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雲龍久吉

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雲龍久吉

雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち、ひさきちとも、1822年文政5年) - 1890年明治23年)6月15日)は、筑後国山門郡大和村(現在の福岡県柳川市)出身で追手風部屋(入門時は大坂相撲陣幕部屋)所属の元大相撲力士財団法人日本相撲協会が認定している第10代横綱。本名は、塩塚久吉→佐藤喜太郎。身長179cm、体重135kgと伝わる。

来歴

大坂相撲陣幕部屋にいたが、1846年弘化3年)江戸に出て追手風の弟子となり翌1847年(弘化4年)11月に幕下二段目付け出しで江戸相撲の初土俵を踏んだ。柳川藩のお抱え力士。大関昇進は1858年(安政5年)正月、1861年(文久元年)9月横綱免許。入幕から何と4場所連続優勝相当成績。しかし、その後は体力の衰えがあり通算成績は普通となっている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。現役引退後は年寄追手風を襲名、会所筆頭(ふでがしら=現在の理事長に相当する)まで勤め、明治維新後の大相撲復興に努力した。

2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。これは、雲龍型と不知火型の名が途中で入れ替わったとする通説による。しかし、雲龍と第11代横綱の不知火光右衛門の土俵入りが立派であったため後世に名のみが残され、正式に型の名をつける際によく調べなかったため入れ替わったとの見方もある。実際にこの二人の土俵入りがどのような型だったかは、錦絵や写真から判断されている(両手を広げた不知火型で土俵入りする雲龍の錦絵が残されていたり[1]、不知火が雲龍型のポーズをとっている写真もある)

また、実在性に乏しい横綱の初代「明石志賀之助」から3代目「丸山権太左衛門」を公式の横綱に認定したのは彼であるとされる。彼の記した手記によれば、第17代横綱「小錦八十吉」までの横綱について記されている。

脚註