エジプト先王朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。G-Sounds (会話 | 投稿記録) による 2017年5月4日 (木) 03:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (無駄に漢数字になっている部分を、算用数字に変換。など)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

エジプト先王朝時代とは、エジプトを統一する王朝(初期王朝時代)が登場する以前の古代エジプトを指す時代区分である。その始まりをいつとするかは明確ではないが概ね紀元前5千年紀末、その終了は放射性炭素年代測定によって概ね紀元前3100年頃とされている。

研究史

古代

古代エジプト人は歴代王(ファラオ)の名前のリスト化した王名表を作成する伝統を持っていた。エジプト新王国時代に作成された『トリノ王名表』には、エジプトの最初の王としてメニの名が記されている[1]。また、紀元前5世紀ギリシア人の歴史家ヘロドトスの『歴史』はエジプトの神官達の証言として初代王ミン、マネト[注釈 1]プトレマイオス朝時代に著述した『エジプト史』では初代王としてメネス(メニのギリシア語形)が登場する。これらからわかるように、王朝時代の古代エジプトではメニ(メネス)から始まるエジプトの歴史が共有されていた。

メニ以前のエジプトについての記録は神、半神達の時代とされていた。エウセビオスによれば、マネトの記録は3巻に分類されていた。1巻はヘファイストスエジプト神話におけるプタハ)を筆頭とする神について述べ、2巻は神人、即ち死者の精霊について述べる[2]。続いて3巻はメネスに始まる人王について述べている。人王の時代は第1から、第30までの王朝として分類されている[3][注釈 2]。『トリノ王名表』は王朝以前の位置に「ホルスの信奉者たち」(ホルスの信奉者であった精霊)と呼ばれる半神達の王朝があったことが記されている[4][5]

より古い記録として、紀元前2400年頃に作成されたエジプト最古の年代記である『パレルモ石』には、統一王朝以前にも王らしき人物(それは王冠を被った表現でわかる)がいたことが記されている。しかし具体的な歴史記録を読み取ることはできない。

以上のように古代エジプトにおける先王朝時代の記録は概して神話的であるが、図像表現等にそれらしき物が見られる。

近代の発見

この節と次節の記載は特記がない限り参考文献 『エジプト文明の誕生』(高宮いづみ)の記述に全面的に依拠する。

ローマ時代後半以降、古代エジプトの文献記録の継承は途絶えてしまった。そのため、王朝以前のエジプトについての研究も何ら進展は見られない。1822年フランス人研究者J.F.シャンポリオンヒエログリフの解読に成功した事によって近代エジプト学が確立されると、エジプト王朝時代の王達の歴史が再び明らかにされるようになった。そして19世紀終わりまで、エジプトの歴史の曙は、王朝時代の記録や、ギリシア語の文献記録に基づき、初代王メニをはじめとする初期王朝時代の王達の業績に求められることになった。

相次ぐ考古学的発見に伴い、19世紀終わり頃になると文献記録のみに頼ることのない文明誕生の本格的な研究が始まった。W.M.F.ペトリーによるナカダ遺跡周辺の発掘調査(1894年-1895年)と、J.ド・モルガンによるエジプト南部およびナカダ遺跡の調査(1896年-1897年)が王朝時代以前から初期王朝時代にかけての遺跡における最初の本格的な調査であった。これらの調査で発見された文化は、最初に発見された遺跡の名前からナカダ文化と呼ばれる。

その後、20世紀前半までの調査によって数多くの王朝時代以前の遺跡が調査され、文明誕生期の歴史と文化についての知見が蓄積された結果、エジプト第1王朝開闢に先立つ紀元前5千年紀末以降の時代は「先王朝時代:Predynastic Period)の呼称を与えられ、エジプト学の中でも独立した研究分野としての地位を確立していった。

初期の研究をリードしたペトリーは、ナカダ文化期から初期王朝時代にかけての文化変化を「アムラー」「ゲルゼー」「セマイネー」の3つの文明の交代として捕らえ、その背景には西アジアからの異民族侵入があったとした。この考え方は当時の学会では広く受け入れられていた。

