高木永二

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たかぎ えいじ
高木 永二
高木 永二
1920年代の肖像。
本名 高木 英二(たかぎ えいじ)
生年月日 (1896-12-28) 1896年12月28日
没年月日 (1943-12-14) 1943年12月14日(46歳没)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
死没地 日本の旗 日本 東京府北多摩郡調布町(現在の東京都調布市
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1921年 - 1943年
配偶者 真田雛子(芸名:秩父かほる)
主な作品
大地は微笑む
新版大岡政談
織田信長
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高木 永二(たかぎ えいじ、1896年12月28日 - 1943年12月14日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5][6][7][8]。本名高木 英二(たかぎ えいじ)[2][3]。『大地は微笑む』の主演、『新版大岡政談』、『織田信長』の助演で知られる[2]

人物・来歴[編集]

1896年明治29年)12月28日[2]12月12日[3])、兵庫県神戸市に生まれる[2][3]

東京に移り、旧制・荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)に入学、同校を卒業し、旧制早稲田大学予科(現在の早稲田大学高等学院)に進学する[2]。同学予科を終了後の1916年(大正5年)、単身アメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)に帰国する[2][3]。1920年(大正9年)、神戸に帰って、ドイツ系資本の高級ホテル「トアホテル」(現存せず、現在跡地に神戸外国倶楽部)に勤務したが、1921年(大正10年)、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社、満24歳のころから俳優生活を始める[2]

関東大震災後の1924年(大正13年)4月、日活京都撮影所第二部に移籍、同年5月1日に公開された溝口健二監督の『塵境』、同年6月20日に公開された同じく『七面鳥の行衛』で主演クラスの助演に抜擢され、注目を浴びる[2][4][8]。1927年(昭和2年)7月22日に公開された木藤茂監督の『稲妻』では、高木が書いた原作が採用され、主演もこなした[2][4][8]。時代劇にも出演し、伊藤大輔の『新版大岡政談』シリーズ(1928年)では蒲生泰軒を演じた[2][4][8]。1928年(昭和3年)、女優の秩父かほる(歌舞伎俳優の中村珊瑚郎の三女)と結婚する。1931年(昭和6年)3月1日長男高木英文誕生。長男はその後ピアニスト・作曲家(日本作曲家協会会員)となり、キングレコードよりリリースした「波止場の女」「素寒貧人生」などを手がけた。孫は元松竹女優の野咲めぐみ

1931年(昭和6年)には、日活太秦撮影所に入社。1932年(昭和7年)2月に奈良に設立された富国映画に移籍、『情熱の波止場』に主演し、『女性ヴァラエテイ』で監督としてデビューしたが、同社が同年6月に解散したため、日活太秦撮影所に再入社、時代劇俳優に完全に転向する[2][4][8]。1933年(昭和8年)1月14日に公開された片岡千恵蔵プロダクション製作、伊丹万作監督の『刺青奇偶』では、片岡千恵蔵を相手に最後の賭博勝負をかける鮫の政五郎役、同年6月15日に公開された山中貞雄監督の『盤嶽の一生』では地主佐兵衛役を演じ、健在ぶりを示したという[2][4][8]。1934年(昭和9年)には、東京に新設された現代劇のスタジオである日活多摩川撮影所に異動する[2][4][8]

満45歳になり、1942年(昭和17年)3月7日に公開された田口哲監督の『将軍と参謀と兵』(戦後改訂新版『戦争と将軍』)を最後に、出演記録が途絶える[2][4][8]第二次世界大戦終結後の映画の出演歴は無く、『日本映画俳優全集・男優編』(同項の執筆田中純一郎キネマ旬報社)は以降の消息不明、没年不詳とするが[2][4]、実際には同年1月27日、戦時統合によって設立した大映に継続入社、日活多摩川撮影所改め大映東京第二撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)に所属しているが[9]、1作も出演することなく、『朝日新聞』1943年(昭和18年)12月16日付にて、去る12月14日に動脈硬化症のため、東京府北多摩郡調布町(現在の東京都調布市)の自宅で死去したと報じられている[1]。満46歳没(数え年48歳[1])。告別式は同年12月18日に自宅で行われた[1]

フィルモグラフィ[編集]

特筆以外すべてクレジットは「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

松竹蒲田撮影所[編集]

すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[4][5]

日活京都撮影所第二部[編集]

1925年の写真、満29歳。

すべて製作は「日活京都撮影所第二部」(大将軍、現代劇)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[4][5][8]

日活大将軍撮影所[編集]

すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[4][5][8]

日活太秦撮影所[編集]

新版大岡政談』(1928年)のスチル写真。左から伏見直江大河内傳次郎高木永二

特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[4][5][8]

富国映画[編集]

すべて製作・配給ともに「富国映画」、すべてサイレント映画である[4][5]

日活太秦撮影所[編集]

織田信長』(1940年)のスチル写真。左が宮城千賀子、右が高木永二

特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[4][5][8]

日活京都撮影所[編集]

すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、特筆以外すべてサイレント映画である[4][5][8]

日活多摩川撮影所[編集]

特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、特筆以外すべて配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[4][5][8]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『朝日新聞』昭和18年12月16日付。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p キネマ旬報社[1979], p.302.
  3. ^ a b c d e 高木永二jlogos.com, エア、2013年1月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 高木永二日本映画データベース、2013年1月18日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 高木永二、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月18日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 高木永二東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月18日閲覧。
  7. ^ 高木永二KINENOTE、2013年1月18日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 高木永二、日活データベース、日活、2013年1月18日閲覧。
  9. ^ 『映画年鑑 昭和18年』日本映画雑誌協会、1943年、394頁。 
  10. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年1月17日閲覧。
  11. ^ シリーズ・日本の撮影監督 1、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目[編集]

外部リンク[編集]