アヴス
1937年アヴス・レンネン | |
所在地 | ベルリン |
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標準時 | GMT +1 |
主なイベント | 1959年ドイツグランプリ ETCC ('63-'88), フォーミュラ3, DTM, DRM, Interserie, グループC |
コース長 | 8.300 (1959 GP) km (5.157 mi) |
コーナー数 | 4 |
レコードタイム | 2:04.5 ( トニー・ブルックス, フェラーリ, 1959) |
アヴス(またはアーヴス ドイツ語: AVUS [ˈaːvʊs][注釈 1])は、ドイツの首都ベルリン郊外[1]にかつて存在した[1]自動車レース用のサーキット。典型的なバンクつきレーストラックであった[1]。レース用の設備は撤去されたものの、ヨーロッパ最古の自動車専用道路として現在も使用されている[注釈 2]。
歴史
ドイツ自動車産業の競争力向上を目的として民間会社Automobil-Verkehrs- und Übungs-Straße GmbHが1913年に建設を開始、資金難でたびたび中断しつつもようやく1921年に完成した。こうしてできあがったのは2本の平行するおよそ9kmにわたるストレートと、その両端に2つのヘアピンカーブというシンプルなサーキットであった。一部は有料道路としても開放されてベルリン・ポツダム間の自動車移動時間の短縮に寄与し、これがのちのアウトバーン建設のきっかけとなった。
ここで1926年に第一回ドイツグランプリが行われた[注釈 3]。翌年には高速化のために北ヘアピンカーブにバンクが設けられた。1937年4月にはバンクを大幅に改修して幅を広げ、傾斜を43度として滑り止め煉瓦を敷き詰め、さらに表面を研ぎ上げる徹底的な改修を行ったことにより、バンク周回時にも160km/h以上を維持することが可能となったため、アヴスは名実ともに世界一速いサーキットとなった。
有名なバンクはステアリング操作を比較的容易にするクロソイド曲線の断面ではなく、43度一定曲線ゆえの操縦の困難さから、「死の壁」と恐れられた。長い2本の直線路のため、完成当時から超高速コースとして知られ、1931年の第1回アヴス・レンネン (AVUS-Rennen)ですでに優勝者の平均速度は185km/hを超えている。記録は年々上昇し、1937年の第6回アヴス・レンネンにおいては流線型ボディのメルセデス・ベンツ・W25に乗ったヘルマン・ラング(Hermann Lang )が、平均260.7km/hという恐るべき速度で優勝した。同年のプラクティスでは、アウトウニオン・レーシングカーに乗ったベルント・ローゼマイヤーが非公式ながら平均284.31km/hを記録している[注釈 4]。
第二次世界大戦ののちコースは北側半分に短縮され、1959年に二度目のF1のドイツグランプリが開催され、これがここで行われた最後のドイツグランプリとなり[1]、このレースで勝利したトニー・ブルックスのフェラーリは143.61mph=約231.1km/hを記録した[1]。前座のスポーツカーレースでは、ポルシェ・RSKに乗るジャン・ベーラが「死の壁」のバンク上部に激突して死亡。1967年に危険との批判からバンクは撤去された。
1995年に開催されたDTM第4戦では赤旗中断後の再スタートにおいて事故が発生、狭くランオフエリアのないコース上で密集したマシンが次々と接触し多くが走行不能となり、結果このレースはキャンセルされた。同じく1995年のスーパーツーリングカーでは日産・プリメーラを駆るキース・オドールがウォールに衝突後コース中央に停止、フランク・ビエラのマシンがその運転席側のサイドに突っ込みオドールは死亡した。
1998年に最後のレースが行われ、翌年のお別れイベントをもってサーキットとしての役目を終えた。