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[[Image:Jim Thorpe at desk.jpg|250px|thumb|机に向かうジム。彼は[[スウェーデン王]]の[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]から、「世界でもっとも偉大なアスリート」と称された]]

{{Infobox baseball player
'''ジム・ソープ'''(Jacobus Franciscus "Jim" Thorpe, [[1888年]][[5月28日]] - [[1953年]][[3月28日]])は、[[陸上競技]]、[[野球]]、[[アメリカンフットボール]]などで幅広く活躍した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のスポーツ選手。[[ソーク族|サック]]&[[フォックス族]][[インディアン]]で、部族員としての名は「輝ける道」を意味する'''ワ・サ・ハク'''(Wa-Tho-Huk)という。
|選手名 = ジム・ソープ
|英語表記 = Jim Thorpe
|所属球団 =
|背番号 =
|選手写真ファイル名 = Jim Thorpe, New York NL, at Polo Grounds, NY (baseball) 2 cropped.jpg
|写真サイズ=250px
|写真のコメント = ニューヨーク・ジャイアンツ時代のソープ
|国籍 = {{USA}}
|出身地 = [[Image:Flag of the United States.svg|20px|アメリカ合衆国]] [[オクラホマ州]][[プラハ (オクラホマ州) |プラハ]]
|生年月日=1888年5月28日
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1888|5|28|1953|3|28}}
|身長={{フィートとcm (身長用変換)|6|1}}
|体重={{ポンドとkg (体重用変換)|185}}
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = [[外野手]]
|プロ入り年度 = 1909年
|ドラフト順位 =
|初出場 = 1913年4月14日
|最終出場 = 1919年9月25日
|年俸 = 5000$(1913年)
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]](1913年 - 1915年、1917年、1918年 - 1919年)
* [[シンシナティ・レッズ]](1917年)
* [[アトランタ・ブレーブス|ボストン・ブレーブス]](1919年)
}}
{{Infobox NFLplayer
|選手名=ジム・ソープ
|欧文表記= Jim Thorpe
|写真ファイル名=Jim Thorpe football.png
|写真サイズ=250px
|キャプション=アメリカンフットボールのユニフォームを着たソープ
|現所属チーム=
|背番号=
|引退選手背番号=
|ポジション=ランニングバック
|他のポジション=キッカー、パンター
|生年月日=1888年5月28日
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1888|5|28|1953|3|28}}
|出身地={{USA}}[[オクラホマ州]][[プラハ (オクラホマ州) |プラハ]]
|身長={{フィートとcm (身長用変換)|6|1}}
|体重={{ポンドとkg (体重用変換)|202}}
|初出場年=1920年
|初出場チーム=カントン・ブルドッグス
|経歴=<nowiki></nowiki>
|大学=カーライルインディアン工業学校
|プロ入り年度=1915年
|ドラフト巡=
|○番目=
|プロ入り年度2=
|ドラフト巡2=
|プロ入り年度3=
|ドラフト巡3=
|○番目2=
|プロ入り年度4=
|過去の所属チーム=<nowiki></nowiki>
* [[カントン・ブルドッグス]] (1920年、1926年)
* [[クリーブランド・インディアンス (APFA)]] (1921年)
* [[オオラング・インディアンズ]] (1922年-1923年)
* [[ロックアイランド・インディペンデンツ]] (1924年-1925年)
* [[ニューヨーク・ジャイアンツ]] (1925年)
* [[アリゾナ・カージナルス|シカゴ・カージナルス]] (1928年)
|年度=1928年
|成績名1=出場試合数
|成績値1=52試合
|成績名2=タッチダウン
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|成績名3=フィールドゴール
|成績値3=4回
|成績名4=エキストラポイント
|成績値4=3回
|成績名5=
|成績値5=
|成績名6=
|成績値6=
|nfl= THO812308
|pfr= ThorJi20.htm
|cbs=
|espn=
|si=
|受賞歴・記録=<nowiki></nowiki>
* [[オールプロ]]選出1回:(1923年)<br>[[National Football League 1920s All-Decade Team|NFL 1920s All-Decade Team]]
|NFL殿堂=213
|カレッジフットボール殿堂=10005
}}
'''ジム・ソープ'''(Jacobus Franciscus "Jim" Thorpe, [[1888年]][[5月28日]]<ref name="America's Library">{{cite web|title=World-Class Athlete Jim Thorpe Was Born May 28, 1888|url=http://www.americaslibrary.gov/jb/gilded/jb_gilded_thorpe_1.html|publisher=America's Library|accessdate=2011年5月8日}}<br>1887年5月28日生まれとする資料も多数存在する</ref> - [[1953年]][[3月28日]])は、[[陸上競技]]、[[野球]]、[[アメリカンフットボール]]などで幅広く活躍した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のスポーツ選手。[[ソーク族|サック]]&[[フォックス族]][[インディアン]]で、部族員としての名は「輝ける道」を意味する'''ワ・サ・ハク'''(Wa-Tho-Huk)という<ref name="BIOGRAPHY">{{cite web|title=BIOGRAPHY|url=http://www.cmgww.com/sports/thorpe/bio.htm|publisher=www.cmgww.com|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[Image:Jim Thorpe at desk.jpg|250px|thumb|机に向かうジム。彼は[[スウェーデン王]]の[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]から、「世界でもっとも偉大なアスリート」と呼ばれた]]


===生い立ち===
[[1912年]]の[[ストックホルムオリンピック]]でアメリカ代表として[[五種競技]]と[[十種競技]]に出場して[[金メダル]]を獲得。しかし、過去に野球の[[マイナーリーグ]]でプレーしていたことが発覚し、[[アマチュアリズム]]の思想・規定によりメダル剥奪という厳しい処分が下された。
ソープの生年月日、本名、民族的背景についての情報は広範囲に渡っている<ref name="County">1. O'Hanlon-Lincoln. P.129</ref>。彼の生まれた[[インディアン居留地]]では出生証明が見つからなかった。
公式には[[オクラホマ州]][[プラハ (オクラホマ州) |プラハ]]<ref name="NYTobit">[http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40A15FF3D59107A93CBAB1788D85F478585F9 Jim Thorpe Is Dead On West Coast at 64], ''[[The New York Times]]'', March 29, 1953, accessed April 23, 2007</ref>近郊で双子の弟とともに1888年5月28日に生まれたとされた<ref name="America's Library"/>。カトリック教会で彼は「ジェイコブ=フランシス・ソープ」、弟はチャーリーと名付けられた<ref name="BIOGRAPHY"/>。


ソープの両親はともに混血で[[カトリック教徒]]であった。父親はアイルランド移民の父とサック&フォックス族の母を持ち、母親はフランス移民の父と[[ポタワトミ]]族の母を持つ。
翌[[1913年]]に[[メジャーリーグ]]の[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]と契約。[[シンシナティ・レッズ]]、[[アトランタ・ブレーブス|ボストン・ブレーブス]]などで[[外野手]]として[[1922年]]までプレー。メジャー通算289試合に出場し698打数176安打、7本塁打、82打点、29盗塁、打率.252という成績を残した。


ソープはサック&フォックス族の''Wa-Tho-Huk''(「雷の偉大な光に照らされた道」、あるいはもっと簡単に「輝ける道」)として成長した<ref name="County"/>。
また[[NFL]]でもプレーし、[[1963年]]に[[プロフットボール殿堂]]入りを果たした。
ソープは弟チャーリーとともにオクラホマ州[[ストラウド (オクラホマ州) |ストラウド]]にあるサック&フォックス族学校に通ったが、9歳の時チャーリーは肺炎で死亡し<ref name="BIOGRAPHY"/>、その後ソープは何度か学校を逃げ出した。


父親は彼を再び逃げ出さないように[[カンザス州]][[ローレンス市 (カンザス州)|ローレンス]]のハスケルインディアン大学([[:en:Haskell Indian Nations University]])に送った<ref name="Oly30">{{cite web|title=im Thorpe – Olympic Hero and Native American|url=http://www.olympics30.com/30greatest/jim-thorpe-hero.asp|publisher=olympics30.com|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。
ソープの死から30年後の[[1983年]]、[[国際オリンピック委員会]]は当時繰り上がりで優勝した選手とソープの両者の優勝、金メダルの返還を決定し、ソープは復権を果たした。

2年後に母が出産の際の合併症で死亡し、失意のソープは父と何度か言い争った後馬牧場で働くために家を出た<ref name="Oly30"/>。

1904年、ソープは父に連れ戻され、[[ペンシルバニア州]][[カーライル (ペンシルバニア州) |カーライル]]のカーライルインディアン工業学校([[:en:Carlisle Indian Industrial School|Carlisle Indian Industrial School]])に通うことになった。ここで彼の優れた運動能力が見出され、黎明期のアメリカンフットボールで最も偉大な指導者の一人[[グレン=スコビー・ワーナー|グレン=スコビー"ポップ"・ワーナー]]([[:en:Glenn Scobey Warner|Glenn Scobey Warner]])の指導を受けた<ref name="Oly30"/>。しかしその年、ソープの父は狩猟中の負傷から壊疽に掛かり、死亡してしまった。このためソープは学校を辞めて農場で働き、数年後カーライルインディアン工業学校に復学した<ref name="Oly30"/>。