その後の調査で、エジプト北部ではナカダ文化と様相を異にする複数の文化が発見された。これらの文化も発見された遺跡や地方の名前からマーディ・ブト文化メリムデ文化ファイユーム文化オマリ文化と命名された。更にアビュドス遺跡で初期王朝時代の王達の墓が発見され、メニ王を同時代の王と同定する試みが盛んになった。

20世紀後半

1944、H.J.カンターらの研究で、ペトリー以来の民族侵入によってこの先王朝時代の変遷を説明しようとする見解が否定された。また、W.カイザーの研究の結果、上エジプトで発祥したナカダ文化が時代と共に南北に分布を拡大していくことが明らかにされた。これらの研究により先王朝時代の文化・社会の変遷を外的要因に求めるではなく、エジプト内部にその主要因を求める流れが形成された。更にナカダ文化の拡張が明らかになったことで、統一王朝形成の過程でそれが大きな役割を果たした事が強く認識されるようになった。

20世紀後半になると欧米で隆盛したプロセス考古学と、実用化されつつあった放射性炭素年代測定法が大きく寄与し、諸文化の編年関係や埋葬形態、集落形態の研究が大きく進展した。これによって古くから続いていた文献史料の影響から本格的な脱却が図られた。

1970代年以降、中東情勢の安定の伴いエジプトにおける発掘調査が活発となった。この時期以降の調査は、プロセス考古学の影響を受けて旧来の墓地を中心とする調査よりも、集落跡に焦点を当てる傾向が顕著であった。更に従来ほとんど手付かずであった下エジプトデルタ地帯での発掘調査が進展した。これらの調査で既存の下エジプトの文化(マーディ・ブト文化の中に次第にナカダ文化が浸透していく様が明らかになった。更にアビュドス遺跡での再調査で初期王朝時代黎明期の詳細な情報が提供された。

またイスラエルパレスチナで行われた発掘調査は、紀元前4千年紀のエジプトがパレスチナ南部と密接な関わりを持っていることを明らかにした。また、F.ウェンドルフらによるアメリカポーランド合同調査隊は、周囲の砂漠地帯における調査を進展させ、ナイル川近辺で未発見であった終末期旧石器時代の遺跡を各地で発見し、歴史の空白を埋めた。

上下エジプトの地図:上エジプト(Upper Egypt)は南のナイル川上流域、下エジプト(Lower Egypt)は北のナイル川河口デルタ地域を指す。

農耕・牧畜の始まり

現在では広大な砂漠地帯となっているナイル川西方の地域は、12000年前頃から第4湿潤期と呼ばれる湿潤な時代に入った。湿潤と言っても年間降水量は200mm前後であったとみられるが、スーダン北部からエジプト南部の地域においては植物が繁茂し、ウサギガゼルオリックス等が生息していた。この時代には現在砂漠となっている地域にも人類の居住が確認されている。特に夏季の降雨の後に水たまりができる低地や、比較的浅い位置に地下水が存在する場所にその居住は集中している。ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されている。

これらの遺跡はハルツーム中石器(Khartoum)と呼ばれる文化に属する。またナイル川下流域のエジプトでは第2急流付近にアルキン文化(Arkinian)とシャマルク文化(Shamarkian)の遺跡がまとまって存在する。このようなナイル川近辺の遺跡では、ナイル川の水産資源に依存した生活が営まれていた[6]。ナイル川水系の豊かさは狩猟採集生活を送る人々にも相当な豊かさを提供したものとみられる。

アフリカ大陸北東部では、12000年前頃から終末期旧石器時代に入り、紀元前6000年以降に新石器時代に入る[7]。奇妙なことにナイル川流域の農耕、牧畜はこの紀元前6千年紀後半に突如として始まるように見える。20世紀後半の調査により、ナイル川西方の砂漠地帯にこれを説明する遺跡が多数発見され、ナイル川流域の農耕、牧畜文化は、現在では砂漠化している西部砂漠地方に起源を持つ可能性が議論されている。しかし、西部砂漠地方とナイル川流域の関係は今だ明瞭には理解されていない。

