利根 (重巡洋艦)

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艦歴
発注 昭和九年度(マル2計画
起工 1934年12月1日
進水 1937年11月21日
就役 1938年11月20日
その後 1945年7月28日艦載機の攻撃で大破着底、戦後解体
除籍 1945年11月20日
性能諸元
排水量 基準:11,213t 公試:13,320t
全長 201.6m
全幅 19.4m
吃水 6.23m (公試)
機関 ロ号艦本式缶8基
艦本式タービン4基4軸
152,189馬力 (公試成績)
最大速 35.55kt (公試成績)
航続距離 18ktで9,240(公試成績)
燃料 2,700t(実測値)
兵員 874名
兵装
(竣工時)
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm連装機銃6基12挺
13mm連装機銃2基4挺
61cm3連装魚雷発射管4基12門
兵装
(1945年)
20.3cm連装砲4基8門
40口径12.7cm連装高角砲4基8門
25mm三連装機銃14基42挺
25mm連装機銃2基4挺
25mm単装機銃21挺
(機銃は推定)
61cm3連装魚雷発射管4基12門
装甲 舷側:145mm 甲板:35mm
航空機 水上機6機 (カタパルト2基)

利根(とね)は、日本海軍重巡洋艦で、利根型重巡洋艦の1番艦。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。

概要

重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである。 後に再設計により重巡洋艦(書類上は二等巡洋艦)となるが艦名はそのまま使用された。

20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦であり、日本海軍が建造した最後の重巡洋艦であった。

最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として昭和9年に起工した。しかし友鶴事件第四艦隊事件の教訓によって計画を変更した。なお、20cm砲4基をすべて前甲板に配置する特殊な配置は、偵察装備を充実させる他に大和型戦艦の主砲を前甲板に集中する案のテストの意味も含まれていたと言われている。

艦歴

三菱重工業長崎造船所にて建造され、竣工後は僚艦筑摩と共に第八戦隊を編成し第二艦隊に所属していたが、偵察能力を買われ第一航空艦隊に編入された。搭載する偵察機は、空母の攻撃隊に先立って目的地を偵察する役割があった。

1941年12月7日の真珠湾攻撃では、利根と筑摩の搭載機が第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し気象や湾内の状況を報告した。その後、日本への帰還途中にウェーク島攻略作戦に参加、搭載機が偵察を行った。

1942年1月ラバウルニューギニア攻撃を支援。2月ポート・ダーウィン空襲、ジャワ侵攻を支援。

1942年4月セイロン沖海戦に参加。搭載機がイギリスの重巡洋艦ドーセットシャーコンウォールを発見、この2隻は空母艦載機の攻撃により沈没した。

1942年6月ミッドウェー海戦に参加。この時はカタパルトが故障し偵察機の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとされていたが、後の研究で、発進が遅れたからこそ米艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている。ミッドウェー海戦後アリューシャン作戦を支援。

その後ソロモン諸島方面で第二次ソロモン海戦南太平洋海戦に参加。

1943年はトラックを基地としてマーシャル諸島カロリン諸島で活動した。

1944年3月9日に英商船「ビハール」を砲撃により撃沈する。

1944年6月マリアナ沖海戦に参加、10月には捷一号作戦に参加。10月22日ブルネイを出港。24日シブヤン海海戦で空襲により命中弾を受ける。翌日サマール沖海戦に参加し、408発の主砲弾を発射。うち7発を敵艦に命中させた。

レイテ沖海戦後、舞鶴に帰還して損傷箇所の修理と機銃の増設を行い、呉に回航。1945年3月19日、海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中米第58任務部隊による空襲を受けて損傷。海軍兵学校と江田島湾を挟んでちょうど対岸にあたる能美島の海岸付近に移動。7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け損傷(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により爆弾6発を受ける。対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努めたが、その甲斐も無く翌日になって大破着底し、終戦を迎えた。

戦後まもなく調査と引き上げが行われ、鉄不足解消のために1948年までにスクラップとなった。

現在、能美島江田島湾)の利根の着底した場所付近には、慰霊碑が建てられている。また、慰霊碑に隣接して、「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。

兵装変遷

利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意されたい。

  • 1943年(昭和18年)2月 後部予備指揮所両側に25mm連装機銃各1基増備、21号電探装備(前檣)
  • 同年12月ころ 25mm連装機銃4基を同3連装機銃に交換。その他に13mm機銃4挺があったとされる。
  • 1944年(昭和19年)6月以降、マリアナ沖海戦の戦訓により機銃の大幅な増備。25mm3連装機銃4基、同単装25挺を増備。また22号2基(前檣)、13号1基(後檣)を装備する。
  • 1945年(昭和20年)2月 レイテ沖海戦の損傷修理において後甲板に25mm3連装4基を追加。同単装は若干減少し21挺(もしくは18挺)とした。レーダーは21号を撤去し、代わりに22号を1基増備した。

最終時の機銃とレーダーは

  • 25mm3連装機銃14基、同連装2基、同単装21挺(もしくは18挺)。合計67挺
  • 電探:22号3基、13号1基

とされている。

歴代艦長

艤装員長

  1. 龍崎留吉 大佐:1937年11月21日 -

艦長

  1. 原鼎三 大佐:1938年12月15日 -
  2. 大西新蔵 大佐:1939年11月20日 -
  3. 西田正雄 大佐:1940年10月15日 -
  4. 岡田為次 大佐:1941年9月10日 -
  5. 兄部勇治 大佐:1942年7月14日 -
  6. 黛治夫 大佐:1943年12月1日 -
  7. 岡田有作 大佐:1945年1月6日 -

同型艦

余談

  • 艦名の「利根」はアルファベット表記にすると「TONE」(=英語で「音」)となるため、アメリカ海軍では軍艦名と理解出来なかったものが少なからずいたという。

参考文献

  • 重巡利根型 軽巡香取型 丸スペシャルNo.44、潮書房、1980年
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
  • 利根型重巡 [歴史群像]太平洋戦史シリーズVol.47、学習研究社、2004年

関連項目