咲く島 : 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁
* 久保尚子・沢井祐紀・鹿島薫「鹿児島県上甑島に分布する沿岸性汽水湖沼群の湖水環境」『汽水域研究』6巻、1999年、261-271頁
* 浮田典良「鹿児島県甑島における過疎化の進行と近年の変化」『関西学院大学 人文論究』43巻3号、1993年、59-71頁

; 映像資料
* 記録映画「甑島のトシドン」民俗文化映像研究所、1979年
* NHK特集名作100選「[http://www.youtube.com/watch?v=lGNX-CXGgoo NHK特集 不思議の島 湖沼群を潜る 東シナ海・甑島]」1984年9月2日放送

== 関連書籍 ==
* 柳田国男『日本昔話記録11 鹿児島県甑島昔話集』三省堂、1973年
* 荒木博之『昔話研究資料叢書5 甑島の昔話 – 鹿児島県薩摩郡上甑島・下甑島』三弥井書店、1975年
* 橋口実昭 写真集『甑島列島』南方新社、1998年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{en icon}}[http://angel.elte.hu/wave/index.cgi?m=insight Mexican wave (La Ola): A quantitative analysis of the propagating human wave]
{{Commonscat|Koshikijima Islands}}

* [http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html 薩摩川内市]
* [http://www.koshikijima.net/index.html 甑島観光協会]
* [http://www.pref.kagoshima.jp/pr/shima/gaiyo/koshiki/index.html かごしまの島々の紹介 甑島列島]鹿児島県公式ウェブサイト
* [http://imagic.qee.jp/sima4/kagosima/kosikijima.html 日本の島へ行こう 甑島列島]


{{Commonscat|The wave}}
[[Category:日本の島嶼群|こしきしまれつとう]]
{{DEFAULTSORT:うえいふ}}
[[Category:甑島列島|*]]
[[Category:東シナ海|こしきしま]]
[[Category:スポーツの文化]]
[[Category:振動と波動]]
[[Category:オーディエンス]]
[[Category:サブカルチャー]]

2013年10月5日 (土) 01:29時点における版

ドイツの観客によるウェーブ

ウェーブ英語: Wave)とは、スポーツイベントなどで観客が行うパフォーマンスである。スタジアムの観客が縦列ごとに順番に空中に向かって手を広げ立ち上がってから座るという動作を行うが、この動作が周囲へと伝播し遠方から見るとスタンド全体が打っているように見えることから呼ばれる[1][2]メキシカン・ウェーブ英語: Mexican Wave)とも呼ばれる[1]

ウェーブは1980年代初頭にアメリカ合衆国で始まった現象だが、その起源については諸説あり議論の対象となっている[2]。1980年代から1990年代にかけて世界各国の様々なスポーツ観戦の場で実践されるようになり大衆文化の一部となった[2]。その後は一時期のような流行は沈静化しているものの、世界各国のスタジアムでこの現象を確認することが出来る[2][3]

歴史

起源

初めてウェーブが起こったとされるオー・ドットコー・コロシアム

プロフェッショナル・チアリーダーのクレイジー・ジョージ・ヘンダーソン英語版は、1981年10月15日オークランドで行われたアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズオークランド・アスレチックスニューヨーク・ヤンキース戦において、47.301人の観客を主導してウェーブを初めて実行したと主張している[2][4][5]。ヘンダーソンの主張するウェーブはアスレチックスがヤンキースに2敗を喫して迎えた第3戦において行われた[5]。まずスタンドにおいて最も熱狂的な群衆の位置する区域にブーイングの合唱に参加するように働きかけた後、ウェーブが実施され3回目の挑戦で初めてスタジアムを一周し4回目以降も持続的にスタジアム全体に波及した[5]。ヘンダーソンによると1981年10月15日にオークランドで実行された1年前から観客によるウェーブの研究が始まり、観客数の少ないスポーツイベントにおいて練習を重ねていたという[2]。また最初にウェーブが作られたのはNHLエドモントン・オイラーズの試合でヘンダーソンがチアリーディングを務めた時のことだが、これは偶然に発生した現象なのだとしている[2]

