鯉城蹴球団
鯉城蹴球団(りじょう しゅうきゅうだん)は日本サッカー黎明期の1920年代・大正後期、昭和初期に広島県広島市に本拠地を置いた同好会サッカークラブ。鯉城とは広島城の別名である。
2009年現在の鯉城蹴球団とは、広島県立広島国泰寺高等学校サッカー部OB会のことを指す[1]。
歴史
日本サッカー創成期からサッカーが非常に盛んであった広島で、全国的な強豪であった広島県立広島第一中学校(学制改革により鯉城高校、現広島国泰寺高校)のOBを中心に「鯉城クラブ」名で1924年(大正13年)に結成された[1]。切っ掛けは同年秋に、第1回明治神宮競技大会(明治神宮大会)が初めて総合国内スポーツ大会として開催されるという報を受け「蹴球部を編成して遠征しよう」と声が盛り上がったもの[1]。
1924年(大正13年)、広島高師、松山高校、山口高校を予選で連破し本大会に出場[1]、第4回ア式蹴球全国優勝大会兼第1回神宮大会(天皇杯の前身)決勝で、ライバル御影師範(全御影師範クラブ)を破り西日本勢として初優勝。
翌年1925年(大正14年)第5回大会、今度は鯉城蹴球団の名で出場。 同年10月30日、御影蹴球団との準決勝は、今でも「日本サッカー史上最大の紛糾試合」として語り草になっている。両チーム譲らず1-1の引き分け。その日は日没となったので延長戦は翌10月31日に行なわれ、御影蹴球団が1点を奪取して2日がかりの試合に決着をつけたと思われたが、鯉城蹴球団から抗議が起こった。御影は前日負傷した選手に代わって、登録外の選手を出場させた、というアピールだった。延々6時間、話し合いは難航に難航を重ねた。結局、鯉城蹴球団の抗議が認められ再試合になったものの、これも引き分けとなり日没になった。11月1日朝8時から延長線だけを行い、ようやく鯉城蹴球団の清水直右エ門が決勝ゴールを挙げ3-2となり、3日がかり4試合のケリをつけた。ルール解釈にまだ曖昧さを残していた時代の混乱ぶりが窺える。選手全員はクタクタに疲れ切っていたが、翌11月2日の決勝戦は東京大学を3-0と一蹴して二連覇を果たした。
1926年(昭和元年)、大正天皇の崩御で第6回大会は中止。翌1927年(昭和2年)、第7回大会に事実上の三連覇を目指し、三大会連続で決勝に進出したが神戸一中クラブに敗れた。2007年現在、天皇杯は三連覇したクラブがない(二連覇は延べ9クラブ)ため、鯉城蹴球団の二連覇は最高記録となる。
この後は他クラブの台頭もあり、1930年(昭和5年)頃には自然解散したものらしい。
略歴
- 1923年(大正12年)頃 : 「鯉城クラブ」名で結成
- 1924年(大正13年) : ア式蹴球全国優勝大会初優勝
- 1925年(大正14年) : 「鯉城蹴球団」の名で全国優勝大会史上初の連覇
- 1927年(昭和2年) : 全国優勝大会準優勝
- 1930年(昭和5年)頃 : 自然解散
出典
主な出身者
参考文献・ウェブサイト
- 広島スポーツ史(財団法人広島県体育協会)
- 広島一中国泰寺高百年史(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編纂委員会)1977年11月
- 『創立九十周年記念誌』「創立九十周年記念誌」編集委員会、広島県広島国泰寺高等学校、1967年10月
- 知られざる日韓サッカー激闘史(康奉雄、廣済堂出版)1998年6月1日
- サッカー オンラインマガジン 2002world..com 日本サッカーの歴史
- 日本サッカー・ブック・ガイド