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堀池洋充

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀池 洋充
名前
カタカナ ホリイケ ヒロミツ
ラテン文字 HORIIKE Hiromitsu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1971-05-24) 1971年5月24日(53歳)
出身地 静岡県
身長 175cm
体重 67kg
選手情報
ポジション GK
ユース
1987-1989 日本の旗 清水東高校
1990-1993 日本の旗 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-2000 日本の旗 東京ガス/FC東京 138 (0)
通算 138 (0)
代表歴
1992  日本U-23
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

堀池 洋充(ほりいけ ひろみつ、1971年5月24日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはゴールキーパー(GK)

来歴

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清水東高校3年次には同期の相馬直樹と共に、全国高校選手権へ出場。優勝候補の一角と目されたが3回戦で武南高校に敗れた。1学年後輩には野々村芳和がおり、慶應大でも共にプレーした。

1990年慶應義塾大学に進学し、同大学のソッカー部に入部[注 1]。1年時から同部の正GKに入り、在学中の4年連続でリーグ戦のベストイレブンに選出された[1]。なお、高校同期の相馬は早稲田大学に進学し、同大学のア式蹴球部に入部したため、早慶戦と呼ばれる両大学の対戦は堀池対相馬の同期生対決ともなった。身長175cmとGKとしては小柄ながら、1992年にはバルセロナオリンピックのアジア最終予選メンバーに選出され[1][2]下川健一とポジションを争った。大学4年次の1993年Jリーグが開幕し、堀池もJリーグクラブ入りを視野に入れていたが「能力以前に身長で断られ(堀池談)」[2]プロ入りは果たせなかった。

1994年、大学の先輩で、1990年-91年にOBとしてソッカー部のコーチを務めていた鈴木徳彦から勧誘され[2]東京ガスの社員として就職し、アマチュア契約の社員選手としてジャパンフットボールリーグ(旧JFL)の東京ガスサッカー部に入部[注 2]。前年の正GK加藤竜二が退団したこともあって、1年目から公式戦全試合に出場して正GKの座を掴み、以後、抜群の身体能力を活かして[1]旧JFLを戦うチームを後方から支えた[3]1997年には第77回天皇杯で好セーブを連発し、名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)のJリーグ勢3チームを次々と撃破してのベスト4入りの立役者となった。1998年には旧JFLで初優勝を飾り、JFL年間表彰でベストGK賞に選出された[1]

1999年、クラブはFC東京へ名称を変え、プロクラブ化してJリーグディビジョン2(J2)に参加したが、堀池は社員選手のままで在籍を続けた[4]。同年7月4日の対コンサドーレ札幌戦では、相手選手と激突して右肩を脱臼し、負傷退場[5]。堀池の離脱中は鈴木敬之がGKを務め[4]、チームはJリーグ ディビジョン1(J1)昇格を果たした。

2000年、新加入のGK土肥洋一が活躍を続ける中、堀池は肩の故障の影響が残り、控えにとどまっていた。7月8日の川崎フロンターレ[注 3] で後半41分から途中出場し、この試合が復帰戦となったが[3]、以後、リーグ戦の出場は無く、この試合が唯一のJ1出場となった。土肥の負傷もあって、リーグ戦終了後の第80回天皇杯に出場したが[6]ヴァンフォーレ甲府に敗れ、この試合を最後に契約非継続により退団[7]。「社業に専念」という形で現役を引退した。後に母校の慶應義塾大学ソッカー部[注 1]コーチを務めている。

2008年5月11日、東京ガスサッカー部からFC東京にかけてのチームメートであるFWアマラオの有志での引退試合「アマラオファイナルマッチ」に参加。堀池は東京ガスOBを中心とする「TOKYO LEGENDS」の一員として出場しアマラオと対決することになったが、引退試合らしからぬ鉄壁セーブで[8][9] 試合の主役であるアマラオを無得点に抑えてしまった[注 4]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1994 東京ガス 1 旧JFL 30 0 - 3 0 33 0
1995 27 0 - 1 0 28 0
1996 26 0 - 1 0 27 0
1997 8 0 - 6 0 14 0
1998 30 0 - 3 0 33 0
1999 FC東京 J2 16 0 4 0 0 0 20 0
2000 J1 1 0 0 0 1 0 2 0
通算 日本 J1 1 0 0 0 1 0 2 0
日本 J2 16 0 4 0 0 0 20 0
日本 旧JFL 121 0 - 14 0 135 0
総通算 138 0 4 0 15 0 157 0

代表・選抜歴

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個人タイトル

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指導歴

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脚注

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注釈
  1. ^ a b 同大学では他大学での「サッカー部」を「ソッカー部」と表記する。
  2. ^ バルセロナ五輪予選代表選手28名の中で、卒業後にアマチュアの社員選手となった堀池の選択は希有で、1999年のJリーグ2部制導入時のJリーグ入りは旧JFLの福島FCなどでプレーした仲村浩二を除くと最も遅い。
  3. ^ FC東京と川崎フロンターレの対戦は後に多摩川クラシコと称されるようになり、この試合は第6回とカウントされた。
  4. ^ アマラオは後半からはTOKYO LEGENDSに入ったため、対決は前半だけとなった[9]
出典
  1. ^ a b c d e TEAM INFO 堀池 洋充 (1999年版)”. 2000年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月26日閲覧。 - FC東京
  2. ^ a b c 荒川裕治『FC東京の挑戦』小学館、2001年、71-72頁。 
  3. ^ a b c 試合記録 Jリーグ ディビジョン1 セカンドステージ第3節 国立競技場 (Away) FC東京 (2000年7月8日)
  4. ^ a b 荒川裕治『FC東京の挑戦』小学館、2001年、40頁。 
  5. ^ 試合記録 厚別競技場 (Jリーグ ディビジョン2) FC東京 (1999年7月4日)
  6. ^ 試合記録 天皇杯 3回戦 西が丘サッカー場 (天皇杯) FC東京 (2000年12月10日)
  7. ^ 来季契約非継続選手について”. 2012年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月7日閲覧。 FC東京 (2000年12月1日)
  8. ^ アマラオ感謝弾 引退試合に1万5591人”. 2008年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月16日閲覧。東京中日スポーツ (2008年5月12日)
  9. ^ a b 串田杢弥『KING OF TOKYO アマラオ』ゴマブックス、2008年、143頁。 

関連項目

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外部リンク

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