ケイト・ブッシュ

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ケイト・ブッシュ
Kate Bush
Kate Bush at 1986 Comic Relief (cropped).png
基本情報
出生名 Catherine Bush
出生 1958年7月30日(57歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル ロック
アート・ロック
プログレッシブ・ロック
オルタナティヴ・ロック
バロック・ポップ
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカルピアノ
活動期間 1977年 - 現在
レーベル EMI
コロムビア・レコード
共同作業者 デヴィッド・ギルモア
ピーター・ガブリエル
公式サイト katebush.com
ビリー・ホリデイ
ジョニ・ミッチェル

ケイト・ブッシュ, CBEKate Bush,1958年7月30日 - )はイギリス歌手作詞作曲家

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第19位[1]

人物[編集]

ピンク・フロイドデヴィッド・ギルモアに見出されレコード・デビューに至った。それ以前に自分で売り込んだ際には、レコード会社から見向きもされなかった。

デビュー当時は19歳ということもありアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開するアーティストとして確固たる評価を得た。英国音楽メディアのNMEやMOJOが「ロック史上、誰よりも大きな影響を与えてきた女性アーティスト」と評するなど、現在に至るまでイギリスを代表する女性アーティストとして活動を続けている。

ステージで歌唱する際はダンスパントマイムなどの体技を交え、一種のパフォーマンスを展開することが多い(シャイな性格のためと言われる)。早い時期から凝った内容のプロモーション・ビデオも制作しており、音楽とビジュアルの融合にも意欲を見せていた。一方で、完成度の高い作品を志向している為か、割合に寡作なミュージシャンである。

レコード・ジャケットに東洋風の絵柄を用いるなど、東洋の文化への興味が強いと言われる。1978年東京音楽祭に出演するため日本を訪れたが、それ以降は来日の経験はない。諸説あるが飛行機による長旅を嫌っているのが一因らしい。

日本ではかつて放送されていた日本テレビのバラエティ番組『恋のから騒ぎ』のオープニング・テーマ曲に彼女の楽曲「嵐が丘」が長年使われていたことから、その歌声は広く知られている。

デビュー前[編集]

ケイト・ブッシュ(本名:キャサリン・ブッシュ)は1958年7月30日に英・大ロンドン(Greater London)ベクスレー区のベクスリーヒース(Bexleyheath)の比較的裕福な家庭に生まれた。父親ロバートは医師で、母親ハンナはアイルランド系の元看護師ピアノが堪能な父、アイリッシュフォークの元ダンサーである母、詩人でありカメラマンでもある長兄ジョン、楽器メーカーに勤めていた次兄パディという音楽一家の中で育つ。兄たちは地元のフォークミュージックシーンに関与していた。なおパディは後にケイトのアルバムにも参加している。

ケイトが音楽に興味を持ち始めたのは1968年頃のこと。一年間のオーストラリア移住から英国に戻ったケイトは、その頃から父ロバートにピアノを習い始める。やがてカトリック系の女子校であるグラマー・スクールに通う頃になると、ケイトは多くの楽曲やを書き始め、同時にヴァイオリン聖歌隊のレッスンにも励み、自らの芸術的な感性を磨いていった。

1974年、本格的に音楽の道へ進むことを決意したケイトは学校を中退し、ビリー・ホリデイジョニ・ミッチェルなど自分のアイドルに憧れながら音楽作りに専念。1975年には兄パディ達と共に「KT Bush Band」というバンドを結成し、パブにも出演するようになった。この時期に制作したデモテープが、やがてデヴィッド・ギルモアに見出されることとなる。

1976年ロンドン郊外のフラットに移り住んだケイトは、アダム・デューリアスによるマイムを教えるクラスへ入り、更にはリンゼイ・ケンプのもとに弟子入り。デビューの準備期間ともいえるこの時期をケイトは約1年に渡って過ごし、1977年に満を持してアーティストとして初の本格的なレコーディングに入った。なお、この時期にマイムのスクールでザイン・グリフデヴィッド・ボウイらと交流し、その後グリフのアルバムにも参加している。

デビューから1990年代まで[編集]

1977年11月、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』のTVドラマを見て作ったシングル「嵐が丘」 (Wuthering Heights)”でデビュー。いきなり全英4週連続一位を記録、同曲を収録したデビュー・アルバム『天使と小悪魔』 (The Kick Inside)も40万枚というセールスとなり、一躍大きな注目を集めた。

