花ざかりの森

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花ざかりの森
著者 三島由紀夫
イラスト 装幀:徳川義恭
発行日 1944年10月15日
発行元 七丈書店
ジャンル 短編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本 紙装
ページ数 247
ウィキポータル 文学
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花ざかりの森』(はなざかりのもり)は、三島由紀夫短編小説。三島が16歳の時に執筆した作品で、公に出版された初めての小説である。話者である「わたし」の祖先をめぐる4つの挿話から成り、一貫したストーリーというものはなく、祖先への強い憧れとアンニュイな雰囲気が漂う追憶と観念的な挿話が断片的に織りなされている的な作品である。最後の文章は澄んだ「静謐」を描いていて、三島の遺作『豊饒の海』のラストを思わせるような終り方となっている[1]

エピグラフに、シャルル・クロスの『小唄』の「かの女は森の花ざかりに死んでいつた、かの女は余所にもつと青い森があると知つてゐた」(譯:堀口大學)が使われている。「花ざかりの森」という題名もこの詩からとられたもので、「内部的な超自然な“憧れ”というものの象徴」を意図している[2]

発表経過

1941年(昭和16年)、雑誌『文藝文化』9月号から12月号に掲載された。単行本は戦争中の1944年(昭和19年)10月15日に七丈書院(のち筑摩書房へ統合)より、処女短編集『花ざかりの森』として刊行された。同書には他に4編の短編が収録された。文庫版は新潮文庫の『花ざかりの森・憂国』で刊行されている。翻訳版はイタリアで(伊題:La foresta in fiore)行われている。

作風・構成

執筆当時16歳であった平岡公威(三島由紀夫の本名)は、リルケ日本浪曼派の影響を受けており、『花ざかりの森』の作風にも、それが表れている[3][2]

『花ざかりの森』は、「序の巻」「その一」「その二」「その三(上)」「その三(下)」の5章から成っているが、「序の巻」は、いわば『置浄瑠璃』のようなもので、荘重で「全編の意味の解明というような効果」を意図し[2]、「その一」の章は現代、「その二」は準古代中世)、「その三」は古代と近代というふうに分割され、主人公の系図(憧れの系図)に基づいて構成されていると、当時の平岡公威は自作を説明している[2]。また、「古代、中世、近代、現代の照応の為、“”をライト・モチイフに使ひ、“”を血統の栄枯」にやや関係させているとし[2]、「その一」の後段で、この作品が「“貴族的なるもの”への復古と、それの“あり方”を示すものであること」を主張させていると説明している[2]

処女出版の背景

ペンネーム「三島由紀夫」

当時、学習院中等科に通っていた平岡公威は文芸部に所属し、学内の『輔仁会雑誌』に詩や小説を載せ、その作品群は先輩(東文彦坊城俊民)からも注目され、一目置かれていた存在であった[4]。1941年(昭和16年)7月に公威は『花ざかりの森』を書き上げ、東文彦に送って感想・評価を求めたりしていた[2]

国語教師で、同人雑誌『文藝文化』の一員でもあった清水文雄は、公威から渡された『花ざかりの森』に深く感銘し、1941年(昭和16年)夏、伊豆修善寺での『文藝文化』編集会議で同人(蓮田善明池田勉栗山理一)らに、その原稿を見せた。彼らは「天才」が現われたと言って雑誌掲載を一決した[5]。雑誌掲載にあたり、当時まだ平岡公威が学習院の中学生であったことや、公威の文学活動を大反対していた父親・平岡梓の思惑などを憂慮し、清水文雄と同人たちは筆名(ペンネーム)での作品発表を提案した。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい― というのが、期せずして一致した同人の意向であった」[5]と、修善寺での同人誌合宿会議を回想している。当時、父・平岡梓は、文学をする者を「亡国の民」と呼び、息子・公威の文学活動に大反対していたため、公威は雑誌掲載や自費出版などいう言葉さえ、父・梓の前で口に出せるものではなかった[6]

清水の回想によるとペンネームの由来は、「三島」を通ってきたこと、富士山を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだことが「三島由紀夫」に繋がったという[5]。帰京した清水からペンネームを提案された公威は、一旦は本名を使うことを主張したが師の提案を受け入れて、伊藤左千夫のような万葉風の名前がよいと、「三島由紀雄」と書いた。そして、「雄」は「夫」がよいとの清水の助言を得て、「三島由紀夫」となった[7]