一方、ワシントン大学のチアリーダーだったロブ・ウェラー英語版は、同年10月31日シアトルで行われたアメリカンフットボールの試合の際に実行されたのが起源だと主張している[4][6]。ウェラーは同大学の学生だった1970年代にスポーツイベントのエールリーダーを務め30年後の2000年代においても同大学の最高のエールリーダーの一人と考えられているが[6]、1981年10月の試合にはゲストチアリーダーとして招かれていたのだという[6]

この外にも紀元前インディアンが行っていた狩猟方法を起源とする説[7]1930年代スペインで行われた名もないイベントとする説[7]1960年代初頭にアメリカ合衆国で行われたパシフィック・ルーテラン大学英語版バスケットボールの試合とする説[7]、1960年代にメキシコで生み出され1968年に行われたメキシコシティオリンピックを契機に世界各国へ伝播したとする説[8][9]1973年にアメリカ合衆国で行われたインディ500レースとする説[5]1976年カナダで行われたモントリオールオリンピックでのイベントや1970年代後半に北米サッカーリーグで行われたとする説[7]、1977-78シーズンにアメリカ合衆国で行われたミシガン大学のバスケットボールの試合とする説[7]などが存在する。

世界各国での受容

1983年にアメリカ合衆国のミシガン州アナーバーにあるミシガン・スタジアムで行われたアメリカンフットボールの試合の際にミシガン大学のファンは従来のウェーブに加えて高速のパターン、低速のパターン、逆回転のパターンといった様々な種類のウェーブを実行した[7]

1984年にアメリカ合衆国で行われたロサンゼルスオリンピックサッカー競技は世界各国にウェーブを浸透させる契機となった[5][10]。元サッカーフランス代表ジョゼ・トゥーレフランス語版の証言によると同年8月11日カリフォルニア州パサデナにあるローズボウルで行われた決勝のフランス対ブラジル戦では10万人の観客によりウェーブが行われた[11]

1986年6月にメキシコサッカーの国際大会である1986 FIFAワールドカップが開催されたが、この際に観客によりウェーブが実行され世界的な注目を集めた[3]。北米以外の地域でウェーブが実行されたのは初めてのことであり、これ以来「メキシカン・ウェーブ」[3]スペイン語で波を意味するラ・オラ (La Ola) とも呼ばれるようになった[1]

ドイツでは1987年に行われたアイスホッケー・ブンデスリーガドイツ語版ESVカウフボイレンドイツ語版ケルナーECドイツ語版戦で初めてウェーブが実施され[10]、この試合の後に全国へと波及した[10]

2008年8月23日、アメリカ合衆国テネシー州ブリストルにあるブリストル・モーター・スピードウェイで行われたNASCAR主催の自動車レースのスプリントカップ・シリーズシャーピー500において157,574人の観客によりウェーブが実施されたが、この記録はギネス世界記録として認定されている[12]

問題点と評価

オーストラリアではクリケットが人気の高いスポーツとなっているがオーストラリア・クリケット協会英語版2000年代に競技場内でのウェーブを禁止した[13][14]。これはウェーブの行為自体が問題視されたのではなく[15]、観客がウェーブを実施するのと同時に所持品の投げ入れが行われたり[13]ビールなどのアルコール飲料や尿が入ったプラスチック製コップなどの液体物が投げ入れられていたことや[15]、物の投げ入れにより負傷者が発生していたことに対する措置だった[15]

2007年、イギリスのジャーナリストであるジェレミー・ウォーカーは同年7月1日カナダブリティッシュコロンビア州ビクトリアで行われたFIFA U-20ワールドカップ日本スコットランド戦での観客の反応について次のように評した[16]

