文観

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文観房弘真
弘安元年1月11日 - 正平12年/延文2年10月9日
1278年2月4日1357年11月21日
仏僧の彫像、底銘:沙門文観正平二年(1347年)、ウォルターズ美術館蔵
仏僧の彫像、底銘:沙門文観正平二年(1347年)、ウォルターズ美術館
幼名 不明(俗姓大野氏宇多源氏後裔))
(通称)小野僧正
(房号)文観
真言律宗:殊音
真言宗:弘真
尊称 文観上人
生地 播磨国北条郷大野(兵庫県加古川市加古川町大野)
没地 河内国金剛寺大門往生院(大阪府河内長野市金剛寺)
宗旨 真言宗真言律宗

真言律宗:巌智律師、慶尊、信空
真言宗道順

法相宗:良恩
弟子 後醍醐天皇[注釈 1]宝蓮道祐賢俊
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文観房弘真(もんかんぼうこうしん)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての真言律僧真言僧画僧。房号は文観(もんかん)、法諱は律僧としては殊音(しゅおん)、密教僧としては弘真(こうしん)。小野僧正とも。尊称は文観上人。醍醐座主・天王寺別当東寺一長者後醍醐後村上両帝の護持僧。

は宝蓮『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))。

画僧としては、狩野永納本朝画史』(延宝6年(1679年))に「不凡」(非凡)と評され[1]、美術作品の現存点数は中世の僧侶では最も多い人物の一人である[2]。自筆の代表作は『絹本著色五字文殊像』(重要文化財)で、その他『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(国宝)、『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財)、『木造文殊菩薩騎獅像(本堂安置)』(重要文化財)などの制作に関わっている。

経歴

「文観」や「殊音」という法諱は「文殊」菩薩「観音」菩薩に因むものという[3]

正安2年(1302年)には般若寺律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律宗を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。

後醍醐天皇に重用され、醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造る。その後、元徳2年(1331年)に幕府調伏を行っていたというかどで逮捕され薩摩国硫黄島流罪となる。

元弘3年/正慶2年(1333年)、元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡し、文観は京都へ戻り、東寺長者となるなどして後醍醐天皇の建武の新政体制下で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らからの反発にあった。文観自身も東寺長者の地位を剥奪された。

南北朝の内乱では後醍醐方に属して吉野へ随行し、南朝政権内で大僧正となる。

河内国天野山金剛寺大阪府河内長野市)で没、享年80。

河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている[4]

俗説では真言宗立川流中興の祖としても知られるが、これは宥快『宝鏡鈔』(1375年)が文観と立川流の両方を批判していることから生じたと思われる誤解で、『宝鏡鈔』自体に文観と立川流を結びつける記述は存在しない[5]

著書

ギャラリー

文観を題材とする作品

文観が登場するフィクション

脚注

注釈

  1. ^ 後醍醐天皇は精神的に文観に帰依しただけではなく、文観から伝法灌頂を受け、正式な阿闍梨となっている。

出典

  1. ^ 内田 2006, p. 29.
  2. ^ 内田 2006, pp. 314–317.
  3. ^ 「王権の危機」(新訂増補週刊朝日百科 日本の歴史5中世II - 11 『後醍醐と尊氏』所収、朝日新聞社、2002年)。
  4. ^ 網野善彦「楠木正成の実像」(前掲『後醍醐と尊氏』所収)。
  5. ^ 彌永 2004.

参考文献

  • 森茂暁『太平記の群像』角川選書、1991年。ISBN 4-04-703221-2 
  • 彌永, 信美立川流と心定『受法用心集』をめぐって」『日本仏教綜合研究 (2)』、日本仏教綜合研究学会、2004年5月31日、NAID 110009800226 
  • 内田啓一『文観房弘真と美術』法藏館、2006年。ISBN 978-4831876393 

関連文献

仏教学

  • 井野上眞弓「文観房殊音と河内国」『戒律文化』第2号、戒律文化研究会、2003年、46-57頁。 
  • 井野上眞弓(著)、速水侑(編)「東寺長者と文観」『日本社会における仏と神』、吉川弘文館、2006年9月、60-79頁。 
  • 内田, 啓一「文観房弘真の付法について(上)」『昭和女子大学文化史研究』第7号、2003年、5-26頁。 
  • 内田, 啓一「文観房弘真の付法について(下)」『昭和女子大学文化史研究』第8号、2004年、40-64頁。 
  • 佐野学「日観上人と文観僧正」『世界仏教』第7巻第9号、1952年、34-35頁。 
  • 田村, 隆照文観房弘真と文殊信仰」『密教文化』第76号、1966年、1-13頁、doi:10.11168/jeb1947.1966.76_1 
  • 守山聖真『立川流秘密史文観上人之研究』森江書店、1938年。 
  • 守山聖真『立川邪教とその社会的背景の研究』鹿野苑、1965年。  - 「第二編 立川流と文観」「第三編 文観の思想解剖」

仏教美術

  • 阿部, 泰郎「宝珠の象る王権--文観弘真の三尊合行法聖教とその図像 (舎利と宝珠)」『日本の美術』第539号、2011年、80-93頁。 
  • 内田, 啓一(著)、仏教芸術学会(編)「根津美術館蔵大日金輪・如意輪観音厨子について : 文観房弘真と制作背景」『仏教芸術』第324号、毎日新聞社、2012年9月、98-123頁。 
  • 内田, 啓一「吉野・吉水神社蔵両界種子曼荼羅 : 後醍醐天皇と文観房弘真 [On the Ryogai Mantala at Yoshimizu-Jinja Shrine in Nara : Godaigo Tenno emperor and Priest Monkanbou-Koushin]」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』59 (3分冊)、2013年、29-47頁、ISSN 1341-7533 
  • ガエタン, ラポー(著)、佛敎藝術學會(編)「いわゆる「赤童子」図(日光山輪王寺・大英博物館・大阪市立美術館)の検討 : 文観による「三尊合行法」の本尊図像化の一例として」『佛敎藝術 Ars buddhica』第350号、毎日新聞出版、2017年1月、9-32頁。 
  • 山川均「東播磨の中世石塔と文観」『奈良歴史研究』第86号、2016年、1-12頁。 

その他

関連項目