===アマチュアのキャリア===
====大学時代====
ソープは1907年にカーライルで陸上競技選手としてのキャリアをスタートさせたと伝えられている。
普段着のまま走り高跳びで5フィート9インチ(約175センチメートル)を飛んで見せた<ref name="bookrag">{{cite web|title=Encyclopedia of World Biography Jim Thorpe|url=http://www.bookrags.com/biography/jim-thorpe/|publisher=Bookrags,Thomson-Gale|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。
彼は試みたスポーツすべてで素質を示し、1912年には[[社交ダンス]]の大学選手権で優勝した<ref name="SI2004">{{cite news|url=http://sportsillustrated.cnn.com/2004/olympics/2004/08/08/bc.olympics.athletics.thorpe/|title=Sports Illustrated : Jim Thorpe cruelly treated by authorities|accessdate=2011年5月8日|date=2004年8月8日}}</ref>。

ポップ・ワーナーはソープのような優れた陸上競技選手にフットボールのような肉体的な競技をさせることを躊躇っていた<ref name="Warner">2. Jeansonne. p. 60</ref>。
しかしながら、ソープは、自身を学校チームのディフェンスと対戦させるようにワーナーに申し出た。ワーナーはソープが簡単にタックルを受けて、あきらめるだろうと考えた<ref name="Warner"/>。ソープは縦横無尽に走り回り、一度ならず二度もディフェンスを振り切った。ソープはワーナーに歩み寄り、ボールを弾きながら「誰もジムにタックル出来なかった」と言った<ref name="Warner"/>。

1911年に初めて全米で注目された<ref name="Redskin">{{cite web|title=Indian Thorpe in Olympiad: Redskin from Carlisle Will Strive for Place on American Team|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F60C12FC3B5E13738DDDA10A94DC405B828DF1D3|publisher=The New York Times 1912年4月28日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。ハーバード大学との対戦でソープはランニングバック、ディフェンシブバック、プレースキッカー、パンターとして出場、4フィールドゴール1タッチダウンを成功させてチームの全得点をたたき出し、18-15で勝利を収めることに貢献した<ref name="Warner"/>。
翌シーズン、彼の所属するカーライルのチームは全米大学選手権で優勝し、彼自身は25タッチダウン198得点を記録した<ref name="CNN">{{cite web|title=Roller-coaster life of Indian icon, sports' first star|url=http://articles.cnn.com/2004-07-09/world/jim.thorpe_1_jim-thorpe-carlisle-indian-industrial-school-greatest-athlete/2?_s=PM:WORLD|publisher=CNN.com Botelho, Greg. July 14, 2004,|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。
[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]チームに27-6で勝利した試合では、92ヤードタッチダウンランを見せたがペナルティで取り消し、5ヤード罰退した次のプレーで97ヤードのタッチダウンランを決めて見せた<ref name="NYTobit"/>。
このシーズンにソープと対戦した後の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]は1961年に次のように回想している<ref name="CNN"/>。
<blockquote>古今東西、最高の才能を授けられた人間は何人かいる。私が思いつくのはジム・ソープである。彼は生涯練習せず、私が今までに見たいかなる他のフットボール選手よりも優れたプレーが出来た。</blockquote>

1911年と1912年にアメリカンフットボールのオールアメリカに選出された<ref name="NYTobit"/><ref>{{cite web|title=NCAA FOOTBALL Award Winners 4ページ(PDF)|url=http://fs.ncaa.org/Docs/stats/football_records/DI/2009/2009Awards.pdf|publisher=NCAA|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。

アメリカンフットボールはソープのもっとも好きなスポーツで<ref>1. O'Hanlon-Lincoln. p. 144 <br />* {{cite web|title= Hall of Fame Member :Jim Thorpe|url=http://www.profootballhof.com/hof/member.jsp?player_id=213 Jim Thorpe|publisher=PRO FOOTBALL HALL OF FAME|accessdate=2011年5月8日}}</ref>、陸上競技には時々出場するのみであった。しかし陸上競技はソープが最高の名声を得るスポーツとなった。

1912年の春にオリンピックを目標にしたトレーニングを始めた。当初は向けられる努力は幅跳、ハードル走、砲丸投に限られていたが、棒高跳、やり投、円盤投、ハンマー投のトレーニングも行った。ソープは五種競技と十種競技のアメリカ代表選考会に参加し、ニューヨークのセルティックパークで行われたオリンピック代表選考会で彼の万能な能力はすべての種目で好成績を残し、スウェーデン行きを決めた<ref name="NYTobit"/>。代表のチームメートには後に[[国際オリンピック委員会]](IOC)会長となる[[アベリー・ブランデージ]]もいた。

==== オリンピック ====
1912年の[[ストックホルムオリンピック]][[ストックホルムオリンピックにおける陸上競技|陸上競技]]では[[走幅跳]]、[[走高跳]]、[[五種競技]]、[[十種競技]]の4種目に出場した。

7月7日、最初の種目[[五種競技]]に出場、走幅跳は7m07cmで1位、やり投46m71cmで3位、200m22秒9で1位、円盤投35m57cmで1位、1500m4分44秒8で1位と圧倒的な成績で優勝した。

同日、走高跳の予選に出場、1m83cmを飛んで翌日の決勝へ進んだ。決勝では1m87cmまで順調にクリアしたが1m89cmの試技で3回失敗、4位タイとなった。

7月12日の[[走幅跳]]では6m89cmで7位に留まった。

7月13日から十種競技に出場、100m11秒2で3位タイ、走幅跳6m79cmで3位、砲丸投12m89cmで1位、2日目の走高跳1m87cmで1位、400m走52秒2で4位、円盤投36m98cmで3位、110mハードル15秒6で1位、3日目の棒高跳3m25cmで3位タイ、やり投45m70cmで4位、1500m走4分40秒1で1位、合計ポイントは8,412.955で世界新記録、2位に700ポイント近い大差をつけて優勝した。

表彰式にて[[スウェーデン国王]][[グスタフ5世]]から五種競技の金メダルを、[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]から十種競技の金メダルをそれぞれ授けられた。

グスタフ五世はソープに「あなたは世界最高のアスリートだ」と声を掛け、ソープは「ありがとうございます、陛下」と答えたという<ref name="Flatter">{{cite web|title= Thorpe preceded Deion, Bo|url=http://espn.go.com/sportscentury/features/00016499.html|publisher=Ron Flatter, ESPN.com|accessdate=2011年5月8日}}</ref><ref>"Jim Thorpe, Sac and Fox Athlete" by Bob Berontas, Chelsea House Publications (London, 1993), ISBN 978-0-7910-1722-7</ref>。

ソープの功績は母国アメリカでも見逃されることなく、ニューヨークの[[ブロードウェイ]]でパレードをする栄誉に浴した<ref name="Flatter"/>。
彼は後に回想している。「私は、人々が私の名前を大声で言っているのを聞いた。そして、1人の男がどのようにして多くの友人を持つことができたかが実感できなかった」<ref name="Flatter"/>。

また、ソープは陸上競技への出場とは別に、このオリンピック中に行われた野球のエキシビションマッチに出場した。これは陸上アメリカ代表チームが2チームに分かれて2試合行ったもので、ソープはこのうちの1試合に出場した。

====全米チャンピオン====
ストックホルムオリンピックで勝利を収めた後9月2日にソープは全米体育協会選手権に出場するため、Irish American Athletic Club(IAAC)の本拠地である[[ニューヨーク]]・[[クイーンズ区]]のセルティックパーク(ソープがその4カ月前にオリンピック大会出場権を得た場所)に戻ってきた。

IAACのブルーノ・ブロッド、[[プリンストン大学]]のJ. Bredemusと競った末10種目中7種目を制し残りの3種目も2位となった。7,476ポイントは1909年に[[マーチン・シェリダン]]がセルティックパークで記録した7,385ポイントの記録を更新するものだった<ref>"Indian Thorpe is Best Athlete&nbsp;— Olympic Champion Wins All-Around Championship and Breaks Record."''The New York Times, Sept. 3, 1912.</ref>。オリンピックで通算5個のメダルを獲得したシェルダンは自身の記録が更新されるところを目の当たりにし、試合後彼に近づいて彼の手を取り、次のように述べた。「ジム、君は素晴らしいアスリートだ。私は君より素晴らしい選手に出会うことはないだろう」。
また、シェルダンはニューヨークワールドの記者に「ソープは今までで最も優れたアスリートだ。彼は50の方法で私を負かす。私の全盛期でも今日のような成績は残せないだろう」と語った<ref>3. Wheeler, 118.</ref>。

====論争====
1913年、オリンピックに参加する運動選手にとってアマチュア主義に関する厳しい規則が発効した。何らかの大会で賞金を受け取った者、スポーツの教師、過去にプロ選手と対戦した者はアマチュア資格を喪失した者として競技会から締め出された。