試合会場の雰囲気は常軌を逸していた。さらに状況を悪化させたのが後半のウェーブだ。国際サッカー連盟 (FIFA) は全てのサッカースタジアムでウェーブを禁止し扇動者の入場を永久に禁止するべきである。ウェーブは観客が幸福感を示すものではなく退屈感を示すものであり、サッカー人生を賭けて試合に挑む選手たちに失礼である。考えてみてほしい。若き選手達がピッチ上において、これまで積み上げてきた練習の成果を発揮する瞬間、多くの観客は明後日の方向を向いてウェーブがやってくるのを心待ちにしているのである[16] — ジェレミー・ウォーカー

2010年ドイツの『デア・シュピーゲル』誌はウェーブについて「観客は個々人の参加意思は自由であるにも関わらず一旦ウェーブが発生すれば、その場から逃れることは出来ない。仮にボイコットしたとしても前の席の観客が飛び上れば視線は遮られ試合観戦に集中することは出来ないからだ。またボイコットした者はパーティを白けさせる者と見做され容赦なく批判を受ける」と紹介した[10]

2010年、英国放送協会 (BBC) はサッカージャーナリストのクリス・ハントの「メキシカンウェーブはやや時代遅れである」との発言や、ウェーブの創始者を名乗っているヘンダーソンやワシントン大学が2010年代において殆どウェーブを実施しないことを例に挙げて「多くの人々にとってウェーブは退屈に感じている」と紹介した[5]。同じくBBCは欧米におけるウェーブの受容のされ方について「試合内容に盛り上がりを欠きピッチにおいて特筆するべき事象が何も発生していない時に、ファンが自ら購入したチケットの費用に見合うだけの対価を引き出す手段として実施される」と紹介した[5]

日本での受容

日本では、雑誌編集者の加納正洋が、1956年6月の東京六大学野球早慶戦において初めて実施された早稲田大学応援部のウェーブが起源であると主張している[17]。この応援スタイルは、指し物を携帯した同大学応援部員の主導の下で執り行われる[17]が、あくまでもスタジアムの一角に位置する早稲田大学の応援者に対象を限定したものであり[17]、スタジアム全体に波及する効果はない[17]。加納はルーツを求める中で、早稲田大学のウェーブを体験したアメリカ人留学生が自国に持ち帰り、広めたのではないかと推察している[17]。なお、2013年の時点において早稲田大学応援部公式サイトでは、この応援スタイルに関する言及はされていない[18][19]

1989年9月13日東京国立霞ヶ丘陸上競技場では往年のサッカー界のスター選手を招いた「ワールドカップ・マスターズ」という試合が催された[20]。試合はジーコマリオ・ケンペスらを擁する南米選抜がカール=ハインツ・ルンメニゲジャンカルロ・アントニョーニらを擁する欧州選抜を3-1で下したが、この試合のハーフタイム中に4万人の観客により複数回にわたってウェーブが実施された[20]。このウェーブについて当時のサッカー専門誌サッカー漫画は日本初の事例として紹介した[20][21]

ハーフタイムには4万人の観客による異例のウェーブ。世界のサポーターの常識も内向的な日本の観客には通用しないと考えられたが、3周、4周と初めてスタジアムを人波が覆い揺るがした[20] — 『サッカーダイジェスト』1989年12月号
9月13日、「ワールドカップ・マスターズ」のハーフタイムにおいて日本では初めてヒューマンウェーブが見られた。本場のものがカリフォルニア湾のビッグウェーブとすれば、この日の国立は日本海の波かもしれない。満員のスタジアムを一周した波はぎこちないものではあったが、この年は紛れもなく日本のサポーターによる「ウェーブ元年」であった[21] — 『ビクトリー・ラン!』5巻