その後1978年に2ndアルバム『ライオンハート』 (Lionheart)を発表するも1枚目と同じく満足のいく仕上がりにはならなかったことから、自らも裏方の仕事であるプロデュースをしなければと決心する。この後、西ヨーロッパでツアーを行い(映像ソフトがその後1981年に発売)、1980年の3rdアルバム『魔物語』 (Never For Ever)では共同プロデュース、1982年に『ドリーミング』では録り直しをして膨大なレコーディング費用が掛かり、レコード会社から煙たがられた事もあったが単独プロデュース、1985年『愛のかたち』 (Hounds Of Love)も自らがプロデュースを行った。

1986年には初のベスト・アルバム『ケイト・ブッシュ・ストーリー』 (The Whole Story)を発表。またこの間にはピーター・ガブリエルロイ・ハーパーなど英国の奇才ミュージシャン達との交流もあった。ベスト盤という区切りの後に彼女の新章を告げた作品が1989年発表の『センシュアル・ワールド』。これで初めてUSAでメジャーになった。ここでケイトはブルガリアン・ヴォイスの一員だった女性アンカ・ラプキーナ率いるトリオ・ブルガルカと共演。ボックス・セットの発売やエルトン・ジョンのトリビュート盤『トゥー・ルームス〜エルトン・ソングス』への参加を経て、次の彼女自身のオリジナル・アルバム『レッド・シューズ』が発表されたのが1993年のこと。ジェフ・ベックエリック・クラプトンプリンス(同い年のミュージシャン)などが参加した話題作だったが、母の死によってリリースが1年延びたものでもあった。アルバムは全英2位と好セールスを記録し、シングル・カットされた楽曲もそれぞれヒットした。

しかし、このアルバム以降のケイトはトリビュート作やチャリティ・アルバムへの参加、他アーティストの作品へのゲスト参加などはあるが、自身の作品をリリースすることなく90年代を終えた。

2000年代以降[編集]

『レッド・シューズ』以降、オリジナルの新作が発表されないまま長い時間が経過し、ファンが待ち望む中で幾度か新作発表の情報が流れては消えた。ようやく新作の2枚組アルバム『エアリアル』が店頭に並んだのは、前作から12年ぶりとなる2005年11月7日(日本発売は11月2日)のことである。第一弾シングル「キング・オブ・ザ・マウンテン」も英チャート4位にランクイン。新作では休止期間中の1998年に生まれた息子アルバート(ケイト達はバーティと呼んでいる)のアートワークをフィーチャーする一方で、これまでになくやわらかい空気にあふれた世界を作り上げている。

2011年5月(日本では7月)には過去のアルバム『センシュアル・ワールド』『レッド・シューズ』の楽曲をセルフカバーした『ディレクターズ・カット』をリリース。前作より6年のブランクがあったものの、本国イギリスではチャート上で2位にランクインを果たした。同年11月23日には、6年ぶりとなる全新曲のアルバム『雪のための50の言葉』をリリース。10枚目のアルバムとなる本作は、全7曲、収録時間は約65分という大作となっている。

2013年4月大英帝国勲章を授与される。

2014年8月〜10月に、ロンドンで22日間に渡るコンサートBefore the Dawnを開催した。

ディスコグラフィー[編集]

  1. THE KICK INSIDE(天使と小悪魔)(1978年)
  2. LIONHEART(ライオンハート)(1978年)
  3. NEVER FOR EVER(魔物語)(1980年)
  4. THE DREAMING(ドリーミング)(1982年)
  5. HOUNDS OF LOVE(愛のかたち)(1985年)
  6. THE WHOLE STORY(ケイト・ブッシュ・ストーリー) - ベストアルバム
  7. THE SENSUAL WORLD(センシュアル・ワールド)(1989年)
  8. THIS WOMAN'S WORKS(ディス・ウーマンズ・ワークス) - ベストアルバム(1990年)(8枚組)
  9. THE RED SHOES(レッド・シューズ)(1993年)
  10. AERIAL(エアリアル)(2005年)(2枚組)
  11. DIRECTOR'S CUT(ディレクターズ・カット)(2011年)
  12. 50 Words For Snow(雪のための50の言葉)(2011年)

脚注[編集]

  1. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。

外部リンク[編集]