戦時下の刊行

雑誌掲載された『花ざかりの森』を読んでいた富士正晴が、1943年(昭和18年)8月、出版の労をとってもよいとエッセイ『林富士馬の詩』に書いた。富士正晴の友人であった蓮田善明はさっそく公威に、「京都の詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と葉書を送った[8]。しかし戦況が激しい時勢での出版統制と紙不足などで、すんなりと事は進まず、1944年(昭和19年)4月にやっと日本出版会から出版の正式許可が下りた。蓮田善明は、陸軍中尉としてすでにその前年に召集され戦地に赴いていた[7]

19歳の公威も1944年(昭和19年)5月に徴兵検査を受け、第2乙種合格となった[7]。やがて来る「死」を覚悟した公威は、その前に『花ざかりの森』を「この世の形見」として処女出版することに一層熱意を傾け、徴兵検査の帰途に尊敬していた詩人の伊東静雄宅を訪れ、序文を願い出た(結果的には断れ、序文は諦めた)。空襲で印刷所が焼けてしまう心配もあったが、10月に無事に見本本一冊が届き、それを入隊していく友人の三谷信上野駅で本を献呈した[9][8]。その後本が増刷され、11月11日に中華料理店・雨月荘で、清水文雄、栗山理一、林富士馬、母・倭文重、友人で装幀を担当した徳川義恭、七丈書院社長の渡辺新が出席するささやかな出版記念会が開かれた。この店は父・梓の知り合いで、それまで息子の文学に大反対していた父が出費した会だった[7][8]

刊行された『花ざかりの森』を、まだ三島の存在を知らない芥川比呂志吉本隆明が買って読み[8]、文学青年たちの間に、学習院出身で早熟な天才が現れたという噂が流れた[8]秋山駿も「これがあの早熟の才能ある者が書いたのかと、あちらこちらの本屋を見てまわった」と当時を回顧している[10]

富士正晴の尽力で戦時中にもかかわらず、なんとか単行本刊行ができたことについて三島は、「それは氏の無償の行為であつて、何のゆかりもない私に、急にさうして、思ひがけない機会を与へてくれた氏の厚意」だったと述べ、「いつまでも何か明るい愉しい、ふしぎな思い出」となっていると語っている[11]。また戦況が激しく、紙不足の難儀な中の印刷状況に触れながら以下のように述懐している。

七丈書院はコットン紙まがひの黄色いかなり立派な紙を使ひ、徳川義恭氏の光琳写しの原色版印刷の美しい表紙に装つて、多分やけつぱちの出版かもしれないけれど、「花ざかりの森」を出してくれた。他に本のない時代であるから、四千部が一週間で売り切れた。これで私は、いつ死んでもよいことになつたのである。 — 三島由紀夫「私の遍歴時代[11]

あらすじ

この土地へ来てから、「わたし」は過去への郷愁から、よく追想するようになった。「わたし」はときどき、遠くの池のベンチなどで、たたずみ微笑している「祖先」と邂逅する。人は「祖先」という言葉から紋付をつけた老人を想像しがちだが、そういった場合はごく稀で、「その人」は、背広を着た青年や、若い女であったりする。彼らはみな申し合わせたように地味な目立たない身なりをしていて、快活に走るように、ある距離まで「わたし」に近づいてくると、魚が「水の青み」に溶け入るように、「その親しい人」は木漏れ日に融けて紛れてしまう。

「わたし」は生まれた家を追想する。祖母、母、父。そして、憧れである祖先たちから「わたし」へとのように続く「一つの黙契」に思いを馳せる。川はどこの部分が川というのではなく、流れていることに川の永遠の意味がある。憧れはあるところで潜み、隠れているが死んでいるのではない。祖母と母においては、川は地下を流れ、父においては、せせらぎになった。「わたし」において、それが「滔々とした大川にならないで何になろう、綾織るもののように、神の祝唄(ほぎうた)のように」と「わたし」は考える。

死んだ祖母の持ち物から、熙明夫人の日記が見つかった。彼女もまた「わたし」の祖先である。夫人の日記を見ると、彼女はある夏の日に、百合の叢のあいだにきらきら光る白いものを見ていた。それは一度見たことのあるような女人であった。そしてその胸には夫人の母が身につけ、今は自分が付けている十字架が光っていた。それから半年後、熙明夫人は亡くなった。

平安末期、ある女人が情夫の殿上人へ捧げた物語がある。その殿上人も、「わたし」の遠い祖先の一人だった。女人には幼なじみの寺の坊主がいたが、この男は煩悩が捨てきれず、彼女にたびたび手紙をよこした。彼女は殿上人のつれなさや当てつけから、その幼なじみの坊主へ心を傾ける。そんな経緯から女人の物語は綴られていた。修行僧の坊主は、女人と都を出奔し、ふるさとの紀伊にやって来た。しかし女はひとり海辺に立ってから気が変り、密かに男から逃れて、京の都へ戻り尼になった。女は、「への怖れは憧れの変形ではあるまいか」などと書き記していた。