アフリカ大陸北東部における牧畜の発生については、ウェンドルフらが紀元前7000年頃にウシの家畜化が独自に始まるとする説を唱えている。ヒツジヤギについては西アジアで家畜化がなされたことがはっきりしている[8]。ヒツジとヤギは紀元前6000年期後半に導入された。

一方、農耕(植物栽培)については現在確認できる最古の例は紀元前5000年頃のファイユームで発見されたであるが、紀元前6000年頃にはソルガムミレットが現在の西部砂漠地方で栽培されていたとする説がある[9]

紀元前6000年から紀元前5000年頃にかけて、アフリカ大陸北東部は徐々に乾燥化していった。このため、1年中水が絶える事のないナイル川流域に向けて人々が移っていった。紀元前5千年紀半ば頃、ナイル川流域では農耕・牧畜を中心とする文化が定着した。この時期の文化として実際に検出されているのは、上エジプト北部西方に発見されているファイユーム文化と下エジプトのデルタ地帯付け根部分から検出されたメリムデ文化、オマリ文化。そして上エジプト初の農耕文化であるバダリ文化。である[10]

ファイユーム文化は現在のファイユーム地方で発見された文化であり、紀元前5230年頃から1000年余りにわたって続いた。剥片石器を中心とする石器を用い、穀物を栽培、ヒツジとヤギを飼育していた。漁労・狩猟も未だ重要であり、ガゼルやカバワニカメなどの動物骨が発見されている。ウシも発見されているが、家畜化されたものであるかどうか不明である。

メリムデ文化カイロ北西45㎞地点にあるメリムデ・ベニ・サラーム遺跡で検出された文化である。この遺跡から検出された石器等の史料はこの地方がシリア地方と交流を持っていた事を示す。小麦、大麦、豆類、亜麻等を栽培し、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタを飼育していたことが知られる。またファイユームと同じく狩猟は重要であり、アンテロープ、ガゼル、カバ、ワニ、鳥類が捕獲されていたほか、多数の魚の骨が発見されている。また死者の頭を東側に向けて埋葬する習慣があったことから、この当時既に死者の埋葬について宗教的な習慣が確立していた可能性もある[11]。メリムデ文化の絶対年代は不明であり、放射性炭素年代測定では紀元前4750年頃から紀元前4250年頃であるが、研究者の中にはこの年代は新しすぎると批判するものもいる[12]

この2つの文化に続いて、オマリ文化がカイロ南方20kmにあるオマリ遺跡で検出されている。これは紀元前4600年から紀元前4400年頃とされる。やはり小麦や大麦などを栽培し、ウシ、ヒツジ、ブタ、ヤギを飼育、野生の植物や動物を捕食していた。石器はフリントを用いた剥片石器が中心であるが、少数ながら石刃技法によるものも認められる。

上エジプトで検出されたバダリ文化は、紀元前4500年頃から紀元前4000年頃とされる。バダリ文化に属する人々は砂漠の縁辺部に集団墓地を形成し、多量の副葬品を添えて死者を手厚く埋葬する習慣を初めてエジプトに導入した人々であった。遺体は基本的に南に頭を置いて埋葬され、土器や装身具、パレットなどと共に埋葬された。既にこの頃から階層分化が見られるという。また、小麦や大麦、亜麻の栽培が確認されており、野生動物の狩猟も行っていた。

