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抜刀隊

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抜刀隊

抜刀隊(ばっとうたい)は、1877年明治10年)に起きた西南戦争田原坂の戦いの際に、明治新政府側で警視隊の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊

編成

田原坂の戦いにおいて、西郷軍による抜刀斬り込み攻撃により、政府軍(帝国陸軍)では死傷者が続出した。数に勝る政府軍において将兵の大多数を占める中核的存在たる「」は、主に徴兵令によって徴兵された農民町人出身者で構成されており[1]武士出身者(士族)による少数精鋭の西郷軍との白兵戦には対応できなかったためである。

こうした状況下による事態を打開すべく、武士出身者が多かった警視隊[2]の幹部川畑種長上田良実園田安賢永谷常修らが、征討参軍山縣有朋に対し、剣術に秀でた者を選抜した部隊の投入を進言した。山縣はこれを許し、百余名を以て抜刀隊が組織された。

小説ドラマ等では、賊軍の汚名を払拭しようとする旧会津藩士や、元新選組隊士の斎藤一ら、旧幕府出身者を抜刀隊員として描くことが多い[3]が、それらの全員が選抜されたわけではなく、実際には薩摩藩郷士(外城士)出身者が主力を形成していた[4]。元会津藩家老佐川官兵衛も抜刀隊に所属していたとよく誤解されているが、佐川は豊後口第二号警視隊に所属しており、抜刀隊編成以前に戦死している。

もっとも、山川浩(元会津藩家老)や立見尚文(元桑名藩士)など旧幕府出身の将校や兵士たちの中には、西南戦争を「戊辰戦争の復讐」と考えていた者がいたことは事実である。山川は出征の際、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」と詠んでいる。また、当時陸軍生徒であった会津藩出身の柴五郎(後の陸軍大将)は、西南戦争での西郷隆盛の自決と、その翌年の紀尾井坂の変による大久保利通の暗殺を合わせ、「両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」と書き記している。

戦果

3月13日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げ、田原坂攻略の要となった。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した隊も少なくなかった。

旧幕府出身の抜刀隊士が、賊軍の汚名を着せられた雪辱を果たすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んで行ったといわれている。これは、当時郵便報知新聞記者であった犬養毅(後の内閣総理大臣)によって報道された。

『戦地直報』第二回

十四日、田原坂の役、我進んで賊の堡(とりで)に迫り、殆ど之を抜かんとするに当り、残兵十三人固守して退かず、其時故(もと)会津藩某(巡査隊の中)身を挺して奮闘し、直に賊十三人を斬る。其闘ふ時大声呼(よばわ)って曰く、戊辰の復讐、戊辰の復讐と。是は少々小説家言の様なれども、決して虚説に非ず。此会人は少々手負いしと言う[5]

ただしこの内容は公式記録に無く、記述した犬養毅自身も直接現場を見てはおらず、伝聞情報に基づいて記述したものであり、信憑性は疑わしいとされる。

その後

剣術の復興

抜刀隊の活躍によって、幕府崩壊後廃れていた剣術日本刀の価値が見直された。大警視川路利良は『撃剣再興論』を著し、警察での剣術の実施を表明した[6]1879年(明治12年)、警視庁に撃剣世話掛(剣術の師範)として梶川義正上田馬之助逸見宗助が最初に登用され[7]、翌年以降も、真貝忠篤下江秀太郎得能関四郎三橋鑑一郎坂部大作柴田衛守など剣客が続々と採用された。

これらの剣客によって「警視庁流撃剣形・居合形」が制定され、向ヶ丘弥生社で全国的規模の撃剣大会が開かれるなど、警視庁は明治期剣道界のメッカとなり[8]、現在まで続く警察剣道[9]の趨勢が決定付けられた。

1883年(明治16年)5月24日には、二等巡査以下の下級警察官にも帯剣が許された(それまでは一等巡査(現在の警部補に相当)以上の警察官しか帯剣できなかった)。

軍歌・行進曲

1885年(明治18年)に、抜刀隊の活躍を讃えた軍歌抜刀隊』が発表された。さらにこの『抜刀隊』をベースとして、また軍歌『扶桑歌』の旋律を組み合わせて、1886年(明治19年)に『陸軍分列行進曲』が作曲され、大日本帝国陸軍の公式行進曲として採用された。

現在も陸上自衛隊日本警察の公式行進曲として受け継がれており[10]近代日本を代表する軍歌・行進曲として、広く愛唱・演奏されている。

脚注

  1. ^ 将校下士官は士族が多数を占めるが、あくまで兵を統率する指揮官であり、また人員数も少ない。
  2. ^ 西郷軍に、「赤い帽子(近衛兵)に銀筋(警察官)なくば、花の江戸へおどり込む」とうたわれた精強な部隊であった。
  3. ^ NHKの歴史番組『堂々日本史』でも、抜刀隊には会津出身者が多く、恨みを晴らすために参戦したと解説された。
  4. ^ 小川原正道、2007、『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』、中央公論新社〈中公新書〉 ISBN 978-4-12-101927-1 ASIN 412101927X pp. P.119
  5. ^ 橋本昌樹、1972、『田原坂 西南役連作』、中央公論新社 ASIN B000J9AAPCの中で、犬養の記事を「『戊辰の復讐』の声がはっきりと記録されたのは、これが最初であろう。以後、その声は各所にあがり、各地で記録されている。後に新撰旅団を編成するため巡査を召募した時に至っては、その応募者の大多数が、戊辰の復讐のためというのが動機であったという」と評している。
  6. ^ 『警視庁武道九十年史』、警視庁警務部教養課 16-17ページ。
  7. ^ 赳太郎と善三郎”. 無外流兵法譚. 2011年11月11日閲覧。
  8. ^ 庄子宗光『剣道百年』、時事通信社 21ページ「当時、全国剣道界の大殿堂のような観を呈し、いやしくも剣道家になろうと志す者は、必ず警視庁に来て修行を積む有様であった。後年、剣道家として名を成した高野佐三郎内藤高治川崎善三郎高橋赳太郎門奈正らの名剣客は、いずれも青年時代を警視庁で送り、幕末の名剣客の指導を受けてその基礎を築き上げたのであった」。
  9. ^ 現在も各都道府県警察で剣道が盛んに稽古されており、毎年の全日本剣道選手権大会の出場者の大多数を警察官が占めている。
  10. ^ 陸上自衛隊音楽隊警察音楽隊によって演奏されている。

参考文献

  • 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会
  • 『警視庁武道九十年史』、警視庁警務部教養課
  • 『警視庁百年の歩み』、警視庁創立100年記念行事運営委員会
  • 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』、光文社

関連項目