高木永二

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たかぎ えいじ
高木 永二
高木 永二
1920年代の肖像。
本名 高木 英二
生年月日 (1896-12-28) 1896年12月28日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1921年 - 1942年
配偶者 山下澄子
主な作品
大地は微笑む
新版大岡政談
織田信長
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高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名高木 英二[1][2]。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる[1]

人物・来歴

1896年明治29年)12月28日[1]12月12日[2])、兵庫県神戸市に生まれる[1][2]

東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する[1]。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する[1][2]。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める[1]

関東大震災後の1924年(大正13年)4月、日活京都撮影所第二部に移籍、同年5月1日に公開された溝口健二監督の『塵境』、同年6月20日に公開された同じく『七面鳥の行衛』で主演クラスの助演に抜擢され、注目を浴びる[1][3][7]。1927年(昭和2年)7月22日に公開された木藤茂監督の『稲妻』では、高木が書いた原作が採用され、主演もこなした[1][3][7]。時代劇にも出演し、伊藤大輔の『新版大岡政談』シリーズ(1928年)では蒲生泰軒を演じた[1][3][7]。1928年(昭和3年)、女優の山下澄子と結婚する。

1932年(昭和7年)2月に奈良に設立された富国映画に移籍、『情熱の波止場』に主演し、『女性ヴァラエテイ』で監督としてデビューしたが、同社が同年6月に解散したため、日活太秦撮影所に再入社、時代劇俳優に完全に転向する[1][3][7]。1933年(昭和8年)1月14日に公開された片岡千恵蔵プロダクション製作、伊丹万作監督の『刺青奇偶』では、片岡千恵蔵を相手に最後の賭博勝負をかける鮫の政五郎役、同年6月15日に公開された山中貞雄監督の『盤嶽の一生』では地主佐兵衛役を演じ、健在ぶりを示したという[1][3][7]。1934年(昭和9年)には、東京に新設された現代劇のスタジオである日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する[1][3][7]

満45歳になり、1942年(昭和17年)3月7日に公開された田口哲監督の『将軍と参謀と兵』(戦後改訂新版『戦争と将軍』)を最後に、出演記録が途絶える[1][3][7]第二次世界大戦にあたっての戦時統合によって、同撮影所は大映東京撮影所となるが、戦中戦後の高木の消息はわからない[1]没年不詳[1]

フィルモグラフィ

特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][8]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

松竹蒲田撮影所

すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]

日活京都撮影所第二部

すべて製作は「日活京都撮影所第二部」(大将軍、現代劇)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]

日活大将軍撮影所

すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]

日活太秦撮影所

新版大岡政談』(1928年)のスチル写真。左から伏見直江大河内傳次郎高木永二

特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]

富国映画

すべて製作・配給ともに「富国映画」、すべてサイレント映画である[3][4]

日活太秦撮影所

織田信長』(1940年)のスチル写真。左が宮城千賀子、右が高木永二

特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][7]

日活京都撮影所

すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4][7]

日活多摩川撮影所

特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、特筆以外すべて配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[3][4][7]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネマ旬報社[1979], p.302.
  2. ^ a b c d e 高木永二jlogos.com, エア、2013年1月18日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 高木永二日本映画データベース、2013年1月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 高木永二、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月18日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 高木永二東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月18日閲覧。
  6. ^ 高木永二KINENOTE、2013年1月18日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 高木永二、日活データベース、日活、2013年1月18日閲覧。
  8. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年1月17日閲覧。
  9. ^ シリーズ・日本の撮影監督 1、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月18日閲覧。

参考文献

  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目

外部リンク