マーディ・ブト文化

下エジプトのマーディ遺跡とブト遺跡において、同一の文化の遺跡が発見され、マーディ・ブト文化と命名されている。この文化は恐らくメリムデ文化やファイユーム文化等、エジプト北部の文化をそのまま受け継いだものである[13]。詳細な発掘の結果、農耕・牧畜のみならず製品の加工も行われていたことが明らかになっている。牧畜においてはロバ、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタ、イヌが飼育されていたことが明らかとなっているが、特に重要なのは発見された動物骨の大半が飼育動物のものであることで、未だ狩猟は行われていたもののその重要性は大きく下がっている。ただし漁労は非常に盛んであり多数の魚の骨が発見されている。遺跡において特徴的なのは楕円形をした半地下式の住居で、類似する形態の物がパレスチナ地方からも発見されており、その密接な関係を示している。この文化に属する遺物は下エジプト全域から発見されているが、次第に独自性を喪失しナカダ文化と共通する特徴を備えた文化が普及することが明らかとなっている[14]

ナカダ文化

女性像、前3500–前3400頃。 テラコッタ製, 塗装品, (29.2 × 14 × 5.7 cm). ブルックリン美術館
ナカダ2期の土器

ナカダ文化は19世紀末のペトリーによるナカダ遺跡の発掘調査で検出された文化であり紀元前4千年紀初頭から登場した。この文化からを先王朝時代として扱う場合も多い。エジプト全域からその痕跡が発見されているが、その発祥地はアビュドスからナカダ近辺にいたる上エジプト地方であった[15]。ナカダ文化は、上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられている。この文化が育まれた上エジプトは、ナイル川両岸の極狭い範囲以外は砂漠地帯に囲まれている。ナイル川の増水によって水没する沖積低地は広いところでも幅20km足らずの範囲であった。そして砂漠と沖積低地の間には低地砂漠と言われる河岸段丘が何か所も存在し、この狭い沖積低地と低地砂漠を中心とする範囲がこの文化の人々の基本的な生活圏であった。

ナカダ文化は土器の形態変化等を元に更に細かく時代区分が行われており、ナカダ1期(紀元前4000年頃-紀元前3500年頃)、ナカダ2期(紀元前3500年頃-紀元前3300年頃)、ナカダ3期(紀元前3300年頃-紀元前3150年頃)に大きく分類されている[注釈 3]。ペトリーの分類によるアムラー期がナカダ1期、ゲルゼー期がナカダ2期、そしてエジプト第1王朝成立直前の時期(第0王朝期)がナカダ3期と対応するとされ、セマイネー期については現在では実在が否定されている[17]

現在までに発見されているナカダ文化の遺物の多くは墓地の副葬品であり、その中でも最大の特徴がパレット(化粧板)と呼ばれる遺物が登場することである。このパレットは古代エジプト独特の遺物であり、その発展過程から古代エジプト史の流れを概観することができると考えられている[18]。パレットはシルト岩と呼ばれる石で作成されており、を保護するためにエジプト人が使用していたマラカイトなどの顔料を磨り潰すために使われた。初期のパレットは四角や円形などの単純なものであったが、次第に様々な装飾が加えられた儀礼用のものが作られるようになった。またナカダ文化の土器は後代の土器に比べ、極めて高品質であることが特徴である。これは副葬品として作成された土器が、高貴な人々のためのものであったので品質管理が行き届いていた結果であると考えられる。後の時代には一部の例外を除き土器は単なる日用品に過ぎなくなっていき、ナカダ期に比べて粗雑化していく。

このナカダ文化は次第に南北へと広がっていき、ナカダ3期になると独自のマーディ・ブト文化を保有していた下エジプト地方もナカダ文化が浸透するようになった。これによってエジプトは文化面での統一を迎え、後の統一王朝の形成へと繋がっていく。

大型集落

古代エジプトでは隣接するメソポタミア地方のような政治的に独立した都市、或いは都市国家は形成されなかった。しかし、政治的中枢、或いは経済的中心としての大型集落はナカダ期に発達した。ナカダ期最大の集落遺跡はヒエラコンポリス遺跡である。この都市は3600㎡の規模を持ち、メソポタミアの都市と比較しても充分な規模を持つ人口集住地であった[19]。続いてナカダが2000基以上の墓が発見されている大型の集落である。他アムラーアバディーヤバッラースなどの大型集落が確認されている。