1913年1月下旬、アメリカの新聞はソープが過去にブロ野球でプレーしていたことを記事にした。最初に報じた新聞がどこかははっきりしないが、[[マサチューセッツ州]]のウースターテレグラム([[:en:Worcester Telegram|Worcester Telegram]])がスクープを掲載している<ref name="Flatter"/><ref>'"Jim" Thorpe Admits He Is Professional, and Retires from Athletics', ''[[The Washington Post]]'', January 28, 1913, p. 8. "Charges that Thorpe had played professional baseball in Winston Salem, N.C. were first published in a Worcester (Mass.) newspaper last week."</ref>。

ソープは1909年と1910年にプロ野球マイナーD級東カロライナリーグ([[:en:Eastern Carolina League|Eastern Carolina League]])のロッキーマウントとフェイエットビルで計89試合に出場し<ref>[http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=thorpe001jam マイナーリーグ成績 by Minors @ Baseball-Reference.com:Jim Thorpe]</ref>、最低1試合2ドル(現在の貨幣価値で約47ドル)から最高1週間で35ドル(約822ドル)程度の報酬を受け取った<ref name="Anderson">{{cite web|title=JJim Thorpe's Family Feud,|url=http://select.nytimes.com/search/restricted/article?res=F60F12FA3C5F0C748CDDAB0894DB484D81|publisher=[[:en:Dave Anderson (sportswriter)|Dave Anderson]] The New York Times, 1983年2月7日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。

実際、当時の大学生は夏休みにプロ野球でアルバイトをするケースが多々あったがその大部分はソープと異なり仮名を用いてプレーしていた<ref name="CNN"/>。

ソープの過去について公衆は問題視しなかったが<ref name="Schaff">4. Schaffer and Smith. p. 50.</ref>、[[アマチュア運動連合|全米体育協会]](AAU)、特に長官の[[ジェームス=エドワード・サリバン]]([[:en:James Edward Sullivan|James Edward Sullivan]])はこの問題を非常に重要視した<ref>4. Schaffer and Smith. p. 40.</ref>。ソープはプロ野球でプレーした事実を認めてサリバンに書簡を提出した<ref name="Flatter"/>。

<blockquote>私は、単なるインディアンの一学生であり、そのような規定があることは全く知らなかったことであるから免責されることを願っています。実際、私は悪いことをしているとは思っていなかった。何人かの大学生が仮名を使って私と同じようにプロ野球でプレーしていたから。</blockquote>

しかしこの弁明は効果をもたらさなかった。AAUはソープのアマチュア資格を過去に遡って撤回することを決め、[[国際オリンピック委員会]](IOC)にも同様の措置を取るよう要請した。

その年の後半、IOCはソープがプロ選手でありアマチュア資格を喪失しているものと認定し、彼のオリンピックのタイトル、メダル、および賞を剥奪することを全会一致で決定した。

ソープは報酬を受けて野球をしていたが、AAUとIOCは資格剥奪のルールにのっとってはいなかった。1912年オリンピックのルールブックでは、抗議は閉会式から30日以内に行わなければならないとされていた。この問題が報道されたのは1913年1月下旬であり、[[ストックホルムオリンピック]]の閉会式から6カ月も経過している。またソープのアマチュア資格についてはオリンピックのずっと前から疑問が呈されていたにもかかわらずAAUは報道されるまでこの問題を無視していた。

この事件でソープにとって救いは、プロ選手であると決定されたことが報じられるとすぐにプロスポーツチームからオファーがあったことである<ref>5. Rogge, Johnson, and Rendell. pg. 60</ref>。

===プロのキャリア===
====フリーエージェント====
[[保留条項]]の時代においてまれな[[フリーエージェント]]としてソープにはプレーする野球チームを選択する権利があった。
ソープは[[シカゴ・ホワイトソックス]]、[[セントルイス・ブラウンズ]]、[[シンシナティ・レッズ]]からのオファーは拒否し、[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]と契約した<ref>{{cite web|title=Thorpe is to Play Ball with Giants; Famous Indian Athlete Accepts McGraw's Terms Over the Telephone.|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F60E11F93D5B13738DDDA80894DA405B838DF1D3|publisher=The New York Times 1913年2月1日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。

この年の10月にジャイアンツとホワイトソックスが帯同して行ったワールドツアーに参加した<ref>{{cite web|title=Sox and Giants on World's Tour; Comiskey-McGraw Party Leaves Chicago Oct. 19 and Arrives in New York March 6.|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F70B1EF93E5B13738DDDAE0A94DF405B838DF1D3|publisher=The New York Times 1913年7月27日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。

合衆国を横断し、世界中を回る巡業でソープは一番の有名人であった<ref>6. Elfers. pg. 210</ref>。ツアーで訪れた各所でソープの名前が宣伝効果をもたらして入場料収入を増加させた。ツアー中に[[ローマ法王]]や最後の[[エジプト総督]]と面会、ロンドンでは[[ジョージ五世]]を始め2万人の観客の前で試合を行い、また、ローマのコロッセオで仲間とレスリングをしているところを映像に撮らせたりもした。この時の映像は現存することが知られている。

====野球、アメリカンフットボール、バスケットボール====
1913年にジャイアンツと契約し、外野手としてプレーしたが3シーズンで66試合の出場に留まり.195、1本塁打、5打点と活躍できなかった。1916年はマイナーリーグ、[[アメリカン・アソシエーション (20世紀)|アメリカン・アソシエーションリーグ]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]でプレーした
<ref>{{cite web|title=Jim Thorpe's Speed Big Hit In A.A.|url=http://flickr.com/photos/10795049@N02/2216883254/|publisher=The Janesville Daily Gazette 1916年7月10日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。
1917年にメジャーに復帰したが、4月23日に[[シンシナティ・レッズ]]へトレードされた。5月2日、レッズの[[フレッド・トニー]]と[[シカゴ・カブス]]の[[ヒッポ・ボーン]]が9回までノーヒットで投げあった「ダブル・ノーヒッター」で延長10回に決勝点をあげた。8月18日に再びジャイアンツにトレードされた。1919年5月21日に[[ボストン・ブレーブス]]へトレードされ、メジャーリーグでの出場はこのシーズンが最後となった。通算289試合に出場し698打数176安打、7本塁打、82打点、29盗塁、打率.252。
その後1922年までマイナーリーグでプレーを続けた。

一方ソープは好きなアメリカンフットボールでもプレー、1913年にインディアナ州パインビレッジのチームでプレーした<ref name="NFL CHRONOLOGY">{{cite web|title=CHRONOLOGY OF PROFESSIONAL FOOTBALL(PDF)|url=http://static.nfl.com/static/content/public/image/history/pdfs/History/Chronology.pdf|publisher=NFL|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。このチームは1910年代に数年間対外試合無敗を続けた強豪チームであった。
1915年には[[カントン・ブルドッグス]]が一試合250ドル(現在の貨幣価値で約5400ドル)という当時としては破格の待遇で契約を結んだ<ref name="NFL CHRONOLOGY"/>。ソープ入団前にはカントンの観客動員は一試合平均1200人だったが、ソープが初めてカントンの選手として出場した対マシロン戦では8000人を集めた<ref name="page18">7. Neft, Cohen, and Korch. page18</ref>。

1916年、ソープ擁するカントン・ブルドッグスは9勝0敗1引き分けでオハイオリーグを制し、更に1917年、1919年も優勝した<ref name="NFL CHRONOLOGY"/>。伝えられるところによると、1919年のチャンピオンシップ戦で自陣5ヤード地点から風に乗って95ヤードのパントを成功させて試合を終わらせた<ref name="page18"/>。

1920年、カントン・ブルドッグスは[[アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション]](APFA)を形成する14チームの1つとなった。APFAは2年後[[ナショナル・フットボール・リーグ]](NFL)となる。ソープはAPFAの初代会長に選出されたが、実際はカントンでのプレーに専念し、1年後にはジョセフ・カーが後任の会長となった<ref>7. Neft, Cohen, and Korch. pg. 20</ref>。また、カントンではプレーするだけでなくヘッドコーチとしてもチームを率いた<ref>[http://www.pro-football-reference.com/coaches/ThorJi0.htm NFL Coaching Record]</ref>。

1922年から1923年、ソープは[[ラルー (オハイオ州)]]のオーラング・インディアンス([[:en:Oorang Indians|Oorang Indians]]、チーム全員がインディアン)でプレーした。1922年は3勝6敗<ref>7. Neft, Cohen, and Korch. pg. 34</ref>、1923年は1勝10敗<ref>7. Neft, Cohen, and Korch. pg. 40</ref>と振るわない成績で2シーズンでチームは解散した。
ソープ自身はグリーンベイ・プレス=ガゼット社選定の[[オールプロ]]に選ばれた。(NFL公式のオールプロチームは1931年からで、それまでのグリーンベイ・プレス=ガゼット社選定によるオールプロは後にNFL公式に認定された。)<ref>7. Neft, Cohen, and Korch. pg. 41</ref>

