黒木博司
黒木 博司 Major,Hiroshi Kuroki | |
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黒木 博司 | |
生誕 |
1921年9月11日 日本 岐阜県益田郡下呂村 |
死没 |
1944年9月7日(22歳没) 日本 山口県黒髪島沖 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1942 - 1944 |
最終階級 | 海軍少佐 |
墓所 | 岐阜県下呂市の温泉寺 |
黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11日 - 1944年(昭和19年)9月7日)は、日本の海軍軍人。海軍機関学校51期。太平洋戦争の末期、仁科関夫中尉とともに人間魚雷「回天」を創案し、自らも搭乗して訓練中の事故で殉職した。最終階級は海軍少佐。
来歴
開戦まで
1921年(大正10年)9月11日に岐阜県益田郡下呂村(現・下呂市)で生まれる。幼少より成績優秀・努力家で、黒木家は尊皇の志が篤く、黒木の父親は街医師として近隣の貧しい農民の医療に大きく貢献していた。旧制岐阜中学校を卒業後、1938年(昭和13年)に海軍機関学校(51期)へ入学する[1]。機関学校時代から東京帝国大学で国史学の教授だった平泉澄に深く傾倒していた。1941年(昭和16年)11月15日に海軍機関学校を卒業すると、同日中に当時旧式だった戦艦「山城」に着任し、同年12月8日に太平洋戦争の開戦を迎える。
回天誕生
1942年(昭和17年)7月15日に海軍潜水学校の普通科学生として採用され、同年12月に特殊潜航艇「甲標的」講習員(第6期)となる。ここで、同室となった仁科関夫中尉(海兵71期)と共に、「魚雷を人間が操縦し、敵艦への命中率を高くする」という、のちの「回天」の原型となる人間魚雷を発案した[2]。黒木は仁科と共に、時には自身一人で嘆願するが、1943年(昭和18年)12月28日に永野修身軍令部総長から「それはいかん」と却下された。
しかし、マーシャル諸島失陥やトラック島空襲によって日本軍は著しい戦局悪化をたどっていたため、1944年(昭和19年)2月26日、ついに中央は海軍工廠魚雷実験部に対して黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じたが、同時に「乗員の脱出装置が無いのでは(兵器として)採用しない」との条件が付された。それでも黒木・仁科両者はその条件を受け入れたことで試作は続行され、同年4月には試作された人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部では担当主務部を定めて特殊緊急実験が開始された。こうして同年7月に試作機が完成し、即刻大入島発射場で試験が行われたが、条件として付いた「乗員の脱出装置」が未完成だったために装備されなかったほか、試験終了後に兵器として採用するために新たな問題点がいくつか挙がったが、これらの課題は結局終戦まで未解決のまま、すなわち発進すれば生還不可能・必死必殺の特攻兵器となった。そして同年8月1日、米内光政海軍大臣によって正式に日本軍の兵器として採用され、黒木・仁科両者の考案は最終的に認められたこととなった。
1944年(昭和19年)8月15日、大森仙太郎特攻部長は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを、判断する時期だ」と発言、明治維新の船名からこの兵器を「回天」と命名した。そして同年9月1日、山口県大津島に黒木・仁科と板倉光馬少佐が中心となって「回天」基地が開設され、全国から志願で集まった搭乗員で9月5日から本格的な訓練が開始された。これが、「回天」特攻の始まりである。
殉職~没後
