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佐川官兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐川官兵衛 / 佐川直清
(中央)佐川官兵衛
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代初期
生誕 天保2年9月5日1831年10月10日
死没 1877年明治10年)3月18日 (45歳没)
別名 勝(字)、直清(諱)
鬼の官兵衛、鬼佐川(渾名)
墓所 大分縣護國神社
長福寺(福島県喜多方市
幕府 江戸幕府
主君 松平容保
会津藩
氏族 佐川氏
父母 父:佐川直道
兄弟 官兵衛、又四郎、ほか
前妻:町野主水の姉
後妻:町野伊佐衛門の娘
直諒
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佐川 官兵衛(さがわ かんべえ)は、幕末会津藩士。明治時代の警察官は勝、直清[1]戊辰戦争では賊軍とされた会津藩の家老であったが、西南戦争では政府軍として戦い戦死したことから靖国神社に合祀されている。このような事例は佐川官兵衛ただ一人であるとされている[2]

生涯

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幕末

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会津藩士・佐川直道(家禄は300)の子として生まれた。文久2年(1862年)には藩主・松平容保に従って上洛し、物頭を務めたのち学校奉行に任じられた[3]。また、精鋭の藩士で構成された「別撰組」を率い、藩主の外出時などにはその護衛を行っている[3]

王政復古の大号令後、京都守護職を解かれて大坂城に退去した会津藩において、官兵衛は主戦派の先頭となり、非戦派の神保修理山本覚馬らと対立している[3]

慶応4年(1868年1月鳥羽・伏見の戦いの際には官兵衛は伏見薩摩藩兵と激突し、大砲隊を指揮する林権助と協力しつつ奮戦。右目を銃弾で負傷しながらも刀を折るほどの凄まじい戦いぶりを見せた。この官兵衛の獅子奮迅の姿から、敵兵によって「鬼佐川」「鬼官兵衛」と呼ばれたといわれる[3]。またこの時、退却する際に官兵衛は唐傘を差して顔を隠した。 味方が「標的になる」とやめさせようとすると「こんな負け戦をして、みっともなくて顔をさらせるか」と答えたという[3]

その後は会津に戻って越後戦線へ出陣したが、戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還している[3]。8月1日に軍事奉行に任ぜられ、400石に加増されて若年寄に任じられるが、次いで8月11日に1,000石に加増されて家老に就任している[3]会津戦争では8月29日未明に精鋭約1,000人を率いて城外出撃の指揮官を任じられたが、出陣前夜に藩主の容保から賜った酒を飲みすぎて酔ってしまい、早暁に出撃が遅れて敗北を喫した(長命寺の戦い)[3]。以後は若松城には戻らず、野外で遊撃戦を続ける。9月5日の材木町(住吉河原)の戦いでは少数の兵で新政府軍を破り、鹵獲した武器弾薬を若松城へ送り、城への糧道を確保した[3]

会津藩降伏後も官兵衛は抗戦を続けて大内宿方面で戦っていたが、容保の命令でようやく停戦している。この後、家老の萱野権兵衛が全責任をとって切腹しているが、その際、官兵衛は自分に腹を切らせてほしいと懇願している[3]

戊辰戦争後は藩主や家老、若年寄とともに東京謹慎した。

明治

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旧会津藩が斗南藩として再興されると、官兵衛は青森県三戸郡五戸町へ移住し老母とともに極貧生活を送った[3]廃藩置県後は川路利良より警視庁に出仕するように懇請されるが、最初は出仕を断っていた。しかし、自分の出仕が困窮にあえぐ他の会津士族300人の奉職につながると知って承諾、一等大警部に任命された[3]

1877年明治10年)の西南戦争では警視庁から東京警視隊9,500人が別働第三旅団として派遣されることになり[3]、官兵衛も巡査200人を率いて豊後口第一号警視隊一番小隊長[4]として従軍している。

大分県竹田市から坂梨へ向かう途中、熊本県阿蘇郡の二重峠にすでに薩摩軍の有力部隊が進出している情報をつかむと、上官の檜垣直枝に即時攻撃を進言するがいれられなかった。数日を経てようやく官兵衛の出撃策が認められるが、しかしすでに敵は堅牢な陣地を築いた後であった[3]

3月18日未明、二重峠の戦いにおいて抜刀した佐川隊が薩摩軍陣地に斬り込むと壮絶な白兵戦が展開された。そこで官兵衛は薩摩軍の隊長・鎌田雄一郎と斬り結ぶ。薩摩といえば示現流で知られているが、官兵衛の学んだ溝口派一刀流にはそれをかわす秘太刀があったともいわれる。官兵衛は鎌田の示現流をかわして追い詰めるが、横合いから銃撃を胸に受け戦死した。享年47[3]。墓は大分縣護國神社福島県喜多方市の長福寺にある。

官兵衛の戦死の報に川路利良は、「豊後口の総督は佐川氏にすべきであった。わが不明のために、あたら勇将を死なせてしまった」と痛嘆したという[3]

人物

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  • 性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。武勇に秀で、薩長から「の官兵衛」、「鬼佐川」、「鬼官兵衛」と恐れられた[3]
  • 西南戦争で進駐した南阿蘇では官軍の略奪行為を厳しく戒め、地元民に慕われたという。南阿蘇には十数カ所の佐川官兵衛慰霊碑が存在する[5]
  • 最後の戦いでの進発の朝、真新しい肌着に身を包み、明神ヶ池の水を飲んだあと官兵衛が詠んだといわれる辞世「君がため 都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる」が残されている[3]
  • 戊辰戦争に際して賊軍側に立った指揮官でありながらも小隊長として西南戦争では官軍側で戦い戦死したことから靖国神社に合祀されており、このような事例は官兵衛ただ一人であるとされている[6]

家族

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脚注

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  1. 『近世名将言行録. 第1巻』(吉川弘文館、1934年)173頁
  2. 田中悟「佐川官兵衛の靖国神社合祀について」(佐川官兵衛顕彰会報、2005.8)
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 WEB歴史街道 佐川官兵衛~薩長を震え上がらせた会津の「鬼佐川」 2025年11月28日閲覧
  4. 旧別働第三旅団参謀部編『西南戦闘日注』 (明治17年)344コマに記載
  5. ふるさと寺子屋No.45「鬼官兵衛」 - 熊本県観光サイトなごみ紀行
  6. 田中悟「佐川官兵衛の靖国神社合祀について」(佐川官兵衛顕彰会報、2005.8)

参考文献

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  • 会津史談会『会津戦争のすべて』新人物往来社、1980年

関連作品

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小説
テレビドラマ

関連項目

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