ソープはNFLのチャンピオンチームでプレーする機会は無く、1928年41歳で引退するまで計6チームで52試合に出場した。

2005年までジム・ソープがバスケットボールをプレーしたかどうかについては全く知られていなかった。しかしこの年古書で発見されたチケットは、バスケットボールの彼のキャリアを明らかにした<ref>{{cite web|title=Jim Thorpe Ticket (PDF)|url=http://www.pbs.org/opb/historydetectives/pdf/310_jimthorpe.pdf|publisher=www.pbs.org/historydetectives|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。

ソープは1926年まで野球・アメリカンフットボール・バスケットボールの巡業チームを支援する[[ラルー (オハイオ州)]]において代表的なインディアン選手であった。「ジム・ソープと彼の世界で有名なインディアン」は少なくとも2年間(1927-28年)ペンシルバニア州ニューヨーク、およびオハイオ州マリオンの地域で地方巡業を行った。
WFIバスケットボールのユニフォームを着たソープの写真が絵葉書として発売されたり新聞に掲載されたりしたが、彼のこの時期の記録が残っていない。

==結婚と家族==
1913年にカーライルで出会ったアイバ・ミラーと最初の結婚をし、4人の子供をもうけたが1925年に離婚した<ref name="NYTobit"/><ref>{{cite web|title=List of marriages, divorces, births, and deaths|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,720180,00.html|publisher=[[タイム]]1925年4月6日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。1926年にフリーダ・V・カークパトリック(1905年9月19日 - 2007年3月2日)と結婚した。
彼女はソープがオハイオの野球チームで監督兼選手をしていた時秘書として働いていた<ref>{{cite news|author = [[Associated Press]]|url = http://www.seattlepi.com/local/306603_thorpe08.html|title = Freeda Thorpe, former wife of Jim Thorpe, dies at 101], Seattle Post-Intelligencer|date = 2007年3月7日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。4人の子供をもうけたが1941年に離婚した<ref name="NYTobit"/>。

その後3番目の妻であるパトリシア・アスケウと結婚した。

==その後の人生==
スポーツ選手を引退した後、ソープは家族を養うために苦闘した。スポーツとは関係ない仕事をいくつもしたがどれも長続きしなかった。
[[大恐慌]]の時期には映画のエキストラとして[[西部劇]]のインディアン酋長役を何度か演じた。その他、建設作業員、警備員<ref>{{cite web|title=Briefs|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,774347,00.htm|publisher=[[タイム]]1943年2月22日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>、用心棒、1945年には[[アメリカ合衆国商船]]([[:en:United States Merchant Marine|United States Merchant Marine]])に加わった。
人生の後半生は慢性のアルコール中毒にかかっていた<ref>8. Jeansonne. pg 61</ref>。

1950年代には生活は困窮し、1950年に口唇癌のため入院した際にはチャリティーケースとして認められた<ref name="lip">{{cite web|title=Thorpe Has Cancerous Growth Removed From Lip in Hospital at Philadelphia|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FB0E1EF63A5A127B93C2A8178AD95F458585F9|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]1951年4月6日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。

記者会見で妻のパトリシアは涙ながらに語った。「私たちは一文無しです。ジムには過去の栄光と名声しかありません。彼はお金を家族のために使い、与えました。しばしば搾取もされました」<ref name="lip"/>。

1953年の初頭、ソープは[[カリフォルニア州]][[ロミータ (カリフォルニア州)|ロミータ]]の自宅で妻パトリシアと食事中、心臓発作を起こした。人工呼吸により一命を取り留めたが、その後意識不明の重体に陥り、3月28日に死去した<ref name="NYTobit"/>。

==人種差別問題==
ソープは先述のようにアメリカインディアンとヨーロッパ系移民の双方の血を引いている。彼の業績はアメリカで人種差別が激しい時期に成し遂げられた。しばしばメダルの剥奪が人種に由来するものと示唆された<ref>9. Watterson. page151<br />* 6. Elfers. page18</ref>。これを立証するのは難しいが、当時世論はこの視点を主に反映していた<ref>4. Schaffer and Smith. page50</ref>。
ソープが金メダルを獲得した時代はすべてのインディアンが合衆国市民とみなされているわけではなかった。
(合衆国政府はヨーロッパ系アメリカ人がすべてのアメリカインディアンを市民とみなすよう譲歩することを望んでいた。)
1924年に初めて、すべてのアメリカインディアンに合衆国市民権が与えられた<ref>10. Lincoln and Slagle. pg. 282</ref>。

ソープがカーライルの学校に通っている時、学生の民族性はマーケティング目的に使用された<ref name="Bloom">11. Bloom quoted in Bird. Page97</ref>。更に学校やジャーナリストたちはしばしばスポーツを白人とインディアンの抗争になぞらえた。
「インディアンが27対6で陸軍士官学校の頭皮を剥ぐ」とか「ジム・ソープ大暴れ」といった新聞の見出しはカーライルのフットボールチームに属するインディアンのプレーを陳腐にした<ref name="Bloom"/>。

ニューヨークタイムスでソープが初めて紹介された時の見出しは「オリンピック選手のインディアン、ソープ;カーライルから来た赤い肌の男はアメリカ代表となるため努力するだろう」というものだった<ref name="Redskin"/>。彼の成功については新聞やスポーツジャーナリストによって生涯人種と絡めて語られた。
<ref>Demaree, Al. [http://pqasb.pqarchiver.com/latimes/access/362613712.html?dids=362613712:362613712&FMT=ABS&FMTS=ABS:AI&type=historic&date=Nov+24%2C+1926&author=AL+DEMAREE&pub=Los+Angeles+Times+(1886-Current+File)&edition=&startpage=C4&desc=Thorpe%2C+the+Indian%2C+Best+All-American Thorpe, the Indian, Best All-American], ''[[ロサンゼルス・タイムズ]]'',1926年11月24日<br />
* [http://pqasb.pqarchiver.com/chicagotribune/access/502266132.html?dids=502266132:502266132&FMT=ABS&FMTS=ABS:AI&type=historic&date=Mar+29%2C+1953&author=&pub=Chicago+Daily+Tribune+(1872-1963)&edition=&startpage=A1&desc=JIM+THORPE+DIES+OF+HEART+ATTACK+AT+64 Jim Thorpe Dies of Heart Attack at 64] ''[[シカゴ・トリビューン]]'',1953年3月29日</ref>


==遺産==
===オリンピックメダルの回復===
長年にわたり、ソープの支持者たちは彼のオリンピックでのタイトルを回復させようとしてきた。
[[アメリカオリンピック委員会]](USOC)委員、1952年から1972年まで[[国際オリンピック委員会]](IOC)会長でかつてソープのチームメートであった[[アベリー・ブランデージ]]はこれらの運動をはねつけ、一言「無知は言い訳にならない」と語った<ref>{{cite web|title=Jim Thorpe cruelly treated by authorities.|url=http://sportsillustrated.cnn.com/2004/olympics/2004/08/08/bc.olympics.athletics.thorpe/|publisher=[[ロイター]] sportsillustrated.cnn.com, 2004年8月8日|accessdate=2011年5月8日}}</ref>。
もっとも固執したのは作家のロバート・ホイーラーとその妻フローレンス・リドロンであった。彼らは1913年のAAUと米国オリンピック委員会(USOC)の決定を覆してソープのアマチュア資格を回復させるのに成功した。
1982年に、ホイーラーとリドロンはジムソープ財団を設立し、[[アメリカ合衆国議会]]から支持を獲得した。
彼らは当時ソープの資格剥奪がオリンピック規則で許容された、閉会式から30日間の期間の後に行われたことを立証し、1982年10月にIOC理事会はソープの権利回復を承認した<ref name="Anderson"/>。
ただし、当時繰り上げで金メダルを獲得した五種競技の[[フェルディナンド・ビー]]、十種競技のフーゴ・ウィースランダーともに繰り下げずにそのままとし、ソープも金メダルを獲得したものとした。

1983年1月18日、IOCはソープの二人の子供に記念メダルを贈った<ref name="Anderson"/>。ソープが1912年に受け取ったオリジナルのメダルは博物館に保管されていたが、盗難にあって後行方不明のままである<ref>1. O'Hanlon-Lincoln. pg 132</ref>

===栄誉===
彼の名前が付けられた[[ペンシルベニア州]]の町[[ジム・ソープ (ペンシルベニア州)|ジム・ソープ]]には五種競技の表彰式にて[[スウェーデン国王]][[グスタフ5世]]から掛けられた「あなたは世界一偉大な運動選手です」という言葉を引用した記念碑が残されている。
ここにあるソープの墓は故郷オクラホマの土と、1912年に金メダルを獲得したストックホルムの競技場の土で築かれている<ref>[http://www.roadsideamerica.com/tip/3583 Jim Thorpe, Pennsylvania – Jim Thorpe's Tourist Attraction Grave at] [[:en:Roadside America]]</ref>。