周辺地域との関係

ヌビア

エジプトの南方に位置するヌビア地方では、ナカダ文化と同時期にヌビアAグループ文化と呼ばれる高度な文化が栄えていた。このヌビアで、ナカダ1期の終わり頃に下ヌビア地方を中心にナカダ文化からの搬出品が多量に認められる。主なものとしてスレート製のパレットや装身具、土器があるが、大量の農産物も輸出されたらしい。一方でナカダ期のエジプトがヌビアから輸入したものは現在あまり確認できていない[注釈 4]。ヌビアで確認されているエジプトからの輸出品の量を考えれば、それが当時の経済に影響を及ぼすレベルであったと推測されるが、この物質的な交流の規模に比べエジプト内部に文化的影響を大きく与えていない[20]

パレスチナ

エジプト東方のパレスチナでは紀元前4500年頃からエジプトからの搬入品が出土する。しかし規模は小さくエジプトとの緊密な接触を示す証拠は少ない。パレスチナ南部でエジプトからの影響が大きくなるのは初期王朝時代に入ってからである。一方でエジプト側にはナカダ2期頃からパレスチナからの搬入品とその模倣品が多数出土するようになる。ナカダ文化に最も多大な影響を与えたのは、パレスチナで製作されていた波状把手付土器である[21]。輸入品の数をは限られるが、その模倣品である波状把手土器がナイル川下流域で作成されるようになり、初期王朝時代まで続く重要な容器の形となった。アビュドスやヒエラコンポリスからは、中にワインが入れられていたと推定されるパレスチナ土器が、多量に発見されている。これらが当時の王国の首都と考えられる大型の集落跡から見つかっている点は重要である。

メソポタミア

メソポタミアはエジプトに先行して農耕と牧畜が始まった土地であり、ナカダ期には発達した都市国家が栄えていた。古くよりエジプトにおける初期の国家形成に影響を強く与えたと考えられてきたのがこのメソポタミア地方である。ナカダ期のメソポタミアとエジプトの関係を示す史料はメソポタミア側からは希薄な一方、エジプト側では多数発見されている。特にナカダ2期以降、その量は飛躍的に増大する。主に土器、印象ラピスラズリ、図像のモチーフなどである。ただし、このうち確実にメソポタミアからもたらされたと確認できるものはラピスラズリのみである。印象はメソポタミアで使用された円筒印章等があるが、影響を受けている事は確実であるもののその多くはエジプトで作成された模造品とみられている。この点は土器についても同様である。しかし、図像モチーフ等は王権観にも影響を与えるなどしたことが確認されており、メソポタミアがエジプトに与えたインパクトは大きなものであったことは間違いない。

統一王朝の成立過程

先述した通り、古代エジプトの歴史記録において最初の王はメニであった。しかし考古学的に最初に確認されている王は2017年現在ではナルメルである。一般に彼の存在が確認される紀元前3100年頃からをエジプト初期王朝時代とする。しかし、そこに至る過程、つまりエジプトにどのような原始国家が形成され、統合されていったのかという問題は現在も不明な所が多い。

W.カイザーの研究(1956年)ではナカダ文化が南北に拡張していく過程の編年を精緻に調べ、それを政治的な統合過程に近いものと見なした[22]。しかし、このナカダ文化の拡張過程は、主に墓地の分析で確認されており、それをそのまま政治的集団の拡張過程と見なせるかどうかは明らかでない。下エジプトではマーディ・ブト文化がナカダ文化の強い影響を受け、最終的には同化していく過程が明らかになっている。これは同じくナカダ文化の中心地と隣接し、緊密な交易関係を持っていた下ヌビア(Aグループ)地方が、文化的には独自性を維持していたのとは好対照をなす。