約1か月後の同年10月6日神奈川県横浜市にある横浜スタジアムでは日本プロ野球大洋ホエールズ読売ジャイアンツ(以下、巨人)の試合が催されたが、日本プロ野球界において初めてウェーブが発生した試合とされている[22]。この試合は巨人の優勝決定試合となり、同年限りでの引退を表明していた巨人の中畑清が代打で出場し2塁打を放つとウェーブが起こりスタジアムを一周した[22]。このウェーブについて中畑は自らを日本で初めてウェーブを起こした人物であると主張している[22][23]

横浜スタジアムで昔、日本で初めてウエーブが起こりました。その瞬間を起こした選手がこの私です[22] — 中畑清

2000年代以降の日本においてウェーブは「退屈な試合内容に対する抗議[24]」といった受容のされ方もあれば、それとは正反対に「試合が盛り上がり観客が一体感を得た際に行われる[25]」や「試合を盛り上げるパフォーマンス[26]」といった受容がされている。一方、選手の集中を阻害することを理由にインプレー中のウェーブを禁止するスタジアムや[27]、ウェーブの扇動および行為自体を禁止するスタジアムもある[28][29]

2011年九州旅客鉄道(JR九州)は九州新幹線鹿児島ルート全線開通を記念したイベント「祝!九州」を企画した[30]。このイベントは鹿児島中央駅から博多駅までを人のウエーブでつなぎ新幹線から撮影した映像をCMにするというもので、2月20日のイベント当日には1万人以上が参加した[31][32]。同年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響によりCM放送は3日間で終了したがインターネットの動画投稿サイト「YouTube」を通じて反響が広がった[30][32]

特徴

ハンガリーエトヴェシュ・ロラーンド大学ヴィチェク・タマーシュハンガリー語版らは2002年にウェーブを数理モデルとして解明した[1][33][34]。サッカーの試合において少なくとも50.000人の観客を集めた試合を録画したビデオテープを基に、ウェーブが実施された14の事例を対象に調査が行われた[1]。この現象は主に観客が過剰な興奮状態になく[1]、試合内容に盛り上がりがない緊張感を欠いた時間帯に始められることが多く[1]、波を発生させるには25人から35人の人数が必要である[1]

