楠山義太郎
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楠山 義太郎(くすやま よしたろう、1897年(明治30年)6月28日[1] – 1990年(平成2年)1月7日[2][3])は、大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]和歌山県[2][3]日高郡由良村(現由良町)で楠山四郎右衛門の二男として生まれた[4]。1920年(大正9年)早稲田大学政治経済学科を卒業[2][3][4]。同年9月、大阪毎日新聞社に入社[4]。1921年(大正10年)コロンビア大学に留学し[4]、さらにバージニア大学で学んだ[2]。
ロンドン特派員となり[2][3]、1932年(昭和7年)リットン調査団報告書をスクープした[3]。神戸支局長を経て、東京日日新聞外国通信部長に転じて第二次世界大戦下のヨーロッパを視察した[4]。欧米部長、副主筆を経て、戦時中は日本タイムス社長、上海タイムス社長を務めた[2][4]。
戦後、毎日新聞に編集局長として復帰し、1946年(昭和21年)取締役兼英文毎日主筆に就任[2][4]。1947年(昭和22年)東京本社渉外局長を兼務し、大阪本社編集主幹兼英文毎日主筆となる[2][4]。以後、東京日日新聞社長[3]、毎日新聞社相談役を務め、1951年(昭和26年)に退社し[3]、同社客員となる[2]。
1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で和歌山県第2区から改進党公認で出馬して当選し[5]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。その後、第26回、第27回総選挙に立候補したがいずれも落選した[5]。
その他、早稲田大学講師、日本放送協会経営委員会委員を務めた[2]。1990年1月、心不全のため死去した[3]。
著作
[編集]- 『在支欧米人の時局観』〈新支那事情普及叢書 第4輯〉東亜同文会、1939年。
- 『インドの聖雄:ガンジー翁傳記』トナミ書房、1948年。
脚註
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第19版 東京篇』帝国秘密探偵社、1956年。
- 『現代物故者事典 1988~1990』日外アソシエーツ株式会社、1993年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。