綾波 (吹雪型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Tankernisseimaru (会話 | 投稿記録) による 2011年11月19日 (土) 05:51個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎参考文献)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

綾波
艦歴
発注 昭和2年度艦艇補充計画
起工 1928年1月20日
進水 1929年10月5日
就役 1930年4月30日
その後 1942年11月15日戦没
除籍 1942年12月15日
性能諸元
排水量 基準:1,680t 公試:1,980t
全長 118m (水線長:115.3m)
全幅 10.36m
吃水 3.2m
機関 ロ号艦本式缶4基
艦本式タービン2基2軸 50,000hp
速力 38.0ノット
航続距離 14ktで5,000浬
乗員 219名
兵装 50口径12.7cm連装砲 3基6門
13mm単装機銃 2挺
61cm3連装魚雷発射管 3基
第3次ソロモン海戦第2夜戦図。サボ島の位置と矢印位置が若干ずれている。本来はBCの間にサボ島がある。

綾波(あやなみ)は大日本帝国海軍駆逐艦。特型駆逐艦(吹雪型)の11番艦。その名を持つ艦としては2隻目。

特型駆逐艦の11番艦であるが、実質吹雪型の改良艦となっており"特型II型駆逐艦(綾波型)"という分類に属する一番艦である。吹雪型(I型)との違いは主に煙突の形状の違いや、主砲のタイプの違いである(⇒参照:吹雪型駆逐艦)。

艦歴

大阪の藤永田造船所1928年(昭和3年)1月20日に起工、1930年4月30日に竣工した。第四艦隊事件などの教訓から主砲の換装等重心低下の為の改装を経て、太平洋戦争では第1艦隊第13水雷戦隊に所属し、数々の戦闘に参加している。1941年(昭和16年)12月19日には「浦波」及び「夕霧」とともにオランダ海軍の潜水艦O-20を砲撃によって撃沈している。また、1942年(昭和17年)にはインド洋での上陸作戦などを支援した。それ以降はガダルカナル島への輸送任務に従事している。

第三次ソロモン海海戦

「綾波」の名を高めたのがこの海戦である。

1942年11月14日から翌日にかけて行われた第三次ソロモン海戦の第二夜戦で「浦波」、「敷波」とともに第2艦隊第3水雷戦隊に所属していた「綾波」はガダルカナル島(図の下側の陸地)飛行場砲撃に向かうため、近藤信竹中将の麾下、戦艦霧島」と「高雄」「愛宕」の重巡2隻の射撃隊(図でE)、軽巡「長良」以下駆逐艦6隻の直衛隊(図でD)、そしてこの2隊の前路警戒にあたるための掃討隊として、軽巡川内」以下「綾波」、「敷波」、「浦波」の計4隻でサボ島(図の左上の小島)付近を航行していた。間もなく掃討隊はサボ島近海の哨戒にあたるべく、「川内」「綾波」がサボ島の西側へ、「敷波」「浦波」がサボ島東側へと2つに分離した。

ところがここでサボ島東側を航行していた「浦波」が単縦陣でサボ島南水道を西に向かって航行する敵艦隊らしきものを発見。「川内」に報告すると共に追尾を始めた。これが戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota, BB-57)、戦艦「ワシントン」(USS Washington, BB-56)を含む米主力艦隊(図でA)であった。「綾波」と航行していた「川内」は「浦波」隊支援のため分離、サボ島北側を通って「浦波」隊に合同すべく急速に「綾波」から離れていった。

こうして「綾波」のみで当初の予定通りサボ島西側を哨戒航行することとなり、予定では「綾波」(図でB)は単艦でサボ島南側を回って掃討隊主隊(図でC)と合同するはずであった。

そしてこの分離が「綾波」の運命を決めることとなる。

21時16分、サボ島南水道に進入した「綾波」の見張員が艦首方向右寄り距離8000に単縦陣で航行する米艦隊を発見。この時点で既に米艦隊と交戦していた掃討隊主隊の「川内」から日本艦隊全艦へ通報した"敵艦隊発見"の報告が綾波には届いていなかった(サボ島に電波が遮られたものといわれている)。即座に艦長作間英邇中佐が「右砲戦、右魚雷戦」を命じ、主隊に「敵は駆逐艦4隻、重巡1隻」(戦艦の誤認である)と通報した上で30ktに増速して突撃を開始した。 この時「綾波」にとって不運だったのがサボ島東側に展開していた掃討隊主隊の「川内」以下3隻が形勢不利とみて一時後退を始めた直後だったことである。従って「綾波」は戦艦2隻駆逐艦4隻の米艦隊に対し単艦で突入する格好になってしまったのである。

突撃してきた「綾波」に気づいた米艦隊が砲撃を始めた直後、距離5000になったとき艦長は砲撃開始を下令。初弾が敵3番艦「プレストン」(USS Preston, DD-379)を捉えさらに敵一番艦「ウォーク」(USS Walke, DD-416)にも命中。火災を発生させた。