ソープの業績はその生涯、死後に渡りスポーツジャーナリストから称賛された。
1950年、[[AP通信]]の「20世紀前半の最も偉大な運動選手」投票においておよそ400人の報道関係者がソープに投票した。AP通信は1999年に「20世紀の最も偉大な運動選手」で[[ベーブ・ルース]]、[[マイケル・ジョーダン]]に次いで第3位にソープを選出した<ref>[http://www.usatoday.com/sports/ssat2.htm Top 100 athletes of the 20th century]</ref>。
また、ESPNは「20世紀の北米スポーツ選手ランキング」第7位に選出した<ref>[http://espn.go.com/sportscentury/athletes.html Top N. American athletes of the century]</ref>。
1963年、[[オハイオ州]][[カントン (オハイオ州)|カントン]]に新設された[[プロフットボール殿堂]]に、最初に入堂した17人のうちの1人となった<ref>[http://www.profootballhof.com/hof/years.aspx Hall of Famers by Year of Enshrinement]</ref>。殿堂内の円形ホールにはソープの銅像が飾られている。
更にソープはカレッジフットボール殿堂、アメリカオリンピック殿堂、アメリカ陸上競技殿堂入りも果たした。

[[リチャード・ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は[[アメリカ合衆国上院]]合同決議第73号を受けて1973年4月16日を「ジム・ソープ記念日」とする宣言を行った<ref>[http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=76664#axzz1LeVrkbHU Richard Nixon: Proclamation 4209 - Jim Thorpe Day]</ref>。

1986年にはカレッジフットボールの年間最優秀ディフェンシブバックに与えられる[[ジム・ソープ賞]]([[:en:Jim Thorpe Award|Jim Thorpe Award]])とこれを授与する[[ジム・ソープ協会]]([[:en:Jim Thorpe Association|Jim Thorpe Association]])が設立された。1993年からは彼を記念し、その名を冠した[[ソープカップ]]陸上競技会([[:en:Thorpe Cup|Thorpe Cup]])が開催されている<ref>[http://www.zehnkampfteam.de/statistiken/thorpe-cup/historie/geschichte.html "Thorpe Cup"]{{de icon}}</ref>。

===ペンシルベニア州の町「ジム・ソープ」===
ソープの妻パトリシアは、ソープの死後オクラホマ州政府が彼を記念する施設を建設しないことに立腹していた<ref name="wsj">{{cite news|last=Hagerty|first=James R.|title=Is There Life After Jim Thorpe For Jim Thorpe, Pa.?|newspaper=[[ウォールストリート・ジャーナル]]|date=2010年7月21日|page=A14}}</ref>。
パトリシアはペンシルベニア州の小さな町Mauch ChunkとEast Mauch Chunkが産業を誘致しようとしているのを聞きつけ取引を持ちかけた。
両町はジム・ソープの記念碑と墓地を建設、また合併して彼の名を戴くこととした。なお、ソープ本人がこの地を訪れたことは無い。

2010年6月、ソープの息子ジャックが、ソープの遺骨を故郷オクラホマに戻し他の親族と一緒に再埋葬するよう先住民墓地保護・送還法([[:en:Native American Graves Protection and Repatriation Act|Native American Graves Protection and Repatriation Act]])を引用し、自治体を相手取って訴訟を起こした。

==フィルム==
1930年代、ソープは数編の短編映画と長編映画に出演した。
通常、彼の役どころはインディアンとしての顔見せであったが、1932年のコメディ映画Always Kickinでは若い選手にドロップキックを教えるコーチ役を演じた。
1931年[[大恐慌]]のさなか、ソープは自伝映画の上映権を1500ドル(現在の貨幣価値で約2万1000ドル)で売却した<ref>1. O'Hanlon-Lincoln. page145 </ref>。
この映画には1912年と1932年のオリンピックの記録映像が含まれていた。ソープはいくつかのロングショットで見られた。あるシーンではコーチのアシスタントとして登場していた。イギリスでも「ブロンズの男」として上映された。
1951年公開の『ジム・ソープ - オールアメリカン』([[:en:Jim Thorpe – All-American|Jim Thorpe – All-American]])([[ワーナー・ブラザーズ]])は主人公ソープ役を[[バート・ランカスター]]が演じた。
ソープが映画からお金を全く受け取らなかったという説があるが、ワーナー・ブラザーズから15,000ドルを受け取ったのに加えて年金として2,500ドルの寄付を受けた<ref>"Native American Son, The Life and Sporting Legend of Jim Thorpe" by Kate Buford, Alfred A. Knopf (New York, 2010), ISBN 978-0-375-413247-7, page356</ref>。
== 年度別打撃成績 ==
{|{{年度別打撃成績|リーグ=メジャーリーグベースボール}}
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1913}}
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[ニューヨーク・ジャイアンツ|NYG]]
|19||36||35||6||5||0||0||1||8||2||2||1||0|| ||1|| ||0||9|| ||.143||.167||.229||.395
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1914}}
|30||31||31||5||6||1||0||0||7||2||1|| ||0|| ||0|| ||0||4|| ||.194||.194||.226||.419
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1915}}
|17||54||52||8||12||3||1||0||17||1||4||2||0|| ||2|| ||0||16|| ||.231||.259||.327||.586
|-
|rowspan="2" style="text-align: center;"|{{by2|1917}}
|style="text-align:center;"|[[シンシナティ・レッズ|CIN]]
|77||269||251||29||62||2||8||4||92||36||11|| ||11|| ||6|| ||1||35|| ||.247||.267||.367||.634
|-
|style="text-align:center;"|[[ニューヨーク・ジャイアンツ|NYG]]
|26||68||57||12||11||3||2||0||18||4||1|| ||2|| ||8|| ||1||10|| ||.193||.303||.316||.619
|-style="background-color:#f2f2f2"
!style="text-align:center;"|'17計
| ||103||337||308||41||73||5||10||4||110||40||12|| ||13|| ||14|| ||2||45|| ||.237||.275||.357||.632
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1918}}
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[ニューヨーク・ジャイアンツ|NYG]]
|58||119||113||15||28||4||4||1||43||11||3|| ||0|| ||4|| ||2||18|| ||.248||.286||.381||.666
|-
|rowspan="2" style="text-align: center;"|{{by2|1919}}
|2||4||3||0||1||0||0||0||1||1||0|| ||1|| ||0|| ||0||0|| ||.333||.333||.333||.667
|-
|style="text-align:center;"|[[ボストン・レッドソックス|BOS]]
|60||168||156||16||51||7||3||1||67||25||7|| ||4|| ||6|| ||2||30|| ||.327||.360||.429||.789
|-
|-style="background-color:#f2f2f2"
!style="text-align:center;"|'19計
| ||62||172||159||16||52||7||3||1||68||26||7|| ||5|| ||6|| ||2||30|| ||.327||.359||.428||.787
|-
!colspan="2"|通算:6年
|289||749||698||91||176||20||18||7||253||82||29||3||18|| ||27|| ||6||122|| ||.252||.286||.362||.648
|}
*{{MLBstats |mlb= |espn= |br=t/thorpji01|fangraphs=1013044|cube=P/Jim-Thorpe}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
24行目: 329行目:
* 『20世紀最高のスポーツマンはだれか ([[小学館文庫]])』([[佐山和夫]](著)、[[小学館]]、1998/9、ISBN 978-4094164015)
* 『20世紀最高のスポーツマンはだれか ([[小学館文庫]])』([[佐山和夫]](著)、[[小学館]]、1998/9、ISBN 978-4094164015)
* 『日米野球裏面史:美少女投手から大[[ベーブ・ルース|ベーブルース]]まで』([[佐山和夫]](著)、[[日本放送出版協会]]、2005/9、ISBN 978-4140810651)
* 『日米野球裏面史:美少女投手から大[[ベーブ・ルース|ベーブルース]]まで』([[佐山和夫]](著)、[[日本放送出版協会]]、2005/9、ISBN 978-4140810651)
* 1. O'Hanlon-Lincoln, Ceane. ''Chronicles: A Vivid Collection of Fayette County, Pennsylvania Histories'', Mechling Bookbindery. 2006 ISBN 0-9760563-4-8

* 2. Jeansonne, Glen. ''A Time of Paradox: America Since 1890''. Rowman & Littlefield, 2006 ISBN 0-7425-3377-8
* 3. Wheeler, Robert W. ''Jim Thorpe, World's Greatest Athlete'', University of Oklahoma Press. 1979 ISBN 0-8061-1745-1
* 4. Schaffer, Kay and Smith, Sidonie. ''The Olympics at the Millennium: Power, Politics and the Games'', Rutger University Press, 2000 ISBN 0-8135-2820-8
* 5. Rogge, M. Jacque, Johnson, Michael, and Rendell, Matt. ''The Olympics: Athens to Athens 1896–2004'', Sterling Publishing. 2004 ISBN 0-297-84382-6
* 6. Elfers, James E. ''The Tour to End All Tours'', Nebraska: [[:en:University of Nebraska Press]], 2003 ISBN 0-8032-6748-7
* 7. Neft, David S., Cohen, Richard M., and Korch, Rick. ''The Complete History of Professional Football from 1892 to the Present.'' New York: St. Martin's Press, 1994 ISBN 0-312-11435-4
* 8. Jeansonne, Glen. ''A Time of Paradox: America Since 1890''. Rowman & Littlefield, 2006 ISBN 0-7425-3377-8
* 9. Watterson, John Sayle. ''College Football: history, spectacle, controversy'', Johns Hopkins University Press, 2000 ISBN 0-8018-7114-X
* 10. Lincoln, Kenneth and Slagle, Al Logan. ''The Good Red Road: Passages into Native America'', University of Nebraska Press, 1997 ISBN 0-8032-7974-4
* 11. Bloom, John. ''There is a Madness in the Air: The 1926 Haskell Homecoming and Popular Representations of Sports in Federal and Indian Boarding Schools,'' ed. in Bird. Boulder: Westview Press. 1996
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== 関連事項 ==
== 関連事項 ==
[[インディアン寄宿学校]]
[[インディアン寄宿学校]]
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{{commonscat|Jim Thorpe}}
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* [http://www.olympic.org/uk/athletes/profiles/bio_uk.asp?PAR_I_ID=54230 国際オリンピック委員会 - 「偉大なアスリート」]
* [http://www.olympic.org/uk/athletes/profiles/bio_uk.asp?PAR_I_ID=54230 国際オリンピック委員会 - 「偉大なアスリート」]
* [http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/th/jim-thorpe-1.html オリンピック成績 by Olympics at Sports-Reference.com:Jim Thorpe]