黒木・仁科両者が苦心の末に兵器としての採用を認めさせた「回天」を使用し、本格的な訓練が開始された翌日は爽やかな秋晴れだったが、「回天」の同乗訓練から戻った仁科は、これから訓練を開始しようとしていた黒木に「湾外の波が高いから訓練は中止したほうが良い」と進言した。しかし黒木は忠告を聞かず、「これくらいの波で(回天が)使えないなら、実戦では役に立たない」と主張し、同日17時40分に、樋口孝大尉と共に訓練用回天に同乗した。「回天」は蛇島へ向けて針路を取るが、浮上を試みた際に突然急激に傾斜して海底に着底、直ちに緊急停止を行った。その後、応急処置を試みるも艇内の酸素が失われ、翌日早朝に黒木・樋口両者は遺体となって発見された。黒木博司、享年22。23歳の誕生日を迎える4日前だった。
黒木の没後、仁科は黒木の遺志を受け継ぎ、自身の出撃(1944年11月8日)直前まで「回天」の試作段階で浮き彫りになった様々な問題を中心に改良・研究に熱心に取り組んでいた。1964年(昭和39年)、黒木の出身地である岐阜県下呂市の信貴山山頂に楠公社が創建され、黒木など「回天」で出撃して殉職した138柱が合祀されている[3]。黒木の墓は、岐阜県下呂市の温泉寺にある。
事故の原因
1944年(昭和19年)9月6日の事故の原因は、時化によって訓練用回天「一号的」が波に叩かれ、急激なダウンによって水深20mの海底の泥に突き刺さり、救助までの間に艇内の酸素がもたず、酸欠によって殉職したと思われる。
普段穏やかな瀬戸内海にも関わらず、この日の瀬戸内海は波と風があった。板倉や同僚の仁科の反対に対して、黒木は「天候が悪いからといって(敵は侵攻を)待ってくれないぞ」と訓練開始を主張し、同乗した樋口も訓練の開始を請願、襲撃訓練が行われた。しかし、陸上の基地より発射された「一号的」は、前述のように波に叩かれて急激なダウンにより黒髪島沖の海底の泥に突っ込んでしまう。同一コースの海上を走っていた2隻の魚雷艇は、一隻が折り返し地点で、波を被って機関部に浸水して航行不能に、もう一隻は波が荒く、海底に「一号的」が突き刺さったときに出来る気泡を見つけられずに通過してしまった。
黒木と樋口は翌日発見されたが、約10時間艇内に閉じこめられたことによる酸欠で死亡していた。艇内に残された10時間の間に、「第六潜水艇」の佐久間勉艇長にならって泰然として報告書と遺書をしたためている(以下の記述は要約)。
事故状況
* 9月6日17時40分に出発。蛇島に向かって針路を取り、18時に180°取舵。18時10分に潜航。18時12分(推定)に浮上を行なうが突然急激に傾斜。深度計は18mを示し、海底に着底、直ちに緊急停止。
- 応急処置として、5分間隔に主空気を1分間排気(空気泡で海上に知らせるため)。電動縦舵機を停止。18時45分 - 19時25分にかけて数回主空気を排気した後、空気の排気が出来なくなる。
- 「回天」の改善点
- 悪天候の浅深度高速潜航の実験が必要。
- 酸素供給のための過酸化水素水曹の設置。
- 事故に備え、用便器が必要(艇内の温度を上げないため)。遺書にも「用便器が必要」と記述されている。
- 同一の「回天」に2人が搭乗時は、酸素は7時間が限界。
- 航外灯、応急ブローが必要。
- 遺書
- 平泉・仁科を初めとする先輩・友人などへの感謝、事故は自身の責任との記述のほか「天皇陛下万歳 大日本帝国万歳 帝国海軍万歳」、辞世の句(上図)など。
- その後の状況(艇内に残された文書・壁書による)
- 9月6日19時55分、酸素の消費を抑えるために睡眠。
- 9月7日4時に起床、4時5分に万歳三唱。4時45分に君が代を斉唱、この後呼吸困難になる。6時現在は2名とも生存(樋口の遺書では6時10分まで生存)。 — 黒木 博司
脚注
- 注釈
- 出典
黒木博司に関する書籍
- 「ああ黒木少佐」松平永芳 - 私家版、1960年
- 「ああ黒木少佐」井星英 - 私家版、1960年
- 「慕楠記」(慕楠黒木博司の記録)平泉澄 - 岐阜県教育懇話会、1975年
- 「ああ黒木博司少佐」吉岡勲 - 教育出版文化協会、1979年
- 「続・あゝ伊号潜水艦」板倉光馬 - 光人社NF文庫、1980年
- 「回天菊水隊の四人 - 海軍中尉仁科関夫の生涯」前田昌宏 - 光人社NF文庫、1989年
- 「特攻の島」 - 佐藤秀峰、2004年