B.J.ケンプ(1989年)は、統一王朝の成立過程を3段階に分ける仮説を立てた。第1段階としてナイル川下流域に多数の群小政体が誕生する。第2段階として上エジプトにアビュドス(ティス)、ナカダ、ヒエラコンポリスを中心とする3つの王国が成立する。第3段階としてヒエラコンポリスがこの3つの王国を統合した上エジプトの王国を作り、この国が下エジプトを征服して統一王朝が成立するというものである。この説は、ナルメルのパレットなどから推測されてきた統一王朝の成立過程や、王朝時代の伝説も念頭に置いている[23]

T.A.H.ウィルキンソン(2000年)はナカダ1期後期にアビュドス(ティス)、アバディーヤ、ナカダ、ゲべレイン、ヒエラコンポリスの5か所を中心とする政体が存在し、ナカダ2期前期にアバディーヤが脱落し、ナカダ3期にはナカダとゲベレインの政体も力を失ってアビュドスとヒエラコンポリスが二大勢力となる。ナカダ3期後期にはアビュドスの王ナルメルが2つの政体を統合し、初の統一王朝を築くという仮説を立てた[24]

しかし、いずれの仮説にせよ、先王朝時代には基本的に文献史料が存在しないため、実際にそれを証明することは極めて困難である。一般的には上エジプト地域を中心として政治連合が生まれ、その拡大によって全エジプトが統合されていくという所までがある程度広い支持を得ている[25]

上下エジプト王冠。赤い王冠が下エジプト、白い王冠が上エジプトの王冠であり、合わせて上下エジプト両国の王権を表す。

王権の成立

ナカダ期までの王権、あるいは政体がどのようなものであったかを明らかにすることは困難である。確認されている限り、王権と関連する最古の図像はナカダ遺跡から発見された紀元前3500年頃の土器片に彫られた赤色王冠のレリーフである。この赤色王冠は王朝時代には下エジプトの王冠と見なされたものであり、上エジプトの王冠である白色王冠と対を為すものである。上エジプトにあるナカダ遺跡からこの赤色王冠の図像が発見され、しかもそれが先王朝時代のものであることは、「下エジプト王冠である赤色王冠」の形態が下エジプト固有のものではなく上エジプトで考案されたものである可能性を示すものであり、統一王朝成立過程を考慮する際に重要な情報を提供している[26]

ナカダ2期に入ると王権と関連すると考えられる図像資料は飛躍的に増加する。ヒエラコンポリス100号墓で発見された壁画では、縛られた男達とそれを打ち据える男と思われる原始的な絵が見つかっている。王が捕縛された捕虜を打ち据えるモチーフは、初期王朝時代からプトレマイオス朝時代まで継続的に使用されたものである[27]

また、ゲベル・アル=アラクで発見された象牙製のナイフ柄にはメソポタミア風の衣装を纏い両手でライオンを押さえる人物が明瞭に描かれている。これはその顎鬚をはやし、独特の防止を被る図像からメソポタミアの神話的英雄ギルガメシュの姿を描いたものと言われる[26]。こうした表現の図像はヒエラコンポリス100号墓からも発見されており、エジプトの王権概念の成立にメソポタミアからの影響がある証拠とみられている。

先王朝時代の王

先王朝時代の調査は今まで記述した通り、文献史料の不存在により専ら考古学の成果に依って分析されている。しかしナカダ3期に入ると文字、またはその前身となる絵文字が登場し、これを用いて王名がわかる人物が登場するようになる。

先王朝時代の王名は、王宮の正面の図像を現したと考えられるセレクと呼ばれる枠の中に記載された。こうした王名は土器に刻まれていたり、土器表面にインクで書かれたりした他、岸壁に刻まれる例もあった。これらの王名を分析することで支配地の変遷を明らかにしようとする試みもある。これらセレクに記載された王名は上エジプト北部から多く発見されている。第1王朝の初代王と考えられるナルメルのエジプト全土及び南部パレスチナからその王名を記した土器が発見されており、統一王朝の王であったことはほぼ確実である。それ以前の王については、直接支配領域の推測は困難であるが、ナカダ3期までは複数の王がいたことが確認されている。第1王朝の成立までエジプトの政治的統合は完成していなかった可能性が高い[28]