* [http://www.pro-football-reference.com/players/T/ThorJi20.htm プロフットボール成績 by Pro-Football-Reference.com:Jim Thorpe]
* [http://www.baseball-reference.com/players/t/thorpji01.shtml メジャーリーグ成績 by Baseball-Reference.com:Jim Thorpe]
* [http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=thorpe001jam マイナーリーグ成績 by Minors @ Baseball-Reference.com:Jim Thorpe]
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[[Category:ニューヨーク・ジャイアンツの選手]]

2011年5月8日 (日) 04:07時点における版

獲得メダル

ジム・ソープ(1912年)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
陸上競技
オリンピック
1912 五種競技
1912 十種競技
机に向かうジム。彼はスウェーデン王グスタフ5世から、「世界でもっとも偉大なアスリート」と称された
ジム・ソープ
Jim Thorpe
ニューヨーク・ジャイアンツ時代のソープ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国 オクラホマ州プラハ
生年月日 1888年5月28日
没年月日 (1953-03-28) 1953年3月28日(64歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1909年
初出場 1913年4月14日
最終出場 1919年9月25日
年俸 5000$(1913年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジム・ソープ
Jim Thorpe
refer to caption
アメリカンフットボールのユニフォームを着たソープ
基本情報
ポジション ランニングバック
キッカー、パンター
生年月日 1888年5月28日
没年月日 (1953-03-28) 1953年3月28日(64歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国オクラホマ州プラハ
身長: 6' 1" =約185.4cm
体重: 202 lb =約91.6kg
経歴
大学 カーライルインディアン工業学校
NFLドラフト 1915年 - 巡目
初出場年 1920年
初出場チーム カントン・ブルドッグス
所属歴

受賞歴・記録

NFL 通算成績
出場試合数 52試合
タッチダウン 6
フィールドゴール 4回
エキストラポイント 3回
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR

ジム・ソープ(Jacobus Franciscus "Jim" Thorpe, 1888年5月28日[1] - 1953年3月28日)は、陸上競技野球アメリカンフットボールなどで幅広く活躍したアメリカのスポーツ選手。サック&フォックス族インディアンで、部族員としての名は「輝ける道」を意味するワ・サ・ハク(Wa-Tho-Huk)という[2]

経歴

生い立ち

ソープの生年月日、本名、民族的背景についての情報は広範囲に渡っている[3]。彼の生まれたインディアン居留地では出生証明が見つからなかった。 公式にはオクラホマ州プラハ[4]近郊で双子の弟とともに1888年5月28日に生まれたとされた[1]。カトリック教会で彼は「ジェイコブ=フランシス・ソープ」、弟はチャーリーと名付けられた[2]

ソープの両親はともに混血でカトリック教徒であった。父親はアイルランド移民の父とサック&フォックス族の母を持ち、母親はフランス移民の父とポタワトミ族の母を持つ。

ソープはサック&フォックス族のWa-Tho-Huk(「雷の偉大な光に照らされた道」、あるいはもっと簡単に「輝ける道」)として成長した[3]。 ソープは弟チャーリーとともにオクラホマ州ストラウドにあるサック&フォックス族学校に通ったが、9歳の時チャーリーは肺炎で死亡し[2]、その後ソープは何度か学校を逃げ出した。

父親は彼を再び逃げ出さないようにカンザス州ローレンスのハスケルインディアン大学(en:Haskell Indian Nations University)に送った[5]

2年後に母が出産の際の合併症で死亡し、失意のソープは父と何度か言い争った後馬牧場で働くために家を出た[5]

1904年、ソープは父に連れ戻され、ペンシルバニア州カーライルのカーライルインディアン工業学校(Carlisle Indian Industrial School)に通うことになった。ここで彼の優れた運動能力が見出され、黎明期のアメリカンフットボールで最も偉大な指導者の一人グレン=スコビー"ポップ"・ワーナー(Glenn Scobey Warner)の指導を受けた[5]。しかしその年、ソープの父は狩猟中の負傷から壊疽に掛かり、死亡してしまった。このためソープは学校を辞めて農場で働き、数年後カーライルインディアン工業学校に復学した[5]

アマチュアのキャリア

大学時代

ソープは1907年にカーライルで陸上競技選手としてのキャリアをスタートさせたと伝えられている。 普段着のまま走り高跳びで5フィート9インチ(約175センチメートル)を飛んで見せた[6]。 彼は試みたスポーツすべてで素質を示し、1912年には社交ダンスの大学選手権で優勝した[7]

ポップ・ワーナーはソープのような優れた陸上競技選手にフットボールのような肉体的な競技をさせることを躊躇っていた[8]。 しかしながら、ソープは、自身を学校チームのディフェンスと対戦させるようにワーナーに申し出た。ワーナーはソープが簡単にタックルを受けて、あきらめるだろうと考えた[8]。ソープは縦横無尽に走り回り、一度ならず二度もディフェンスを振り切った。ソープはワーナーに歩み寄り、ボールを弾きながら「誰もジムにタックル出来なかった」と言った[8]

1911年に初めて全米で注目された[9]。ハーバード大学との対戦でソープはランニングバック、ディフェンシブバック、プレースキッカー、パンターとして出場、4フィールドゴール1タッチダウンを成功させてチームの全得点をたたき出し、18-15で勝利を収めることに貢献した[8]。 翌シーズン、彼の所属するカーライルのチームは全米大学選手権で優勝し、彼自身は25タッチダウン198得点を記録した[10]陸軍士官学校チームに27-6で勝利した試合では、92ヤードタッチダウンランを見せたがペナルティで取り消し、5ヤード罰退した次のプレーで97ヤードのタッチダウンランを決めて見せた[4]。 このシーズンにソープと対戦した後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは1961年に次のように回想している[10]

古今東西、最高の才能を授けられた人間は何人かいる。私が思いつくのはジム・ソープである。彼は生涯練習せず、私が今までに見たいかなる他のフットボール選手よりも優れたプレーが出来た。

1911年と1912年にアメリカンフットボールのオールアメリカに選出された[4][11]

アメリカンフットボールはソープのもっとも好きなスポーツで[12]、陸上競技には時々出場するのみであった。しかし陸上競技はソープが最高の名声を得るスポーツとなった。

1912年の春にオリンピックを目標にしたトレーニングを始めた。当初は向けられる努力は幅跳、ハードル走、砲丸投に限られていたが、棒高跳、やり投、円盤投、ハンマー投のトレーニングも行った。ソープは五種競技と十種競技のアメリカ代表選考会に参加し、ニューヨークのセルティックパークで行われたオリンピック代表選考会で彼の万能な能力はすべての種目で好成績を残し、スウェーデン行きを決めた[4]。代表のチームメートには後に国際オリンピック委員会(IOC)会長となるアベリー・ブランデージもいた。

オリンピック

1912年のストックホルムオリンピック陸上競技では走幅跳走高跳五種競技十種競技の4種目に出場した。

7月7日、最初の種目五種競技に出場、走幅跳は7m07cmで1位、やり投46m71cmで3位、200m22秒9で1位、円盤投35m57cmで1位、1500m4分44秒8で1位と圧倒的な成績で優勝した。

同日、走高跳の予選に出場、1m83cmを飛んで翌日の決勝へ進んだ。決勝では1m87cmまで順調にクリアしたが1m89cmの試技で3回失敗、4位タイとなった。

7月12日の走幅跳では6m89cmで7位に留まった。

7月13日から十種競技に出場、100m11秒2で3位タイ、走幅跳6m79cmで3位、砲丸投12m89cmで1位、2日目の走高跳1m87cmで1位、400m走52秒2で4位、円盤投36m98cmで3位、110mハードル15秒6で1位、3日目の棒高跳3m25cmで3位タイ、やり投45m70cmで4位、1500m走4分40秒1で1位、合計ポイントは8,412.955で世界新記録、2位に700ポイント近い大差をつけて優勝した。

