武藤武雄
武藤 武雄 むとう たけお | |
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生年月日 | 1916年3月20日 |
出生地 | 茨城県那珂郡山方村(現・常陸大宮市) |
没年月日 | 1978年10月20日(62歳没) |
出身校 | 茨城県小貫農業公民学校 |
所属政党 |
(右派社会党→) (日本社会党→) 民社党 |
選挙区 | 旧福島3区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1958年5月22日 - 1960年10月24日 |
武藤 武雄(むとう たけお、1916年(大正5年)3月20日[1] - 1978年(昭和53年)10月20日[1][2])は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員、初代日本労働組合総評議会(総評)議長。
経歴
[編集]茨城県[2]那珂郡山片村(山方町[1]を経て現常陸大宮市)出身。1930年(昭和5年)茨城県小貫農業公民学校を卒業した[1][2]。
入山炭鉱(のち常磐炭鉱)に入社し坑内夫として勤務[1][3]。労働運動に加わり、常磐炭鉱労働組合長となり[2]、1946年(昭和21年)常磐地方炭鉱労働組合連合会の初代組合長に就任[1]。1947年(昭和22年)炭労(のちの日本炭鉱労働組合)中央執行委員長となり、1950年(昭和25年)総評が結成されると初代議長に就任した[1][2][3]。1952年(昭和27年)の炭労の労働ストでの対応を巡り、炭労臨時大会で不信任となり委員長を解任され、総評議長も退任した[1][3]。その後、出身の常磐炭鉱労組は炭労を離脱して全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)に加わった[1]。この間、福島県岩城郡湯本町会議員、福島県地方労働委員なども務めた[2]。
1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙で茨城県第2区から右派社会党公認を受けて、常磐炭鉱茨城鉱業所の支援で立候補したが落選し[3][4]、次の第27回総選挙でも落選した[5]。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は福島県第3区に転じて日本社会党公認で、常磐炭鉱労使の支援を受け出馬して当選し[1][3][6]、衆議院議員に1期在任した[2]。1960年(昭和35年)民主社会党(民社党)の結党に参画した[3]。この間、福島県暮しの研究会理事長、社会クラブ国会対策副委員長、民主社会党国会対策副委員長、同党中央執行委員、同総務局長、常磐湯本温泉観光専務などを務めた[2][3]。1960年11月の第29回総選挙では民主社会党公認で立候補したが次点で落選した[6]。
その後、東京に拠点を移し[3]、東京都第9区から第31回(1967年1月)、第32回総選挙(1969年12月)に連続して立候補したが落選した[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
- 田畑金光「武藤武雄君を偲ぶ:義理固きに徹した人」『革新』101、民社党本部教宣局、1978年12月。