高橋善一
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高橋 善一(たかはし よしかず、1856年8月3日 - 1923年5月20日)は、日本の鉄道員。名は「ぜんいち」と読まれることも多かった。
日本の鉄道草創期に国有鉄道の職員となった「鉄道員の草分け」であり、現場の叩き上げ(本人に言わせれば「機関車の油さし」)から車掌を経て駅長に昇進。鉄道省の成立後、66歳で没する直前まで50年にわたり鉄道職員として奉職する異例のキャリアを残した。中年期から長年にわたり新橋駅駅長、さらに初代東京駅駅長を退職まで務め、マスコミにもたびたび登場する日本最高位の「名物駅長」として、当時の人々に広く知られた[1]。
日本の鉄道の父と言われる井上勝をはじめ、多くの要人にも知遇があり、皇族からも親しまれていた。永年の皇族や外国の要人の送迎などを務めた功績で大正天皇、貞明皇后の写真を受けている。
現在の福井県にあった河合家に生まれた後、三河国吉田城下(現在の愛知県豊橋市)の高橋家の養子となった[2]。
経歴
- 1873年 工部省に入省。新橋保線科に下級駅夫として配属される。翌1874年には大阪駅 - 神戸駅間鉄道の開業に備え、大阪へ異動。更に車掌となる。
- 1879年 神戸駅詰めの車長となる。
- 1880年 馬場駅(現在の膳所駅)助役
- 1881年 同駅駅長
- 1882年 長浜駅長
- 1886年 武豊駅長
- 1887年 名古屋駅長
- 1891年 大阪駅長
- 189X年 大垣駅長
- 1895年 新橋駅長(現在の汐留駅)
- 1900年 6月 新橋駅長在任のまま鉄道事務官補に任ぜられ、高等官七等となる。
- 1914年 東京駅長(初代)
- 1921年 京都に赴く原敬内閣総理大臣が高橋の目前で刺殺される。
- 1923年 3月退任。この時の職位は高等官三等一級という、現場叩き上げの職員としては異例の高位であった。
- 1923年 5月20日 乗り合わせた自動車が小石川区の川に転落したことにより卒去。
表彰
- 外国勲章佩用允許
事故死
1923年5月20日、小石川で乗り合わせた自動車が神田上水に転落する事故に遭い早稲田病院に運ばれたが亡くなった。彼の死を知り弔問には大隈重信侯爵、かつて彼を抜擢した井上勝の後を継いだ井上勝純子爵、森村市左衛門男爵、藤田平太郎男爵、吉田十一二代目東京駅長などが訪れた。また葬儀には大正天皇、貞明皇后を筆頭に各宮家からの生花、九条道実、松方正義両公爵、大隈重信、森村市左衛門、日本相撲協会などから花輪が飾られた[4]。
東京都港区にある青松寺に墓地がある。彼の未亡人は自動車の運転手が過失罪で起訴されそうになったのを忍びないと起訴猶予の嘆願書を提出した[5]。
脚注
- ^ 先人録
- ^ 初代の東京駅長
- ^ 『官報』第6594号「叙任及辞令」1905年6月24日。
- ^ 高橋前東京駅長 葬儀 読売新聞1923年5月24日
- ^ 運転手起訴を猶予の願い 読売新聞1923年5月23日
関連書籍
- 渡辺公平、平山三郎(編集)・上月木代次(編集)『汽笛一声 - 鉄道100年 文学と随筆選集』実業之日本社、1972年。