表彰式にてスウェーデン国王グスタフ5世から五種競技の金メダルを、ロシア皇帝ニコライ2世から十種競技の金メダルをそれぞれ授けられた。

グスタフ五世はソープに「あなたは世界最高のアスリートだ」と声を掛け、ソープは「ありがとうございます、陛下」と答えたという[13][14]

ソープの功績は母国アメリカでも見逃されることなく、ニューヨークのブロードウェイでパレードをする栄誉に浴した[13]

彼は後に回想している。「私は、人々が私の名前を大声で言っているのを聞いた。そして、1人の男がどのようにして多くの友人を持つことができたかが実感できなかった」[13]

また、ソープは陸上競技への出場とは別に、このオリンピック中に行われた野球のエキシビションマッチに出場した。これは陸上アメリカ代表チームが2チームに分かれて2試合行ったもので、ソープはこのうちの1試合に出場した。

全米チャンピオン

ストックホルムオリンピックで勝利を収めた後9月2日にソープは全米体育協会選手権に出場するため、Irish American Athletic Club(IAAC)の本拠地であるニューヨーククイーンズ区のセルティックパーク(ソープがその4カ月前にオリンピック大会出場権を得た場所)に戻ってきた。

IAACのブルーノ・ブロッド、プリンストン大学のJ. Bredemusと競った末10種目中7種目を制し残りの3種目も2位となった。7,476ポイントは1909年にマーチン・シェリダンがセルティックパークで記録した7,385ポイントの記録を更新するものだった[15]。オリンピックで通算5個のメダルを獲得したシェルダンは自身の記録が更新されるところを目の当たりにし、試合後彼に近づいて彼の手を取り、次のように述べた。「ジム、君は素晴らしいアスリートだ。私は君より素晴らしい選手に出会うことはないだろう」。 また、シェルダンはニューヨークワールドの記者に「ソープは今までで最も優れたアスリートだ。彼は50の方法で私を負かす。私の全盛期でも今日のような成績は残せないだろう」と語った[16]

論争

1913年、オリンピックに参加する運動選手にとってアマチュア主義に関する厳しい規則が発効した。何らかの大会で賞金を受け取った者、スポーツの教師、過去にプロ選手と対戦した者はアマチュア資格を喪失した者として競技会から締め出された。

1913年1月下旬、アメリカの新聞はソープが過去にブロ野球でプレーしていたことを記事にした。最初に報じた新聞がどこかははっきりしないが、マサチューセッツ州のウースターテレグラム(Worcester Telegram)がスクープを掲載している[13][17]

ソープは1909年と1910年にプロ野球マイナーD級東カロライナリーグ(Eastern Carolina League)のロッキーマウントとフェイエットビルで計89試合に出場し[18]、最低1試合2ドル(現在の貨幣価値で約47ドル)から最高1週間で35ドル(約822ドル)程度の報酬を受け取った[19]

実際、当時の大学生は夏休みにプロ野球でアルバイトをするケースが多々あったがその大部分はソープと異なり仮名を用いてプレーしていた[10]

ソープの過去について公衆は問題視しなかったが[20]全米体育協会(AAU)、特に長官のジェームス=エドワード・サリバンJames Edward Sullivan)はこの問題を非常に重要視した[21]。ソープはプロ野球でプレーした事実を認めてサリバンに書簡を提出した[13]

私は、単なるインディアンの一学生であり、そのような規定があることは全く知らなかったことであるから免責されることを願っています。実際、私は悪いことをしているとは思っていなかった。何人かの大学生が仮名を使って私と同じようにプロ野球でプレーしていたから。

しかしこの弁明は効果をもたらさなかった。AAUはソープのアマチュア資格を過去に遡って撤回することを決め、国際オリンピック委員会(IOC)にも同様の措置を取るよう要請した。

その年の後半、IOCはソープがプロ選手でありアマチュア資格を喪失しているものと認定し、彼のオリンピックのタイトル、メダル、および賞を剥奪することを全会一致で決定した。

ソープは報酬を受けて野球をしていたが、AAUとIOCは資格剥奪のルールにのっとってはいなかった。1912年オリンピックのルールブックでは、抗議は閉会式から30日以内に行わなければならないとされていた。この問題が報道されたのは1913年1月下旬であり、ストックホルムオリンピックの閉会式から6カ月も経過している。またソープのアマチュア資格についてはオリンピックのずっと前から疑問が呈されていたにもかかわらずAAUは報道されるまでこの問題を無視していた。

この事件でソープにとって救いは、プロ選手であると決定されたことが報じられるとすぐにプロスポーツチームからオファーがあったことである[22]

プロのキャリア

フリーエージェント

保留条項の時代においてまれなフリーエージェントとしてソープにはプレーする野球チームを選択する権利があった。 ソープはシカゴ・ホワイトソックスセントルイス・ブラウンズシンシナティ・レッズからのオファーは拒否し、ニューヨーク・ジャイアンツと契約した[23]

この年の10月にジャイアンツとホワイトソックスが帯同して行ったワールドツアーに参加した[24]

合衆国を横断し、世界中を回る巡業でソープは一番の有名人であった[25]。ツアーで訪れた各所でソープの名前が宣伝効果をもたらして入場料収入を増加させた。ツアー中にローマ法王や最後のエジプト総督と面会、ロンドンではジョージ五世を始め2万人の観客の前で試合を行い、また、ローマのコロッセオで仲間とレスリングをしているところを映像に撮らせたりもした。この時の映像は現存することが知られている。

野球、アメリカンフットボール、バスケットボール

1913年にジャイアンツと契約し、外野手としてプレーしたが3シーズンで66試合の出場に留まり.195、1本塁打、5打点と活躍できなかった。1916年はマイナーリーグ、アメリカン・アソシエーションリーグミルウォーキー・ブルワーズでプレーした [26]。 1917年にメジャーに復帰したが、4月23日にシンシナティ・レッズへトレードされた。5月2日、レッズのフレッド・トニーシカゴ・カブスヒッポ・ボーンが9回までノーヒットで投げあった「ダブル・ノーヒッター」で延長10回に決勝点をあげた。8月18日に再びジャイアンツにトレードされた。1919年5月21日にボストン・ブレーブスへトレードされ、メジャーリーグでの出場はこのシーズンが最後となった。通算289試合に出場し698打数176安打、7本塁打、82打点、29盗塁、打率.252。 その後1922年までマイナーリーグでプレーを続けた。

一方ソープは好きなアメリカンフットボールでもプレー、1913年にインディアナ州パインビレッジのチームでプレーした[27]。このチームは1910年代に数年間対外試合無敗を続けた強豪チームであった。 1915年にはカントン・ブルドッグスが一試合250ドル(現在の貨幣価値で約5400ドル)という当時としては破格の待遇で契約を結んだ[27]。ソープ入団前にはカントンの観客動員は一試合平均1200人だったが、ソープが初めてカントンの選手として出場した対マシロン戦では8000人を集めた[28]

1916年、ソープ擁するカントン・ブルドッグスは9勝0敗1引き分けでオハイオリーグを制し、更に1917年、1919年も優勝した[27]。伝えられるところによると、1919年のチャンピオンシップ戦で自陣5ヤード地点から風に乗って95ヤードのパントを成功させて試合を終わらせた[28]

1920年、カントン・ブルドッグスはアメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション(APFA)を形成する14チームの1つとなった。APFAは2年後ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)となる。ソープはAPFAの初代会長に選出されたが、実際はカントンでのプレーに専念し、1年後にはジョセフ・カーが後任の会長となった[29]。また、カントンではプレーするだけでなくヘッドコーチとしてもチームを率いた[30]

1922年から1923年、ソープはラルー (オハイオ州)のオーラング・インディアンス(Oorang Indians、チーム全員がインディアン)でプレーした。1922年は3勝6敗[31]、1923年は1勝10敗[32]と振るわない成績で2シーズンでチームは解散した。 ソープ自身はグリーンベイ・プレス=ガゼット社選定のオールプロに選ばれた。(NFL公式のオールプロチームは1931年からで、それまでのグリーンベイ・プレス=ガゼット社選定によるオールプロは後にNFL公式に認定された。)[33]

ソープはNFLのチャンピオンチームでプレーする機会は無く、1928年41歳で引退するまで計6チームで52試合に出場した。

2005年までジム・ソープがバスケットボールをプレーしたかどうかについては全く知られていなかった。しかしこの年古書で発見されたチケットは、バスケットボールの彼のキャリアを明らかにした[34]

ソープは1926年まで野球・アメリカンフットボール・バスケットボールの巡業チームを支援するラルー (オハイオ州)において代表的なインディアン選手であった。「ジム・ソープと彼の世界で有名なインディアン」は少なくとも2年間(1927-28年)ペンシルバニア州ニューヨーク、およびオハイオ州マリオンの地域で地方巡業を行った。 WFIバスケットボールのユニフォームを着たソープの写真が絵葉書として発売されたり新聞に掲載されたりしたが、彼のこの時期の記録が残っていない。

結婚と家族

1913年にカーライルで出会ったアイバ・ミラーと最初の結婚をし、4人の子供をもうけたが1925年に離婚した[4][35]。1926年にフリーダ・V・カークパトリック(1905年9月19日 - 2007年3月2日)と結婚した。 彼女はソープがオハイオの野球チームで監督兼選手をしていた時秘書として働いていた[36]。4人の子供をもうけたが1941年に離婚した[4]