波は通常は時計回りの方向へと進行し、一秒間につき約12メートルの速度(約20座席)で移動する[1]。また一つの波は平均すると6から12メートル(約12座席)の横幅を持つ[1]。波は安定的に線形に近い形状を維持し、同時に起立する人数は数十人程度に限られているためスタジアムの全観客へと波及しやすい[1][2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k “Mexican Wave secrets revealed”. BBC News. (2002年9月12日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/2253747.stm 2012年5月5日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h On This Day: Krazy George Henderson Leads First Crowd Wave”. findingDulcinea (2010年10月15日). 2012年5月5日閲覧。
  3. ^ a b c ...Fan Crazes”. Australian Four Four Two (2010年6月11日). 2012年5月5日閲覧。
  4. ^ a b My Wave”. krazygeorge.com. 2013年10月5日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g Who invented the Mexican Wave?”. BBC News (2010年6月10日). 2013年10月5日閲覧。
  6. ^ a b c Reconnecting with the University”. University of Washington, College of Arts and Sciences. 2013年10月5日閲覧。
  7. ^ a b c d e f It's settled: Where The Wave first started”. ESPN.com (2010年2月27日). 2013年10月5日閲覧。
  8. ^ Timothy Gay (2004). Football Physics: The Science of the Game. Rodale Pr. p. 254. ISBN 978-1579549114 
  9. ^ Tim Freegarde (2012). Introduction to the Physics of Waves. Cambridge University Press. p. 3. ISBN 978-0521197571 
  10. ^ a b c d "La Ola": Die Zwangswelle”. SPIEGEL ONLINE. 2013年10月5日閲覧。
  11. ^ José Touré: "It was at the Olympic Games that I realised I was an athlete"”. FIFA.com (2004年9月13日). 2013年10月5日閲覧。
  12. ^ Largest Mexican wave”. Guinness World Records - Officially Amazing. 2013年10月5日閲覧。
  13. ^ a b Mexican wave could return to MCG”. News.com.au (2008年12月28日). 2013年10月5日閲覧。
  14. ^ MCG Conditions of Entry”. Melbourne Cricket Ground. 2013年10月5日閲覧。
  15. ^ a b c Cricket Australia ban Mexican wave at stadia”. The Star Online (2007年2月2日). 2013年10月5日閲覧。
  16. ^ a b ウェーブはご勘弁を”. ジェレミー・ウォーカーのA View From A Brit (2007年7月5日). 2013年5月25日閲覧。
  17. ^ a b c d e 加納正洋『サッカーのこと知ってますか ?』新潮社、2006年、149-150頁。ISBN 978-4103026716 
  18. ^ 早慶戦応援の歴史 応援に見る早慶戦の100年間”. 早稲田大学応援部 リーダー 吹奏楽団 チアリーダーズ. 2013年5月25日閲覧。
  19. ^ 応援部小史”. 早稲田大学応援部 リーダー 吹奏楽団 チアリーダーズ. 2013年5月25日閲覧。
  20. ^ a b c d 「この胸のときめきを 欧州代表1-3南米代表」『サッカーダイジェスト』 1989年12月号、日本スポーツ企画出版社、40-41頁。 
  21. ^ a b 仲久晃央 作、秋月めぐる 画「GOAL/15 ハイ・アンド・ロー」『ビクトリー・ラン!』 5巻、秋田書店、5頁。ISBN 978-4253040976 
  22. ^ a b c d 中畑監督ハマスタにウエーブ起こそうぜ”. デイリースポーツonline (2012年3月2日). 2013年10月5日閲覧。
  23. ^ 「勝ちに飢える」チームで横浜の街を一つに”. 月刊「事業構想」オンライン (2012年10月). 2013年10月5日閲覧。
  24. ^ 【セルジオ越後コラム】キリンカップの収穫は観客のウェーブ”. FOOTBALL WEEKLY (2009年6月2日). 2013年10月5日閲覧。
  25. ^ 平野繁臣『イベント用語事典』日本イベント産業振興協会、1999年、102頁。ISBN 978-4901173025 
  26. ^ みんなのアートコンペ「アートヒア!福岡ストリートキャンバス」”. Art here 2.0. 2013年10月5日閲覧。
  27. ^ 観戦マナー 観戦注意事項”. 北海道日本ハムファイターズ. 2013年10月5日閲覧。
  28. ^ 2013年 日本製紙クリネックススタジアム宮城 スタジアムルール”. 東北楽天ゴールデンイーグルス. 2013年10月5日閲覧。
  29. ^ マツダスタジアムでのプロ野球開催時におけるお願い”. 広島東洋カープ公式サイト. 2013年10月5日閲覧。
  30. ^ a b 市民を巻き込み九州新幹線開業を祝ったキャンペーン JR九州「THE 250km WAVE(祝!九州縦断ウエーブ)」”. 朝日新聞社広告局 (2011年7月29日). 2013年10月5日閲覧。
  31. ^ 新幹線沿線に計1万人 九州縦断ウエーブCM撮影”. 佐賀新聞 (2011年2月20日). 2013年10月5日閲覧。
  32. ^ a b 新聞のニュース性を生かし話題を呼んだキャンペーン展開 九州旅客鉄道株式会社”. 新聞広告データアーカイブ. 2013年10月5日閲覧。
  33. ^ Mexican wave (La Ola)” (2010年10月15日). 2012年5月5日閲覧。
  34. ^ I. Farkas, D. Helbing, T. Vicsek (2002年9月12日). “Mexican waves in an excitable medium” (PDF). Nature. doi:10.1038/419131a. 2013年10月5日閲覧。

外部リンク