統一王朝

ナルメルのパレット

統一王朝(第1王朝)の出現をどの時点に置くかについて、現在でも定説は存在しない。多くの場合は統一王朝を支配した確実性が高いナルメルの即位を採用する場合が多い。しかし第1王朝登場前後の史料は乏しく、またエジプト古王国時代に作成された『カイロ年代記』には、第1王朝以前の王達が上下エジプト王冠[注釈 5]を戴く姿で描かれており、これを根拠に王朝統一を第1王朝以前と考える学者も存在する[29]。アビュドスの発掘調査では第1王朝よりも古い時期の王墓が発見されており、第1王朝以前の王朝という事で原王朝または第0王朝と呼ぶ場合がある[30]

また、ヒエラコンポリスからはスコルピオンのメイスヘッドと呼ばれる遺物が発見されており、そこには白色王冠のみを被った王の姿が描かれている。このことからメイスヘッドに描かれた王(サソリ王)は上エジプトの王であったとみられるが、メイスヘッドは一部欠損しており、欠けた部分に赤色王冠を被った王の姿が描かれていたとするならば、統一王朝の王という事になる[31]

しかし、第1王朝の遺物からは、第1王朝の王達がナルメルを初代と認識していたことを示す印影が見つかっており、一般的にはナルメルをして第1王朝、ひいてはエジプトの統一王朝国家の始まりと置く場合が多い。

脚注

注釈

  1. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
  2. ^ 後世、第31王朝が追加されたと推定される。[2]
  3. ^ ナカダ期の絶対年代は未だ未確定である。ここでは古谷野 1998に依った。[16]
  4. ^ 後の王朝時代にはエジプト人達は紫水晶象牙閃緑岩ダチョウの卵、ヒョウの毛皮、黒檀等をヌビアから輸入していた。
  5. ^ 古代エジプト人は、三角州が広がる下エジプト地方と、ナイル川両岸の狭い沖積低地を中心とする上エジプトを異なる国土と考えていた。白色王冠と赤色王冠を合わせた上下エジプト王冠は、統一王朝の王を象徴する王冠であった。

出典

  1. ^ 大城 2009, p.64
  2. ^ a b フィネガン 1983, p.212
  3. ^ 後世、第31王朝が追加されたと推定される。
  4. ^ 高宮 2003, p.5
  5. ^ フィネガン 1983, p.212
  6. ^ 高宮 2003, p.26
  7. ^ 高宮 2003, p.21
  8. ^ 高宮 2003, p.36
  9. ^ 高宮 2003, p.37
  10. ^ 高宮 2003, p.39, p.57
  11. ^ 大城 2009, p.19
  12. ^ 高宮 2003, p.51
  13. ^ 大城 2009, p.24
  14. ^ 高宮 2003, p.72
  15. ^ 高宮 2003, p.78
  16. ^ 古谷野 1998 p.5
  17. ^ 大城 2009, p.25
  18. ^ 大城 2009, p.29
  19. ^ 高宮 2003, p.98
  20. ^ 高宮 2003, p.154
  21. ^ 高宮 2003, p.155
  22. ^ 高宮 2003, p.202
  23. ^ 高宮 2003, p.208
  24. ^ 高宮 2003, p.210
  25. ^ 近藤 2003, p.220
  26. ^ a b 近藤 2003, p.216
  27. ^ 近藤 2003, p.218
  28. ^ 高宮 2003, p.218
  29. ^ 高宮 2003, p.244
  30. ^ 近藤 2003, p.222
  31. ^ クレイトン 1999, p.23

参考文献

原典資料

  • ヘロドトス歴史 上』松平千秋訳、岩波書店岩波文庫〉、1971年12月。ISBN 978-4-00-334051-6 

二次資料