ここに一枚の写真がある。「わたし」の祖母の叔母である。彼女は幼い頃から海に憧れていた。そして、いつの頃からか彼女の死んだ兄が言っていた「海なんて、どこまで行ったってありはしないのだ。たとい海へ行ったところでないかもしれぬ」という言葉の意味がわかるようにもなってきたが、海を見ることは変らずに好きだった。彼女は伯爵である夫が死んだのち、とある豪商の求められ再婚した。南の海で仕事をしていた豪商は、東京で住いを営みたいと考えたが、彼女の強い希望で夫婦は南の海の島で暮らすこととなった。しかし、島での生活に、彼女の憧れは満たされることなく、まもなくこの夫と別れ帰国した。そして彼女は純和風な家をたて死ぬまでの40年間、一人身ののように暮した。

老いた彼女は客人(まろうど、稀人)が来ると庭に案内した。竹林を抜けた高台に立つと、そこからは海も見えた。毅然と立つ白髪の彼女の顔は涙ぐんでいるのか祈っているのか判らず、客人は、の高みが風にさあーっと揺れた瞬間に覗かれた眩ゆく白い空を見た。その時、客人は故知らぬ不安で、「死にとなり合わせ」のような感覚を味わったかもしれない。それは、回転する独楽(こま)が極まって澄むような静謐、生(いのち)の極み、いわば「死に似た静謐」ととなり合わせに感じたかもしれない。

作品評価・解説

学習院の国語教師で、同人雑誌『文藝文化』の一員であった清水文雄は、教え子の平岡公威(三島由紀夫の本名)から渡された『花ざかりの森』を初めて読んだ時の感動を、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされる実感を味わった」と表現している[5]

同じく『文藝文化』の同人で、『花ざかりの森』に感動した蓮田善明も、少年・三島の将来に期待をかけて次のように賛辞を呈した。

「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。 — 蓮田善明「編集後記」(『文藝文化』 昭和16年9月号)[12]

なお、この上記の蓮田の言葉は、その後の三島の作家活動や運命にまで影響を及ぼし[13][14]、三島死後の数多くの三島論で、それを示唆するものとして引用されている[注釈 1]

田中美代子は、『豊饒の海』のラストによく似た『花ざかりの森』の大団円は、またエピグラフに絡ってゆくと指摘し、「“かの女は森の花ざかりに死んで行った”、なぜなら、“かの女は余所にもっと青い森のあることを知っていた” から」というエピグラフの言葉と、ラストから想起されるものについて、「読者はここに展開された花ざかりの森が一場のであったことを知るのである。それはあたかも女性コーラスによるへの賛歌であり、また葬送曲であるようにも思われる。それは、静謐、その心設けだったのだろうか」[1]と論考している。

野口武彦は、日本浪曼派などの影響を受けた三島由紀夫を「ロマン主義者」と規定して、そのロマン主義的傾向を論考しながら、「ロマン主義文学ははじめから挫折を約束させられている文学」であり、「この到達不可能な高みをめざすの飛行をわれわれは“憧憬”と呼ぶ」として、『花ざかりの森』には、成就不可能と知りながら憧れずにはいられないという「両極の間を揺曳するいわば魂の振幅」の構造が備わっていると解説している[15]

この野口の論に対して小埜裕二は、「憧れの成就の永続的把握が不可能であるという意味においては正しい」としながらも、それだけでは『花ざかりの森』を十分に把握したことにはならないとしている[16]。小埜は『花ざかりの森』を、「憧れ」が成就した「一瞬間を梃子」にして、「ロマン主義の現世における不可能を可能とすることに挑んだ物語」であるとし、「憧れ」が成就された一瞬は、「“追憶”のなかで生死を超える新たな認識へと変化していく」と考察している[16]。そして物語に登場人物する「煕明夫人、平安朝の女、祖母の叔母」の三人の女たちは、「祖先に会いたい、を見たいといった純粋体験を求める」憧れを持った主体であって、「愛」や「献身」などの「純粋体験」ともいうべき出来事は、「“追憶”されることによってはじめて理解される」と解説している[16]