一方で「綾波」は敵艦隊から集中砲撃を浴びたため第1煙突に命中した一弾によって魚雷発射前に1番連管が故障、3本の魚雷の詰まった発射管は艦軸線を向いたまま旋回、発射不能となり、同時に左舷に積んでいた艦載内火艇のガソリンタンクから発生した火災によって魚雷が炙られる状態となった。艦長は攻撃可能な2番、3番連管による攻撃を下令。この発射した魚雷が「ウォーク」の艦首部に命中。前部主砲弾薬庫を誘爆させ、「ウォーク」はそこから艦体が2つに折れ轟沈してしまった。さらに2番艦「ベンハム」(USS Benham, DD-397)艦首部にも命中。同艦は艦首が潰れて航行不能となり艦隊から落伍した。「ベンハム」は翌15日、応急修理に成功して5ktでエスピリッツサントに向かうも昼過ぎに再び破口が開いて沈没する。

こうして戦果は挙げたものの、米艦隊による反撃で「綾波」は次々と命中弾を受け2番砲塔は被弾し沈黙、さらに機関室に2発被弾して航行、操舵共に不能となってしまった。ここでようやく別働隊である直衛隊の軽巡「長良」以下駆逐艦「五月雨」「」「白雪」「初雪」の計5隻(「朝雲」「照月」は射撃隊の直衛で分離)が戦場に到着する。ここでも激しい戦闘が繰り広げられたが米艦隊の3番艦の「プレストン」は「綾波」の砲撃による火災が酷く、日本艦隊の格好の目標となり航行不能となって間もなく沈没してしまった。さらに直衛隊は4番艦「グウイン」(USS Gwin, DD-433)を中破、艦隊から落伍させる。

この後さらに「霧島」と「サウスダコタ」、「ワシントン」による戦艦同士による砲撃戦が行われることになるがここでは割愛する。

被害甚大となって漂流を始めた「綾波」ではあったが、喫水線下への被弾はなかったため浸水はしなかった。しかし上甲板の火災は既に消火不能となっており、魚雷の誘爆は時間の問題と見た艦長は総員退艦を下令。生存者は全員海へ飛び込み救助に駆けつけた浦波に収容された。「浦波」に生存者全員が救助された直後、遂に魚雷が誘爆。2度爆発した後綾波は沈んでいったという。戦闘での戦死者は約30名。浦波に収容された後に死亡した者も含めて戦死者は42名であった。生存者の一部はガダルカナル島へ渡った。

沈没後に漂流していた兵士たちの士気は、大戦果を上げた(その当時は「綾波」と刺し違えに敵艦3隻を撃沈し、そのうち1隻は重巡洋艦だったと戦果を誤認していた)ため非常に高揚しており、沈没前に爆雷へ安全装置をつけて海に沈め、浮遊物を散々投げ込んだ後、海に飛び込んでいるから溺死、圧死の心配もなかった。そのため自艦が沈没したにもかかわらず漂流中に軍歌を合唱している兵士たちもいたほどだったという。

戦果

  • 日本艦隊の中では際立つ、日本艦隊の戦果(撃沈破4)の半分を単艦で挙げ、活躍をした。戦艦を含む敵艦隊に単艦で挑み、敵駆逐艦2隻を屠り、1隻を大破させ、戦艦サウスダコタの電気系統を断ち切り(「重巡」撃沈と判断した「重巡からの砲撃が止んだ」(実際はサウスダコタの両用砲だと思われる。)から。ただし明確な根拠が無いので異説扱い。)一時砲戦不能にさせたという、駆逐艦1隻としては異例の大戦果を挙げた。
  • 自身は沈んだものの、それだけの奮戦に関わらず乗員の生存者が極めて多かった。乗員の8割以上が生還している上、特に艦長が生還したことにより、その証言が公になっている。
  • 近藤中将の拙劣な指揮が目立ち、リー中将の名を上げる戦いとなり、日本軍は戦艦「霧島」を失い、さらにレーダー射撃の有効性を実証させてしまう戦い(これが後にスリガオ海峡海戦等の夜戦での日本海軍の一方的な敗北に繋がる)となったという、戦没艦の数以外では米軍に軍配の上がった(日本軍の戦術的勝利、米軍の戦略的勝利、総合的に見て米軍の勝利というのがこの海戦の一般的評価)この戦いで、際立った活躍をした。

等が挙げられる。

歴代艦長

艤装員長

  1. 後藤鉄五郎 中佐:1929年11月30日 -

艦長

  1. 後藤鉄五郎 中佐:1930年4月30日 -
  2. 河原金之輔 中佐:1931年12月1日 -
  3. 藤田俊造 中佐:1933年11月15日 -
  4. 崎山釈夫 中佐:1935年11月15日 -
  5. 杉野修一 中佐:1936年12月1日 -
  6. 白石長義 少佐:1937年11月15日 -
  7. 原為一 中佐:1938年12月1日 -
  8. 有馬時吉 少佐:1939年11月15日 -
  9. 作間英邇 中佐:1941年9月12日 -

参考文献