その後3番目の妻であるパトリシア・アスケウと結婚した。

その後の人生

スポーツ選手を引退した後、ソープは家族を養うために苦闘した。スポーツとは関係ない仕事をいくつもしたがどれも長続きしなかった。 大恐慌の時期には映画のエキストラとして西部劇のインディアン酋長役を何度か演じた。その他、建設作業員、警備員[37]、用心棒、1945年にはアメリカ合衆国商船United States Merchant Marine)に加わった。 人生の後半生は慢性のアルコール中毒にかかっていた[38]

1950年代には生活は困窮し、1950年に口唇癌のため入院した際にはチャリティーケースとして認められた[39]

記者会見で妻のパトリシアは涙ながらに語った。「私たちは一文無しです。ジムには過去の栄光と名声しかありません。彼はお金を家族のために使い、与えました。しばしば搾取もされました」[39]

1953年の初頭、ソープはカリフォルニア州ロミータの自宅で妻パトリシアと食事中、心臓発作を起こした。人工呼吸により一命を取り留めたが、その後意識不明の重体に陥り、3月28日に死去した[4]

人種差別問題

ソープは先述のようにアメリカインディアンとヨーロッパ系移民の双方の血を引いている。彼の業績はアメリカで人種差別が激しい時期に成し遂げられた。しばしばメダルの剥奪が人種に由来するものと示唆された[40]。これを立証するのは難しいが、当時世論はこの視点を主に反映していた[41]。 ソープが金メダルを獲得した時代はすべてのインディアンが合衆国市民とみなされているわけではなかった。 (合衆国政府はヨーロッパ系アメリカ人がすべてのアメリカインディアンを市民とみなすよう譲歩することを望んでいた。) 1924年に初めて、すべてのアメリカインディアンに合衆国市民権が与えられた[42]

ソープがカーライルの学校に通っている時、学生の民族性はマーケティング目的に使用された[43]。更に学校やジャーナリストたちはしばしばスポーツを白人とインディアンの抗争になぞらえた。 「インディアンが27対6で陸軍士官学校の頭皮を剥ぐ」とか「ジム・ソープ大暴れ」といった新聞の見出しはカーライルのフットボールチームに属するインディアンのプレーを陳腐にした[43]

ニューヨークタイムスでソープが初めて紹介された時の見出しは「オリンピック選手のインディアン、ソープ;カーライルから来た赤い肌の男はアメリカ代表となるため努力するだろう」というものだった[9]。彼の成功については新聞やスポーツジャーナリストによって生涯人種と絡めて語られた。 [44]


遺産

オリンピックメダルの回復

長年にわたり、ソープの支持者たちは彼のオリンピックでのタイトルを回復させようとしてきた。 アメリカオリンピック委員会(USOC)委員、1952年から1972年まで国際オリンピック委員会(IOC)会長でかつてソープのチームメートであったアベリー・ブランデージはこれらの運動をはねつけ、一言「無知は言い訳にならない」と語った[45]。 もっとも固執したのは作家のロバート・ホイーラーとその妻フローレンス・リドロンであった。彼らは1913年のAAUと米国オリンピック委員会(USOC)の決定を覆してソープのアマチュア資格を回復させるのに成功した。 1982年に、ホイーラーとリドロンはジムソープ財団を設立し、アメリカ合衆国議会から支持を獲得した。 彼らは当時ソープの資格剥奪がオリンピック規則で許容された、閉会式から30日間の期間の後に行われたことを立証し、1982年10月にIOC理事会はソープの権利回復を承認した[19]。 ただし、当時繰り上げで金メダルを獲得した五種競技のフェルディナンド・ビー、十種競技のフーゴ・ウィースランダーともに繰り下げずにそのままとし、ソープも金メダルを獲得したものとした。

1983年1月18日、IOCはソープの二人の子供に記念メダルを贈った[19]。ソープが1912年に受け取ったオリジナルのメダルは博物館に保管されていたが、盗難にあって後行方不明のままである[46]

栄誉

彼の名前が付けられたペンシルベニア州の町ジム・ソープには五種競技の表彰式にてスウェーデン国王グスタフ5世から掛けられた「あなたは世界一偉大な運動選手です」という言葉を引用した記念碑が残されている。 ここにあるソープの墓は故郷オクラホマの土と、1912年に金メダルを獲得したストックホルムの競技場の土で築かれている[47]

ソープの業績はその生涯、死後に渡りスポーツジャーナリストから称賛された。 1950年、AP通信の「20世紀前半の最も偉大な運動選手」投票においておよそ400人の報道関係者がソープに投票した。AP通信は1999年に「20世紀の最も偉大な運動選手」でベーブ・ルースマイケル・ジョーダンに次いで第3位にソープを選出した[48]。 また、ESPNは「20世紀の北米スポーツ選手ランキング」第7位に選出した[49]。 1963年、オハイオ州カントンに新設されたプロフットボール殿堂に、最初に入堂した17人のうちの1人となった[50]。殿堂内の円形ホールにはソープの銅像が飾られている。 更にソープはカレッジフットボール殿堂、アメリカオリンピック殿堂、アメリカ陸上競技殿堂入りも果たした。

リチャード・ニクソン大統領アメリカ合衆国上院合同決議第73号を受けて1973年4月16日を「ジム・ソープ記念日」とする宣言を行った[51]

1986年にはカレッジフットボールの年間最優秀ディフェンシブバックに与えられるジム・ソープ賞(Jim Thorpe Award)とこれを授与するジム・ソープ協会(Jim Thorpe Association)が設立された。1993年からは彼を記念し、その名を冠したソープカップ陸上競技会(Thorpe Cup)が開催されている[52]

ペンシルベニア州の町「ジム・ソープ」

ソープの妻パトリシアは、ソープの死後オクラホマ州政府が彼を記念する施設を建設しないことに立腹していた[53]。 パトリシアはペンシルベニア州の小さな町Mauch ChunkとEast Mauch Chunkが産業を誘致しようとしているのを聞きつけ取引を持ちかけた。 両町はジム・ソープの記念碑と墓地を建設、また合併して彼の名を戴くこととした。なお、ソープ本人がこの地を訪れたことは無い。

2010年6月、ソープの息子ジャックが、ソープの遺骨を故郷オクラホマに戻し他の親族と一緒に再埋葬するよう先住民墓地保護・送還法(Native American Graves Protection and Repatriation Act)を引用し、自治体を相手取って訴訟を起こした。

フィルム

1930年代、ソープは数編の短編映画と長編映画に出演した。 通常、彼の役どころはインディアンとしての顔見せであったが、1932年のコメディ映画Always Kickinでは若い選手にドロップキックを教えるコーチ役を演じた。 1931年大恐慌のさなか、ソープは自伝映画の上映権を1500ドル(現在の貨幣価値で約2万1000ドル)で売却した[54]。 この映画には1912年と1932年のオリンピックの記録映像が含まれていた。ソープはいくつかのロングショットで見られた。あるシーンではコーチのアシスタントとして登場していた。イギリスでも「ブロンズの男」として上映された。 1951年公開の『ジム・ソープ - オールアメリカン』(Jim Thorpe – All-American)(ワーナー・ブラザーズ)は主人公ソープ役をバート・ランカスターが演じた。 ソープが映画からお金を全く受け取らなかったという説があるが、ワーナー・ブラザーズから15,000ドルを受け取ったのに加えて年金として2,500ドルの寄付を受けた[55]

年度別打撃成績

















































O
P
S
1913 NYG 19 36 35 6 5 0 0 1 8 2 2 1 0   1 0 9 .143 .167 .229 .395
1914 30 31 31 5 6 1 0 0 7 2 1   0   0 0 4 .194 .194 .226 .419
1915 17 54 52 8 12 3 1 0 17 1 4 2 0   2   0 16 .231 .259 .327 .586
1917 CIN 77 269 251 29 62 2 8 4 92 36 11 11 6 1 35 .247 .267 .367 .634
NYG 26 68 57 12 11 3 2 0 18 4 1 2 8 1 10 .193 .303 .316 .619
'17計 103 337 308 41 73 5 10 4 110 40 12 13 14 2 45 .237 .275 .357 .632
1918 NYG 58 119 113 15 28 4 4 1 43 11 3 0 4 2 18 .248 .286 .381 .666
1919 2 4 3 0 1 0 0 0 1 1 0 1 0 0 0 .333 .333 .333 .667
BOS 60 168 156 16 51 7 3 1 67 25 7 4 6 2 30 .327 .360 .429 .789
'19計 62 172 159 16 52 7 3 1 68 26 7 5 6 2 30 .327 .359 .428 .787
通算:6年 289 749 698 91 176 20 18 7 253 82 29 3 18 27 6 122 .252 .286 .362 .648

参考文献

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  55. ^ "Native American Son, The Life and Sporting Legend of Jim Thorpe" by Kate Buford, Alfred A. Knopf (New York, 2010), ISBN 978-0-375-413247-7, page356

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