おもな刊行本

  • 『花ざかりの森』(七丈書院、1944年10月15日) 
    • カバー装幀:徳川義恭。紙装。フランス装カバー。本文用紙に和紙使用(若干数の洋紙刷本あり)。
      「跋に代へて」付録。中扉裏に「清水文雄先生に献ぐ」と献辞あり。
      奥付頁にある著作者略歴に「大正四年生」と誤植があり、訂正紙を貼付(ごく一部、三島自身が自筆で訂正したものがある)。
      ※ 初版4,000部が1週間で売り切れた[17][11]
    • 収録作品:花ざかりの森、みのもの月、世々に残さん、苧菟と瑪耶、祈りの日記
  • 『花ざかりの森』(雲井書店、1951年8月15日)
    • 口絵写真1頁1葉(著者肖像)あり。
    • 収録作品:花ざかりの森、岬にての物語、薔薇、接吻、伝説、白鳥、哲学、ドルヂェル伯の舞踏会、灯台、愛の不安
  • 文庫版『花ざかりの森 他六篇』(角川文庫、1955年3月30日)
    • 付録・解説:戸板康二
    • 収録作品:彩絵硝子、花ざかりの森、みのもの月、軽王子と衣通姫、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋、中世、岬にての物語
  • 文庫版『花ざかりの森・憂国――自選短編集』(新潮文庫、1968年9月15日。改版1992年3月)
    • 付録・自作解説:三島由紀夫。口絵写真1頁1葉(映画『憂国』スチール)あり。
    • 収録作品:花ざかりの森、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋、遠乗会、卵、詩を書く少年、海と夕焼、新聞紙、牡丹、橋づくし、女方、百万円煎餅、憂国、月
    • ※ のちにカバー改装。
  • 『三島由紀夫十代作品集』(新潮社、1971年1月25日)
    • 装幀:池田浩彰。口絵写真1頁1葉(著者肖像)あり。
    • 収録作品:彩絵硝子、花ざかりの森、苧菟と瑪耶、玉刻春、みのもの月、世々に残さん、祈りの日記、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋
  • 『近代浪漫派文庫42 三島由紀夫』(新学社、2007年7月)
  • 伊語版『La foresta in fiore』〈訳:Emanuele Ciccarella〉(Milano:Feltrinelli、1991年)

脚注

注釈

  1. ^ 福島鋳郎小高根二郎をはじめ、その他多数の研究者に取上げられている。

出典

  1. ^ a b 田中美代子『三島由紀夫 神の影法師』(新潮社、2006年)
  2. ^ a b c d e f g 平岡公威「東徤(東文彦)への書簡 昭和16年7月24日付」(『三島由紀夫十代書簡集』)(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)。『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)所収。
  3. ^ 三島由紀夫「自作解説」(自選短編集『花ざかりの森・憂国』)(新潮文庫、1968年。改版1992年)
  4. ^ 坊城俊民『焔の幻影 回想三島由紀夫』(角川書店、1971年)
  5. ^ a b c d 清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって」(『三島由紀夫全集1』付録月報)(新潮社、1975年)
  6. ^ 平岡公威「東徤(東文彦)への書簡 昭和16年2月24日付」(『三島由紀夫十代書簡集』)(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)。『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)所収。
  7. ^ a b c d 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  8. ^ a b c d e 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
  9. ^ 三谷信『級友 三島由紀夫』(笠間書院、1985年。中公文庫、1999年)
  10. ^ 秋山駿「『内部の人間』から始まった―秋山駿氏を囲んで―」(『三島由紀夫・禁色 三島由紀夫研究5』)(鼎書房、2008年)
  11. ^ a b c 三島由紀夫「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年。ちくま文庫で1995年再刊)
  12. ^ 蓮田善明「編集後記」(『文藝文化』 昭和16年9月号)
  13. ^ 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」(新潮 1971年2月号に掲載)。『近代作家追悼文集成(42)三島由紀夫』(ゆまに書房、1999年)に所収。
  14. ^ 小高根二郎『蓮田善明とその死』(筑摩書房、1970年。新版島津書房、1979年)
  15. ^ 野口武彦『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年)
  16. ^ a b c 小埜裕二「『花ざかりの森』の構造――方法としてのアナロジー」(『日本近代文学』第52集)(日本近代文学会、1995年5月)
  17. ^ 三島由紀夫「はじめての本―『花ざかりの森』」(週刊読書人 1964年2月3日号に掲載)

参考文献

  • 自選短編集『花ざかりの森・憂国』(自作解説 三島由紀夫)(新潮文庫、1968年。改版1992年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第15巻・短編1』(新潮社、2002年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第32巻・評論7』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
  • 『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)
  • 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
  • 小高根二郎蓮田善明とその死』(筑摩書房、1970年。新版島津書房、1979年)
  • 『近代作家追悼文集成(42)三島由紀夫』(ゆまに書房、1999年)
  • 田中美代子『三島由紀夫 神の影法師』(新潮社、2006年)
  • 小埜裕二「『花ざかりの森』の構造――方法としてのアナロジー」(『日本近代文学』第52集)(日本近代文学会、1995年5月)
  • 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
  • 『三島由紀夫・禁色 三島由紀夫研究5』)(鼎書房、2008年)

関連事項